屋島に咲く

モトコ

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春の嵐

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 二月十六日。風がごうごうとうねっている。並べられた掻盾や逆茂木が、いとも簡単に吹き飛ばされて転がった。

 春の嵐だ。

 昨晩おそくから吹きはじめた大風は、朝には雷雨を伴うものとなっていた。大粒の雨が、城の垣根や蔀を容赦なく叩いている。

 増水した肱川の水流に、田口の軍舟がひっくり返されたり流されたりしていた。本陣はあっけなく水没し、濁流が河岸沿いの田畑にまであふれていた。

 この日、かねてより軍議を招集していたために、城には景高、景平をはじめ、主だったものたちが集まっていた。荒天のなか七郎も久しぶりに姿を見せていた。田口の兵が大風で混乱しているので、単身潜りこむのはさほど難しくはなかったという。

 通信は七郎を労うと、すぐさま海の様子を聞いた。七郎曰く、海は高波がひどく、できる限りの対策は施してきたが、もはやなるようにしかならない。むしろひとが波に浚われかねないので、水夫もみな高台に避難させてきた、とのことだった。

 軍議には梶原友景も参加していた。野営地から来た友景は、気の毒に思えるほどに全身ずぶ濡れであった。横殴りの雨で蓑も笠もまったく意味をなさなかったらしい。通信は手を打って、城内の雑人に乾いた布を持ってこさせた。

「どうも田口教能は阿波に帰還したらしい」

 濡れたままの直垂を絞る間もなく、友景が言った。

「この大嵐だ。奴らの本陣を見たろう。陸路で帰ることができるものは、被害が大きくならないうちに撤退したんだろう」

 友景が話しているあいだにも、郎等らが甲斐甲斐しく体の水を拭きとっている。

「まあ、田口教能の撤退はいいとして、いまだこの城をかこんでいるあれらは?」
「帰れなくなったんじゃねぇの。舟で来たからあし馬がねぇとかそういう」

 横から景高がひょいと口を挟む。

「しかし、ちょっと困りましたね。彼らも田口教能と同時に撤退してもらわないと。田口を追う形でないと、こちらの水軍が出せません」

 信家の言葉に、座についている一同が呻いた。

「嵐がおさまれば奴らは順次撤退するでしょう。それにこの嵐では兄の率いる九州の水軍も、被害を受けているかもしれません」

 友景の冷静な分析に、通信は首を縦に振った。

「ちょいと予定が後ろ倒しになるってか? でもそれを伝える術がもうねぇわな」
「九郎判官は」
「さぁ……どうでしょう」

 義経の名前を出した通信に、友景が曖昧な表情を浮かべる。

「あっちの水軍、淡路の梶取なんだけれど、どうすると思う」

 通信は七郎に話を振った。海のことは、この男がもっとも当を得たことを言う。

「淡路の――ようは、地元の馴れた航路を行くってんでしょ? なら、意地になって出航するかもしれねぇです」
「お前、おれが出せっていったら、どんな高波でも舟を出すかい?」
「西海ならやります」

 再び一同は沈黙した。

 義経の役割は陸地から屋島の平家を攪乱することである。それは沖から来る味方の水軍を頼りとした遊撃部隊ということでもあった。つまり後援が遅れれば遅れるほど、義経たちが危険にさらされるということでもある。

 屋島で義経が討たれてしまったら、西国の源氏に味方する軍勢の士気は一気に下がるだろう。そして四国の平家方は息を吹きかえし、次々と勢力を増していく。それは通信にとっては痛手でしかない。

「では、こちらはやはり予定どおり十八日には出航しなければならないということか」
「嵐が通りすぎ次第、一気に追い立ててみましょうか。所詮、将のいない軍勢ですから散り散りになると思います」

