屋島に咲く

モトコ

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解纜(かいらん)

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 翌朝。ごうごうという凄まじい音で、義経は飛び起きた。荒々しい風が建物を揺すっている。蔀戸をこじ開けると、すぐさま大粒の雨が額や腕を叩きつけた。

 いよいよ出航という日になにごとか。

「嵐です」

 慌ててやってきた継信が、義経の顔をみるや叫んだ。

 二月十六日、西海を嵐が襲った。湿り気を帯びた南西の風が吹き荒れて、海は大時化おおしけとなった。踊り狂う高波に、あれほど堅牢そうに見えた舟が笹舟のように弄ばれている。

 港では浮夏が水夫たちとともに、縮帆したり、綱を補強したりと慌ただしく働いていた。しかしそれも虚しく、もっとも風を受けやすい位置に停泊していた舟が、みしみしと音をたてて転覆した。

 義経は、その様子を見ていることしかできなかった。

 馬や武器などの積み荷を降ろし終えていたから良かったものの、まだ積みこんだままとなっていた兵糧の一部は波に飲まれてしまったようだ。

 混乱する兵たちをなだめていると、伊勢三郎が義経の肩を叩いた。国衙の役人がやってきて義経を探しているという。聞けば、後白河法皇の使者である高階泰経たかしなやすつねが、摂津国衙に来ているとのことだった。

 この忙しいときに面倒な。

 景時との軍議を終えたあと、義経は院の近臣に宛てて十六日に出航する旨を伝えていた。それで使者がやってきたのだろうが、この期におよんでなんの用があるというのだろう。まさか見送りというわけでもあるまいに。

 とはいえ無碍にできる相手ではないため、義経は暴風雨のなか国衙へと向かった。びしょ濡れの姿のまま現れた義経に、高階は面食らったようだった。

「この風雨では直垂をいくら替えてもすぐに濡れます。お見苦しい格好ではありますがご容赦ください」

 笠をとり、頭を垂れて丁寧に詫びると、その表情が柔和なものとなる。これだから貴族は――義経は内心舌打ちをした。室内にあがりたかったが床が濡れて傷むため、坪庭に立ったままである。

「お忙しいなか面目ない。しかし嵐がきてくれて良かったです」

 高階が言う。なにが良かったというのだろうか。高階が伝えたいことを義経は察した。おそらく、院がまたわがままを言っているに違いない。

「判官殿がおられぬと、都は荒んでしまいますから」
「お言葉ですが、このひと月のあいだに都で合戦がありましたか」
「都で合戦があったかなどと、恐ろしげなことを」
「であれば、わたしがすぐに戻る必要はありませんよね」
「三河守が九州から引きあげるという話だそうですけれど」

 高階の口からもたらされた言葉に、義経は息をのんだ。

 先日、景時と会ったときに、そのような話は聞いていない。その後、情勢が変わったとしても、景時ならばなにかしら報せを寄こすだろう。再び息を吸って、吐きだす。ここは都の噂よりも同志を信じるべきだ。

「そのような話は、わたしは聞いておりません」
「しかし院が」
「この戦を早々に終わらせて、日の本を安定させねば、真の安寧は訪れますまい」
「それはそうですが」
「手間取らせません。四国にて平家を討伐したのち、京に戻ります」
「いつごろ」
「弥生には」
「判官殿! 舟が!」

 坪庭に、伊勢三郎が慌てた様子で駆けこんできた。

「舟がもう、保もちません!」
「どのくらい残ってる」
「半分はやられました。のこりの半分を、兵たちも混じって渚に一度引き上げようとしてますが」
「わかった。すぐに行こう」

 唾を飛ばす伊勢三郎を制して、義経は笠をかぶった。

「お待ちください、判官殿。この嵐のなか海に出ようというのですか?」

 義経と伊勢三郎のやり取りを見ていた高階が、慌てふためいた。

「判官殿の身になにかあったら」
「なにかあっても、替えはいくらでもいるでしょう」

 腹のうちでは、そう思っているくせに――という言葉を飲みこむかわりに、義経は高階に背を向けた。横殴りの雨が遠慮なく義経を叩く。笠をかぶっていても、あまり意味がないかもしれない。国衙の敷地から出ると、義経は笠をかなぐり捨てた。

