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春の嵐
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雨あがりの夜空は、まだ所々に千切れた雲を残していた。それでも、少しばかりの星と春の十六夜が煌々と輝いて、通信たちの駆ける道を白く照らした。
馬の蹄が地を蹴る音が、通信の荒い息づかいを蹴散らしていく。ざんざんと木々の枝葉を揺らす風が、一行を押しとどめるかのように吹きつけた。青い風景が、生乾きの墨を擦ったように滲み、早鐘のような鼓動が耳の奥で響いている。
嵐に蹂躙された道を、夜どおし駆ける。
途中、土砂が崩れて木々が倒れた道や、山肌から溢れる水で川のようになったところとぶつかる度に迂回する。蹄が跳ねあげた泥水や擦る木々に宿る露が、通信の直垂を重くした。なぶるような風は、問答無用で体温を奪っていく。
信家が方角を指し示し、景平が巧みに速度を操って、馬に無用な負担がかからないようにと腐心していた。
ときおり美津の顔が脳裏をよぎった。通信の記憶のなかの美津は、いつも寂しそうに笑っていた。そんなふうに無理をして笑うのであれば、さっさと離縁して実家に帰ってしまえばよかったのだ。幾度となくそれを促す仕打ちをしてきた。
もしや美津の行動は、そういう冷たい夫への意趣返しなのかもしれない。そう考えれば、気持ちよく笑える。それでいい。そのほうが健全だ。迷惑このうえない。馬鹿女め。
やがて夜が明けて、鳥の声が騒々しく木々の合間に満ちる頃。通信たちは高縄城の麓に着いた。
「さすがにしんどい」
馬の状態にずっと気を配りながら先導をしていた景平が、ほとんど転がり落ちるようにして鞍から降りた。ふらふらとがに股で歩き、しきりに両膝をさすっている。
「殿は大丈夫ですか」
「ああ。二人はここで待っていてくれ。おれ一人で行く」
「危険です。せめてわたしは連れていってください」
信家の懇請に、通信は首を横に振った。妻である美津が絡んでいる以上、通信自身が解決しなければならない個人的な問題だと感じていた。
それに玉氏は通信を即座に殺すことはしないだろうと考えていた。玉氏は有徳の人として知られている。婿である通信の意思を確かめる前に、矢を放つことはないだろう。もし玉氏が、たった一人であらわれた通信を多勢に無勢で討ち取るような人柄であれば、とっくに高縄城は落とされている。
玉氏は城に兵がほとんど残っていないことに、気がついているに違いなかった。兵の居ない城を包囲しておきながら、軍勢の数を頼りに押し寄せることもせず丁寧に、「娘を返せ」と交渉の書状を送り届けているのだ。その真意は計り知れないが、いまの通信にとってはありがたいことだった。
「河野四郎通信だ。新居殿に会いたい」
ちょうど朝餉の時刻だったようで、土器で飯をかきこんでいた兵たちが、ぎょっとしたように振りかえった。あれよあれよというまに、ひとだかりができる。通信が一人だからだろうか。兵たちは弓矢を向けずに、ただ遠巻きに眺めているだけだった。
敵意のない証拠に、通信は太刀も弓も足もとに投げだした。そうしてしばし待っていると、兵たちをかきわけるようにして玉氏が姿を現した。
「凍えているじゃないか、婿殿」
玉氏に指摘され、通信は自分の手が震えていることに、はじめて気がついた。雨露に濡れたまま、夜風を切って駆けてきたのだ。指先の感覚はなかった。
「ついてきなさい」
玉氏は、通信の姿を見ても特に驚いた様子を見せなかった。むしろ通信が一人であらわれることを予期していたかのような、落ち着きぶりである。多く言葉を交わすことなく、本陣の陣幕のうちに招かれた。
「火に当たりなさい。白湯でも飲むか」
「ありがとうございます」
玉氏の声は淡々として穏やかだった。
掌を篝火にかざす。じんわりと血が巡り、指先が痺れた。さしだされた白湯を口に含む。ほっと息を漏らせば、息が白く煙った。
玉氏は鎧櫃に軽く腰をかけ、通信をじっと見つめていた。ぱちり、と火の粉が爆ぜる。
「聞きたいことが二つある」
通信が白湯を飲み終わるのを見はからって、玉氏が口をひらく。
「田口勢に包囲される危険もあった高縄城に、娘を残したのはなぜか」
「おれは妻に実家に帰るように言いました」
「なるほど」
