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春の嵐
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通信の怒声に驚いた萩野が、びくりと跳ねて、さらに小さく縮こまる。
「それで、どのような状況だ」
可能な限り声を落として、通信は伝令兵に語りかけた。
「新居の軍勢が引くとも思えず、しかし後詰めの頼りもありません。いまは膠着しておりますが長引けば不利でしょう。御館の軍勢が向かってくださるのであれば、あるいは」
通信は呻いた。幸いここに残っている田口勢に大将格はいない。嵐のなかを押しとおして、高縄城を助けに向かうことは可能だろう。
通信が、景時や義経との約束を反故にすれば。
いずれにせよ向かったところで、高縄城は激戦となる。美津は耐えられるだろうか。無理だろう。足手まといになるだけだ。本来であれば、さっさと逃げるつもりであった通経も、美津を連れていてはままならないと思い、城に留まっている。
美津は通信の妻である。本来、通信のいない高縄城において、通経よりも美津のほうが権力を持っている。いままでは美津がまったく口を挟まなかったので、通経が城内のすべてを奉行していた。しかし美津が通経の言うことを聞けないとはねのけたら……生真面目な性分の通経は、美津を無碍にはできないだろう。
「奥様を説得できるのは、旦那様しかございません」
通信は声にならない声を吐き捨てた。すべてを散らかしたまま、どこかに逃げてしまいたい。天候が荒れなければ。あの女が余計なことをしなければ。すべては想定のとおり、うまくいっていたはずである。
なにをどうしていいのか、わからなかった。すべてがどうでも良いことのように感じた。
無言で萩野の前から立ち去ろうとして、信家に肩をつかまれた。
「殿、それは」
その手を振り払った。
おれは一人しかいないのだ。この体は二つにわかれて動くことはできない。
「おれは、屋島へ行く」
「え、でも御館」
「たかが女一人、さっさと去ねばよい」
「弟君は」
「あれは覚悟をしているだろうさ」
通信の目を見て七郎が口を噤んだ。すぅっと、こころが冷たくなっていく。もうだれのことも知らない。伊予のことなんてどうでもいい。おれはなにも悪くない。
踵を返した瞬間、左顎に鋭い衝撃がはしる。視界の端に、目をつりあげた景高の姿が見切れた。
「いい加減にしろ!」
景高の怒号に信家が短刀を抜く。いまにも景高を刺し殺してしまいそうな形相である。通信は後ろ手で信家を制して、景高を睨めつけた。
「平次には関係ない」
「ああ、関係ねぇし、いまいち知らねぇけど。でも、なんもかんも知らねぇって仲じゃねぇだろうが」
景高が甲高い耳障りな声で吠えた。
「頭冷やせ、馬鹿か。まず順序立てて考えようや」
「無理なものは無理でしょ」
「どっちかを棄てたなら、お前、そんなの当主でもなんでもねぇわ。投げんな。そういうのは背負ったまんまで、しゃかりきやってみせろよ」
無責任な景高の言葉が通信を刺した。かっと頭に血がのぼり、全身の毛という毛が逆立ったのではないかとすら思った。
「自分がそういう立場じゃないからそう言えるんでしょ」
「は」
「うっさいんだよ! それはてめぇの理想だろ。ちょっと黙ってろ。おれが決めることだ」
堰を切ったように言葉があふれる。自分をここまで追いこんだものは、すべて殴り壊して粉々にしてやろうと、通信は息を吐きながら拳を握った。
「だから、なんでひとの話を聞かねぇんだよ。ここにいる連中が、いまのお前をどう思うかって言ってんだろ、おれは」
「おれの顔に泥を塗ってんのは、てめぇだろうが」
「お前、だいぶ頭いかれてんな」
「ちょっと待って」
唾を飛ばしあう通信と景高のあいだに、景平が割ってはいった。
「いま、それを話している状況?」
景高が視線を逸らした。舌打ちをして背を向けると、首筋をかく。
「平次が言いたいのは、どうしたいのかを伝えろってことなんじゃないの」
「……」
「そうでしょ。じゃあ、やりかたが違うよね。四郎を追いつめたいわけじゃないでしょ」
普段は気怠そうに喋り、口数の少ない景平にしては、いつになくはっきりと言った。
「四郎も四郎でしょ。売り言葉に買い言葉で、なにが生まれるの。いや、わかるよ。それが弱みになるんじゃないかって思ってるんだろうけども。でも、おれたちってそういう間柄だったの?」