「助かった」
「なんの。でも、舟がもたねぇっていうのは本当です」

 伊勢三郎が、へらりと舌を出す。高階に苛立つ義経を気づかって、無理に割って入ったのだ。この男とのつきあいも、それなりに長かった。見た目が粗野で、素行があまり良くないため、高階のようなものにとっては、とくに恐ろしげに見えるだろう。

 港に戻ると、阿万六郎が舟の固定に手を貸していた。波しぶきをかぶりながら綱を引き、水夫たちになにやら指示を飛ばしている。水夫たちに混じって、渡辺胒や弁慶といった舟の扱いを心得ている兵たちもいた。みな必死の形相であった。

 義経の姿をみつけて、男たちに混ざって綱を引いていた浮夏が、駆け寄ってきた。

「こりゃあだめだ、面目ない」
「いえ、すべては予期せぬ荒天のせいで」
「いや、あたしの読みが甘かった。昨夜の時点でもっとしっかりやっておけば」

 浮夏が下唇を噛んだ。雨に濡れているせいで判然としないが、泣いているのかもしれないと義経は思った。

「過ぎたことを言ってもしかたがありません」
「こいつは春の大風だよ。このあたりでは冬と春の境目に、こういう湿っぽい大風が吹くのさ。きっと雨は夜にはあがる。風は残って海は明日も荒れると思う」
「雨がやんだら出られますか」
「それは」

 言いよどむ浮夏の肩に、いつのまに来たのか阿万六郎が手を置いていた。全身ずぶ濡れで、直垂を両肩脱ぎしている。舟の固定が終わったのだろう、作業をしていたものたちも、みな近くの建物の軒下へと避難しはじめていた。

「出ましょう」
「でも」
「お前はこっちに残れ。おれが行く」
「は……はぁ? 別に怖じ気づいてなんかないよ、あたしは」

 浮夏が阿万六郎を睨んだ。

「あたしだって嵐の海を知らないわけじゃない。このくらいの荒波なら何度か出たこともある。でも今回は身内だけが乗るわけじゃないんだ。だから」
「別にお前の腕を疑ってるわけじゃねぇよ。おれがこっちに残ったところで、なんの役にもたたねぇって言ってんの」
「……それは一理ある。あんたにしては賢い」

 阿万六郎が照れ隠しなのか、そっぽを向いた。

「わかった。この天候だって昨日あんたが言ったとおりにしておけば、ここまで舟を失うことはなかった。あたしの未熟さが原因だ」
「いや、昨日のおれのは勘だけどな」
「その勘が海では一番大事だろう」

 浮夏が濡れた髪を絞った。日に焼けた健康的な首筋が晒される。義経は、思わず視線を逸らした。

「責任はとるさ。これじゃあ今夜でるっていったって、すべての兵馬は乗せられない。ひっくり返った舟を引きあげて、立てなおしてから追いかける。それでいいかい」
「であれば、ぜひこの港に残っていてほしい」

 義経は、やっとの思いで口を挟んだ。

「どういうこと」
「四国にいる平家の水軍が、わたしたちが出航したあと、この港を襲う可能性も、ないわけではありません。梶原殿の率いる舟団が播磨から、それを警戒しながら渡海する手はずになっていましたが、この嵐で立ち往生しているとも限りませんから」
「梶原殿の舟は、すべて播磨にあるのかい」
「わかりません。本体は九州から来るはずです」
「九州からか」
 阿万六郎と浮夏が苦々しい表情を浮かべた。
「先日紹介した渡辺眤殿を、こちらの港に残していきます。あとは連れて行けなかった兵も。護りをお願いできますか」
「女だからって舐めんなっつぅの」