通信がそれ以上、言葉を紡ぐより早く、玉氏は納得したようにうなずいた。
「では、もう一つだ」
玉氏の声が低くなる。通信は、白湯の入っていた器を足もとに置いた。
「なぜわたしになにも話してくれなかった」
なんの話だ――通信は小さく首を捻った。玉氏がなにを言っているのかわからない。眉間に力がこもる。
「妻に書状を持たせたつもりでしたから、まさか届いてないとは」
「いや、そうではない」
玉氏が首を振った。
「こうなるもっと前にということだ」
篝火が揺れる。
「少なくとも、三谷館を落とす前に。君はわたしになにも言ってくれなかった」
「それは」
通信は言葉に詰まる。平家方の玉氏に計画を漏らせるはずがない。しかしそれを言ってしまうと、通信は義父として玉氏を、まったく信頼していないということになる。
「田口殿を呼んだのはわたしだよ。君が三谷館を落とすために出陣したようだと聞いてね。だから、君たちが思っていたよりもずっと早く、田口の軍勢は比志城をかこんだろう」
「どおりで」
「なぜだと思う」
玉氏が通信の顔をのぞきこむ。
「娘婿と矢を交えろと命じられるのは勘弁だったのさ。だが、わたしは平家に恩がある。その恩には報いなければならない」
肩をすくめた玉氏が、自嘲気味に笑う。
「高縄城はわたしが攻めるから比志城を攻めて欲しいと、田口殿に提案したのはわたしだ。その意味は、わかるね」
通信は、うっと押し黙った。
「比志城の立地を伝え、全軍海から攻めたほうが良いと言ったのもわたしだ」
震えのあまり歯が噛み合わない。寒さからか、それとも悔しさからなのか、それはわからなかった。
「わたしは君の義父でもある。婿殿は苛烈だ。まあ、それはいい。若さゆえにはやる気持ちもあるのだろう」
玉氏が一度、大きく息を吸って吐いた。
「なぜ味方がいないと思いこむ。わたしが平家方だとしても」
ゆるゆると首を振った玉氏が、通信を見つめる。
「なぜ周りに頼ろうとしない。戦っているのは自分だけだとでも?」
「そんなことは思ってません」
「ならば、なぜいつも一人で戦おうとするんだ」
通信はうなだれた。まさかこんなところでも、自分の至らなさを突きつけられるとは思っていなかった。
「平家の世はもう遠くないうちに終わるだろう。婿殿には新しい世代のものとして、坂東の侍どもに伊予の侍はこうあるぞと、そう思わせて欲しい」
熱っぽく一息で語った玉氏は、視線を足もとに落とした。
「ひとりの両手足では、できることが限られているものだ。しかしそれが十になったら、二十になったらどうだ。ひとを信じることもまた、懐の広さだとは思わないか。そういう男には、みなついていきたいと思うだろう」
腹の奥に、すとん、と落ちるものがある。
「婿殿にはいずれ、伊予国武士の棟梁と仰がれるような存在になってもらいたい」
玉氏が言葉をきった。
通信は、両手で顔を覆う。
三島の大蛇がのたうち回っている。荒れ狂う海に背尾を浸し、とぐろをまいて日の本を喰らわんと欲する大蛇だ。火のように赤い目玉をぎょろりと剥く。
あれはおれだ。おれはあの大蛇の䪽になるのだ。
玉氏が微笑んでいた。そっと、通信の肩に手を置く。
「娘から聞いているよ。婿殿はとても良くしてくれると。それはそれは嬉しそうに、手紙に書いてよこしてくる」
鼓動が止まるかと思った。不自由をさせたことはないが、とりわけなにかをしてやったことなどない。むしろ冷たくあしらってきた。まして優しくしたことなどない。ずっと自分は恨まれていると思っていたし、玉氏もそうなのだろうと思っていた。鈍器で殴られたような衝撃に、形にならない言葉が宙を舞う。
「親として、娘が嫁いだ先で幸せなのであれば、これ以上幸福なことはない」
そう言った玉氏の目尻には、皺が刻まれていた。
「婿殿の妻としての意地で、娘は城に残ったのだろう。あの子はおっとりしているように見えて母親似で頑固だ」
違う! おれはそんな良い夫ではない。おれは美津に愛される資格なんかない。
ここで玉氏にすべて洗いざらい、自分の罪を告白してしまいたかった。しかし、嬉しそうに話す義父を失望させてしまうのも心が痛い。
「さてね。わたしは目に入れても痛くない愛娘がいる城を、積極的に攻められないでいるというわけだ」
おれは、美津をわかろうとしなかった。美津はずっと、ひとりで戦っていたのか。あんなに小さな体で。絹糸のように繊細なこころで。ほろほろと、通信のなかで糸が解れていく。