「おれは四郎の言いなりにはなれない。なる気もない。おれはおれだ。お前の家臣じゃねぇ。でも、できることはあると思ってる。くそっ、見くびってんじゃねぇぞ、言わせんな、ばか」
景平と景高にたたみ掛けられて、通信は歯を噛みしめた。二人の態度はこの上なく無遠慮であると感じる。しかし、どこか暖かかった。いままでに感じたことのない感情に、胸が詰まる。横目で信家を見ると、すでに短刀を鞘におさめている。信家は通信の視線に気がつくと、ゆっくりとした動作でうなずいた。
「聞かせてくれ」
そう呟いた景高は、どこまでもまっすぐだった。飾り気のない言葉が、自然と頑なだった通信のこころをほぐしていく。頭のてっぺんから爪先までぶれのない男だな――おもわず苦笑していた。笑った通信を見て、景高が気恥ずかしそうに睫毛を伏せた。
「妻は実家の新居に帰したい。その上で、新居殿と話ができるのであれば一番いい」
美津の独断とはいえ、もとはといえば、きちんと美津のことを把握していなかった自分が蒔いた種である。通信は深々と頭を下げた。ここにいるすべてのものたちに、ただただもうしわけがなかった。頭を下げる通信を見て、場が水を打ったように静まりかえる。
「夜通し駆けたら明け方には着くんじゃない? おれがついていくよ」
真っ先に沈黙を破ったのは景平だった。
「七郎。お前、こちらで屋島に向かう兵たちを乗せた後、舟を風早の港に回して、そこで殿を出迎えることはできないか」
忠員がそれに続く。
「そのくらい、お安いご用ですよ」
七郎が答えた。
「どうか大内殿、殿の護衛を頼みます。わたしはこちらに残り、兵たちをまとめます」
「はい、白石殿。あなたに任されるとは光栄です」
信家が忠員に満面の笑みを向けた。
「この城のことはおれたちに任せろ。なあ叔父貴。派手に暴れようぜ。あんな残党、蹴散らしてくれるわ」
景高の横で友景が、あきれたように口を開けている。友景はそういう表情をしていると、兄の景時によく似ていた。
「幸いにも敵大将の田口教能は、すでに居ない。そう大きな戦闘は起こらないだろうし、はるばる土佐から来た兵も、少しは手柄を立てたいと思っているだろうしな」
「この城にいるお前の兵は、必ず屋島に行けるようにしてやっから。おれたちを信じろ」
景高がにかっと笑って手をあげた。その掌を、通信は無言で叩く。呆然と立ちつくす伝令兵の横で、萩野が嗚咽を漏らしていた。
「それで、どのような状況だ」
可能な限り声を落として、通信は伝令兵に語りかけた。
「新居の軍勢が引くとも思えず、しかし後詰めの頼りもありません。いまは膠着しておりますが長引けば不利でしょう。御館の軍勢が向かってくださるのであれば、あるいは」
通信は呻いた。幸いここに残っている田口勢に大将格はいない。嵐のなかを押しとおして、高縄城を助けに向かうことは可能だろう。
通信が、景時や義経との約束を反故にすれば。
いずれにせよ向かったところで、高縄城は激戦となる。美津は耐えられるだろうか。無理だろう。足手まといになるだけだ。本来であれば、さっさと逃げるつもりであった通経も、美津を連れていてはままならないと思い、城に留まっている。
美津は通信の妻である。本来、通信のいない高縄城において、通経よりも美津のほうが権力を持っている。いままでは美津がまったく口を挟まなかったので、通経が城内のすべてを奉行していた。しかし美津が通経の言うことを聞けないとはねのけたら……生真面目な性分の通経は、美津を無碍にはできないだろう。
「奥様を説得できるのは、旦那様しかございません」
通信は声にならない声を吐き捨てた。すべてを散らかしたまま、どこかに逃げてしまいたい。天候が荒れなければ。あの女が余計なことをしなければ。すべては想定のとおり、うまくいっていたはずである。
なにをどうしていいのか、わからなかった。すべてがどうでも良いことのように感じた。
無言で萩野の前から立ち去ろうとして、信家に肩をつかまれた。
「殿、それは」
その手を振り払った。
おれは一人しかいないのだ。この体は二つにわかれて動くことはできない。
「おれは、屋島へ行く」
「え、でも御館」
「たかが女一人、さっさと去ねばよい」
「弟君は」
「あれは覚悟をしているだろうさ」
通信の目を見て七郎が口を噤んだ。すぅっと、こころが冷たくなっていく。もうだれのことも知らない。伊予のことなんてどうでもいい。おれはなにも悪くない。