 友景が言った。

「じゃあ頃合いを見計らって、おれらが兵をまとめて海岸のとこまで引っぱっていきゃぁいいってこと?」
「兵たちには、すぐにでも城を発てるように準備をさせてあります」

 景高の問いに、信家がうなずく。

 やることは決まった。想定外の嵐ではあったが、もしこの嵐がなければ通信たちは土佐勢とともに、田口の軍勢と決戦をする覚悟であったから、むしろ良かったのかもしれない。

 ただ、覚悟を決めていた気持ちの置き所がなくなって、少しふわふわとしていると思う。出鼻をくじかれた、とでもいうものだろうか。烈風が、あざ笑うかのように轟々と蔀を叩いた。

 その後、座にいた一同は翌日の戦勝を願って、ささやかに杯を重ねた。肴は軽く干した魚である。七郎の持参した海の幸に、通信は舌鼓を打った。

 ほろりと酔いが適度にまわり、皆が充実した気持ちになっていた頃。急に城内に兵たちの喚く声が響いた。信家が短刀を手にして腰をあげる。敵が攻めてきたのかと全員が体を硬くした、そのときだ。

 庭に面している蔀戸がこじ開けられた。すぐさま大粒の雨が室内に吹きこんでくる。雨粒を払いながら庭に目をやると、全身ずぶ濡れの兵と女が、泥にまみれることも厭わずに平伏している。高縄城からの伝令兵だった。兵は、緊急のために馬を潰しかけながら駆けてきたのだと言った。

 薄気味悪い黄色い空に、紫がかった黒雲が風に蹴散らされて筋を引いている。なんとも不穏な空模様であった。吹き荒れる風はいまだおさまらず、柱がぎしぎしと悲鳴をあげている。

 通信は、板の間が濡れるのも構わずに、兵と女を室内に上げてやった。蔀が開いていると、酔いが風に浚われてしまいそうだったからだ。

「高縄城が軍勢に包囲されました」
「え」

 伝令兵の言葉に、通信は息をのんだ。帰還しがてら田口教能が報復に高縄城を攻めたのか。否、動きが早すぎるだろう。高縄城からここまで、この伝令とて一日は駆けてきたはずだ。いまさきほど撤退した田口勢が、城を包囲したとは考えにくい。

「どこの手か」
「新居の軍勢です」

 田口教能が撤退したと思えば、今度は新居玉氏か。信家と忠員が、苦々しい表情を浮かべていた。

 これまでは無益な争いを避けようと、玉氏の娘の美津と通信が婚姻関係を結ぶことによって、両氏間での均衡を保っていた。しかし新居の親戚でもある高市を破り、比志城に籠もる通信を、さすがの玉氏も見逃せなくなったのだろう。あるいは平家から圧力があったのか。

 それに美津と離縁したいま、通信と玉氏とのあいだには、なんの繋がりもなくなっている。玉氏が高縄城を攻めるのは、考えてみれば自然なことでもあった。

 高縄城には籠城の構えがある。構えがあるとはいっても、数少ない兵しか残っていない高縄城で戦う気など通経にはないはずだ。数日、思わせぶりに軍勢を引きつけたら、さっさと裏手の山に逃げこんで落ちのびるつもりだろう。あの山にはそういった逃げ道や、隠れ場所となる獣道や洞窟がたくさんある。

「それで、その……奥方様のことをどうしましょうやと」
「いまなんて」

 伝令兵の背後に隠れていた女が、通信の足もとに擦り寄ってきた。どこかで見たことのある顔だ。たしか美津に仕えていた侍女のうちの一人だったか。

「旦那様。わたくし萩野が恐れ多くも、もうしあげます」

 侍女――萩野は額を床にこすりつけた。かぼそい声はうわずって、細い肩が小刻みに震えている。雨に濡れてこごえているのだろうか。

「どうぞ、奥様をお助けください」
「どういうことか。奥はもう新居殿のもとに」
「いいえ、いいえ。まだお城にいらっしゃいます」

 萩野が通信を見あげた。

「新居殿は、とにかく娘を返せと通経様に書状を送ってきております。しかし、奥様は通経様の説得には応じず」
「だから、おれは、あのとき、実家に帰せとお前たちに命じただろうが!」
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