「ね。どうかな?」
玉氏がくるりと向きなおる。そして茶目っ気たっぷりの笑顔を通信に向けた。
馬の蹄が地を蹴る音が、通信の荒い息づかいを蹴散らしていく。ざんざんと木々の枝葉を揺らす風が、一行を押しとどめるかのように吹きつけた。青い風景が、生乾きの墨を擦ったように滲み、早鐘のような鼓動が耳の奥で響いている。
嵐に蹂躙された道を、夜どおし駆ける。
途中、土砂が崩れて木々が倒れた道や、山肌から溢れる水で川のようになったところとぶつかる度に迂回する。蹄が跳ねあげた泥水や擦る木々に宿る露が、通信の直垂を重くした。なぶるような風は、問答無用で体温を奪っていく。
信家が方角を指し示し、景平が巧みに速度を操って、馬に無用な負担がかからないようにと腐心していた。
ときおり美津の顔が脳裏をよぎった。通信の記憶のなかの美津は、いつも寂しそうに笑っていた。そんなふうに無理をして笑うのであれば、さっさと離縁して実家に帰ってしまえばよかったのだ。幾度となくそれを促す仕打ちをしてきた。
もしや美津の行動は、そういう冷たい夫への意趣返しなのかもしれない。そう考えれば、気持ちよく笑える。それでいい。そのほうが健全だ。迷惑このうえない。馬鹿女め。
やがて夜が明けて、鳥の声が騒々しく木々の合間に満ちる頃。通信たちは高縄城の麓に着いた。
「さすがにしんどい」
馬の状態にずっと気を配りながら先導をしていた景平が、ほとんど転がり落ちるようにして鞍から降りた。ふらふらとがに股で歩き、しきりに両膝をさすっている。
「殿は大丈夫ですか」
「ああ。二人はここで待っていてくれ。おれ一人で行く」
「危険です。せめてわたしは連れていってください」
信家の懇請に、通信は首を横に振った。妻である美津が絡んでいる以上、通信自身が解決しなければならない個人的な問題だと感じていた。
それに玉氏は通信を即座に殺すことはしないだろうと考えていた。玉氏は有徳の人として知られている。婿である通信の意思を確かめる前に、矢を放つことはないだろう。もし玉氏が、たった一人であらわれた通信を多勢に無勢で討ち取るような人柄であれば、とっくに高縄城は落とされている。
玉氏は城に兵がほとんど残っていないことに、気がついているに違いなかった。兵の居ない城を包囲しておきながら、軍勢の数を頼りに押し寄せることもせず丁寧に、「娘を返せ」と交渉の書状を送り届けているのだ。その真意は計り知れないが、いまの通信にとってはありがたいことだった。
「河野四郎通信だ。新居殿に会いたい」
ちょうど朝餉の時刻だったようで、土器で飯をかきこんでいた兵たちが、ぎょっとしたように振りかえった。あれよあれよというまに、ひとだかりができる。通信が一人だからだろうか。兵たちは弓矢を向けずに、ただ遠巻きに眺めているだけだった。
敵意のない証拠に、通信は太刀も弓も足もとに投げだした。そうしてしばし待っていると、兵たちをかきわけるようにして玉氏が姿を現した。
「凍えているじゃないか、婿殿」
玉氏に指摘され、通信は自分の手が震えていることに、はじめて気がついた。雨露に濡れたまま、夜風を切って駆けてきたのだ。指先の感覚はなかった。
「ついてきなさい」
玉氏は、通信の姿を見ても特に驚いた様子を見せなかった。むしろ通信が一人であらわれることを予期していたかのような、落ち着きぶりである。多く言葉を交わすことなく、本陣の陣幕のうちに招かれた。
「火に当たりなさい。白湯でも飲むか」
「ありがとうございます」
玉氏の声は淡々として穏やかだった。
掌を篝火にかざす。じんわりと血が巡り、指先が痺れた。さしだされた白湯を口に含む。ほっと息を漏らせば、息が白く煙った。
玉氏は鎧櫃に軽く腰をかけ、通信をじっと見つめていた。ぱちり、と火の粉が爆ぜる。
「聞きたいことが二つある」
通信が白湯を飲み終わるのを見はからって、玉氏が口をひらく。
「田口勢に包囲される危険もあった高縄城に、娘を残したのはなぜか」
「おれは妻に実家に帰るように言いました」
「なるほど」
通信がそれ以上、言葉を紡ぐより早く、玉氏は納得したようにうなずいた。
「では、もう一つだ」
玉氏の声が低くなる。通信は、白湯の入っていた器を足もとに置いた。
「なぜわたしになにも話してくれなかった」