踵を返した瞬間、左顎に鋭い衝撃がはしる。視界の端に、目をつりあげた景高の姿が見切れた。
「いい加減にしろ!」
景高の怒号に信家が短刀を抜く。いまにも景高を刺し殺してしまいそうな形相である。通信は後ろ手で信家を制して、景高を睨めつけた。
「平次には関係ない」
「ああ、関係ねぇし、いまいち知らねぇけど。でも、なんもかんも知らねぇって仲じゃねぇだろうが」
景高が甲高い耳障りな声で吠えた。
「頭冷やせ、馬鹿か。まず順序立てて考えようや」
「無理なものは無理でしょ」
「どっちかを棄てたなら、お前、そんなの当主でもなんでもねぇわ。投げんな。そういうのは背負ったまんまで、しゃかりきやってみせろよ」
無責任な景高の言葉が通信を刺した。かっと頭に血がのぼり、全身の毛という毛が逆立ったのではないかとすら思った。
「自分がそういう立場じゃないからそう言えるんでしょ」
「は」
「うっさいんだよ! それはてめぇの理想だろ。ちょっと黙ってろ。おれが決めることだ」
堰を切ったように言葉があふれる。自分をここまで追いこんだものは、すべて殴り壊して粉々にしてやろうと、通信は息を吐きながら拳を握った。
「だから、なんでひとの話を聞かねぇんだよ。ここにいる連中が、いまのお前をどう思うかって言ってんだろ、おれは」
「おれの顔に泥を塗ってんのは、てめぇだろうが」
「お前、だいぶ頭いかれてんな」
「ちょっと待って」
唾を飛ばしあう通信と景高のあいだに、景平が割ってはいった。
「いま、それを話している状況?」
景高が視線を逸らした。舌打ちをして背を向けると、首筋をかく。
「平次が言いたいのは、どうしたいのかを伝えろってことなんじゃないの」
「……」
「そうでしょ。じゃあ、やりかたが違うよね。四郎を追いつめたいわけじゃないでしょ」
普段は気怠そうに喋り、口数の少ない景平にしては、いつになくはっきりと言った。
「四郎も四郎でしょ。売り言葉に買い言葉で、なにが生まれるの。いや、わかるよ。それが弱みになるんじゃないかって思ってるんだろうけども。でも、おれたちってそういう間柄だったの?」
「おれは四郎の言いなりにはなれない。なる気もない。おれはおれだ。お前の家臣じゃねぇ。でも、できることはあると思ってる。くそっ、見くびってんじゃねぇぞ、言わせんな、ばか」
景平と景高にたたみ掛けられて、通信は歯を噛みしめた。二人の態度はこの上なく無遠慮であると感じる。しかし、どこか暖かかった。いままでに感じたことのない感情に、胸が詰まる。横目で信家を見ると、すでに短刀を鞘におさめている。信家は通信の視線に気がつくと、ゆっくりとした動作でうなずいた。
「聞かせてくれ」
そう呟いた景高は、どこまでもまっすぐだった。飾り気のない言葉が、自然と頑なだった通信のこころをほぐしていく。頭のてっぺんから爪先までぶれのない男だな――おもわず苦笑していた。笑った通信を見て、景高が気恥ずかしそうに睫毛を伏せた。
「妻は実家の新居に帰したい。その上で、新居殿と話ができるのであれば一番いい」
美津の独断とはいえ、もとはといえば、きちんと美津のことを把握していなかった自分が蒔いた種である。通信は深々と頭を下げた。ここにいるすべてのものたちに、ただただもうしわけがなかった。頭を下げる通信を見て、場が水を打ったように静まりかえる。
「夜通し駆けたら明け方には着くんじゃない? おれがついていくよ」
真っ先に沈黙を破ったのは景平だった。
「七郎。お前、こちらで屋島に向かう兵たちを乗せた後、舟を風早の港に回して、そこで殿を出迎えることはできないか」
忠員がそれに続く。
「そのくらい、お安いご用ですよ」
七郎が答えた。
「どうか大内殿、殿の護衛を頼みます。わたしはこちらに残り、兵たちをまとめます」
「はい、白石殿。あなたに任されるとは光栄です」
信家が忠員に満面の笑みを向けた。
「この城のことはおれたちに任せろ。なあ叔父貴。派手に暴れようぜ。あんな残党、蹴散らしてくれるわ」
景高の横で友景が、あきれたように口を開けている。友景はそういう表情をしていると、兄の景時によく似ていた。
「幸いにも敵大将の田口教能は、すでに居ない。そう大きな戦闘は起こらないだろうし、はるばる土佐から来た兵も、少しは手柄を立てたいと思っているだろうしな」
「この城にいるお前の兵は、必ず屋島に行けるようにしてやっから。おれたちを信じろ」
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