 浮夏が、にかっと笑って義経の背後を指さした。振りかえると多くの兵たちが、どうしたものかというような表情で義経を見つめている。

「聞いてくれ」

 義経は手をあげて皆の視線を集めた。

「今朝の出航はこのとおり不可能だ。だが我々は出陣の遅れを許されない。このような好機は、逃せば二度と訪れないだろう。阿波国で、いまもひと知れず戦っている味方の命のこともある」

 目の前で弁慶がうなずいた。阿波の近藤親家と実際に会い、その窮状をだれよりも理解しているのは、この男である。

「無事、沖に漕ぎだすことができそうな舟が五艘ある。雨があがり、帆をおろして風をうけることができれば、我々は屋島に攻め入ることができると信じている」

 ちりちりと、こころが荒んだ。言葉で他人を操ろうとする自分に、つくづく嫌気がさした。自分が忌み嫌う武士たちの生きかたを、利用しようとしている。

「しかしながら、当初の二百騎は五艘では一度に運べない。そのため少数で行くしかない。少数で敵地に乗りこむうえに、沖も波が高く、そもそも舟が無事に着くともかぎらない。正直に言おう。死に行くようなものだ」

 ああ、反吐がでる。それでも義経の立場では鼓舞しなければならない。

「よって、我こそはという命知らずの兵のみ、わたしの前に出てきて欲しい」

 義経の言葉を受けて、佐藤継信、忠信。伊勢三郎、弁慶といった、いつも義経につき従っているものたちが、ささっと前に歩み出てきた。それ以外のものたちは、さすがにしんと静まりかえっている。

「おれも行こう」

 ややあって、一人の男が名乗り出た。金子十郎家忠かねこじゅうろういえただである。保元の乱に初陣したという、武勇の誉れ高い男だ。京都から来たものたちは若武者が多かったが、なかにはこの金子十郎のように、さらに武勇を轟かせんと乗りこんできた歴戦の猛者もいた。

「五十に近い老いた身なれば、いまさら死など恐れんさ」
「心強いです」
「判官殿にそう言われて、奮わぬ武者はおらんでしょう」

 金子十郎が豪快に笑った。その言葉につられるかのように、数名の兵が前に出てきた。

「舟奉行も阿万殿だけでは荷が重い。おれが行こう」
「名を」
淀江内忠景よどごうないただかげ。この港で誰よりも、このあたりの潮流を知っているのはおれだ」

 弓のかわりに櫂を担いだ若い男が歩み寄ってきて、阿万六郎の前に立つ。

「阿万殿、いいようにおれを使ってくれ」
「かたじけない」

 緊張と重責で強ばった顔をしていた阿万六郎が、人懐っこい笑顔を見せた。

「それにあんたの女、かっこいいからよ。いいとこ見せて口説きたいんでね」
「あたしこっちに残って舟の修繕とかしなきゃなんだけど」
「ええっ」

 目の前で妾を口説かれた阿万六郎以外、そこにいたものたちがどっと湧いた。これで場の空気がほぐれたのか、我も我もと兵が名乗りでて、五十騎近くが義経の前に膝をつく。志願者が出そろったかと思われた、そのときだ。

「おれも行かせてください!」

 声をあげた若者がいた。

「おれが叔母の言うがままに、判官殿のことを報せていたから、判官殿にご苦労をかけることになってしまいました。本当に、なんと言っていいか」

 田代冠者だった。膝を折り、地面に額を擦りつける。

「そんなに気に病むことはない」

 義経は驚いて、田代の肩に手をおき顔をあげさせた。

「むしろそれを気にしてのことであれば、無理はしないほうが」
「違います。おれが、あなたの活躍に憧れているのは本当です」
「そうであれば、これほど頼もしいことはないさ」

 手をさしのべると、田代冠者が義経の手を両手で握った。吹き荒れる風のなか、五十騎の熱気は飛ばされることなく、その場にあり続けた。

 深夜になって雨があがった。港に残る浮夏が解纜かいらんし、篝火を灯した五艘の舟が出航した。





※解纜=舟のともづなを解いて出発すること。
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