なんの話だ――通信は小さく首を捻った。玉氏がなにを言っているのかわからない。眉間に力がこもる。
「妻に書状を持たせたつもりでしたから、まさか届いてないとは」
「いや、そうではない」
玉氏が首を振った。
「こうなるもっと前にということだ」
篝火が揺れる。
「少なくとも、三谷館を落とす前に。君はわたしになにも言ってくれなかった」
「それは」
通信は言葉に詰まる。平家方の玉氏に計画を漏らせるはずがない。しかしそれを言ってしまうと、通信は義父として玉氏を、まったく信頼していないということになる。
「田口殿を呼んだのはわたしだよ。君が三谷館を落とすために出陣したようだと聞いてね。だから、君たちが思っていたよりもずっと早く、田口の軍勢は比志城をかこんだろう」
「どおりで」
「なぜだと思う」
玉氏が通信の顔をのぞきこむ。
「娘婿と矢を交えろと命じられるのは勘弁だったのさ。だが、わたしは平家に恩がある。その恩には報いなければならない」
肩をすくめた玉氏が、自嘲気味に笑う。
「高縄城はわたしが攻めるから比志城を攻めて欲しいと、田口殿に提案したのはわたしだ。その意味は、わかるね」
通信は、うっと押し黙った。
「比志城の立地を伝え、全軍海から攻めたほうが良いと言ったのもわたしだ」
震えのあまり歯が噛み合わない。寒さからか、それとも悔しさからなのか、それはわからなかった。
「わたしは君の義父でもある。婿殿は苛烈だ。まあ、それはいい。若さゆえにはやる気持ちもあるのだろう」
玉氏が一度、大きく息を吸って吐いた。
「なぜ味方がいないと思いこむ。わたしが平家方だとしても」
ゆるゆると首を振った玉氏が、通信を見つめる。
「なぜ周りに頼ろうとしない。戦っているのは自分だけだとでも?」
「そんなことは思ってません」
「ならば、なぜいつも一人で戦おうとするんだ」
通信はうなだれた。まさかこんなところでも、自分の至らなさを突きつけられるとは思っていなかった。
「平家の世はもう遠くないうちに終わるだろう。婿殿には新しい世代のものとして、坂東の侍どもに伊予の侍はこうあるぞと、そう思わせて欲しい」
熱っぽく一息で語った玉氏は、視線を足もとに落とした。
「ひとりの両手足では、できることが限られているものだ。しかしそれが十になったら、二十になったらどうだ。ひとを信じることもまた、懐の広さだとは思わないか。そういう男には、みなついていきたいと思うだろう」
腹の奥に、すとん、と落ちるものがある。
「婿殿にはいずれ、伊予国武士の棟梁と仰がれるような存在になってもらいたい」
玉氏が言葉をきった。
通信は、両手で顔を覆う。
三島の大蛇がのたうち回っている。荒れ狂う海に背尾を浸し、とぐろをまいて日の本を喰らわんと欲する大蛇だ。火のように赤い目玉をぎょろりと剥く。
あれはおれだ。おれはあの大蛇の䪽になるのだ。
玉氏が微笑んでいた。そっと、通信の肩に手を置く。
「娘から聞いているよ。婿殿はとても良くしてくれると。それはそれは嬉しそうに、手紙に書いてよこしてくる」
鼓動が止まるかと思った。不自由をさせたことはないが、とりわけなにかをしてやったことなどない。むしろ冷たくあしらってきた。まして優しくしたことなどない。ずっと自分は恨まれていると思っていたし、玉氏もそうなのだろうと思っていた。鈍器で殴られたような衝撃に、形にならない言葉が宙を舞う。
「親として、娘が嫁いだ先で幸せなのであれば、これ以上幸福なことはない」
そう言った玉氏の目尻には、皺が刻まれていた。
「婿殿の妻としての意地で、娘は城に残ったのだろう。あの子はおっとりしているように見えて母親似で頑固だ」
違う! おれはそんな良い夫ではない。おれは美津に愛される資格なんかない。
ここで玉氏にすべて洗いざらい、自分の罪を告白してしまいたかった。しかし、嬉しそうに話す義父を失望させてしまうのも心が痛い。
「さてね。わたしは目に入れても痛くない愛娘がいる城を、積極的に攻められないでいるというわけだ」
おれは、美津をわかろうとしなかった。美津はずっと、ひとりで戦っていたのか。あんなに小さな体で。絹糸のように繊細なこころで。ほろほろと、通信のなかで糸が解れていく。
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