屋島に咲く

モトコ

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春の嵐

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 陣幕の外に出ると、新居の兵たちが振りかえった。

「我が娘婿、河野四郎殿の帰還である」

 玉氏の一声で、城を取りかこんでいた新居の兵たちが引いた。人垣のなかに道ができる。

 通信が城に入ると、すぐに弟の通経が駆け寄ってきた。真っ青な顔色の通経の肩を、通信は抱きとめた。心労からか、通経の目もとには青黒い隈ができている。

「いましがた新居殿と話をした」
「では」
「ひとまず奥に会って話す。お前は城のものたちをなだめてやれ」
「は?」
「新居勢と、矢を交えてはならないと言っている」

 通信の言葉の意味を捉えきれなかったのか、呆然と立ちつくしている通経を背にして、通信は美津のもとに向かった。

 美津は侍女たちとともに、居室の隅でかたまっていた。通信の顔を見るやいなや、「あっ」と短く声をあげ、袖で顔を覆う。縮こまっている美津を庇うように、侍女たちが背で隠した。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 侍女たちの背後で、美津は謝罪の言葉を経文かなにかのように唱えている。言うことをきかなかったから、責められると思っているのだろう。

 黙ったまま美津を見おろす通信の袴の裾を、侍女たちが掴んだ。各々に美津を庇うようなことを口走っているが、その言葉はまったく耳にはいってこない。

 ただ美津の謝罪の言葉だけが、胸のうちにこびりつく。

 通信は惨めな気持ちになった。こんなにか弱い女の、小さな小さな積み重ねが、この城を助けたのかと思うと、たまらなくなる。

 後悔が津波のように押し寄せて、いますぐ過去の自分を殺してしまいたいとすら思った。砕け散ってしまいそうな自尊心と、形容しがたい羞恥心で、思考がぐずぐずになる。
 
 これはなんだ。

「わたしが、きちんとあなたにお話していれば良かったのですよね」
「いや」
「ごめんなさい」
「ちがう」

 侍女たちを乱暴に振りはらい手を伸ばすと、美津が怯えた目をした。その強ばった頬に、そっと指先で触れる。薄氷のような肌を傷つけてしまわないように。

「お前は悪くない。おれがもっと、お前と向き合って話すべきだったし、お前の話を聞くべきだった」
「え」
「美津」

 名を呼ばれ、はっとするほど美津の瞳が揺れた。白い頬にさっと紅がさす。

「そんなお顔もなさるのですね」
「おかしいか」
「いいえ。でも、そうですね。双六で勝った気分です。合戦で勝ったときの殿方って、こんな気持ちなのでしょうか」

 そう言って、美津がいたずらっぽい笑顔を見せた。上目遣いでねだるように、通信の手に自分の手指を絡める。通信は華奢な肩を抱き寄せた。美津の熱が伝わってくる。

「怒ってないのですか。わたしが、ここに居ることに」
「呆れてる」
「まあ!」

 通信は美津の胸元に顔を埋めた。これ以上、顔をあげていられなかった。美津が通信の背をゆっくりとさする。小さな、規則正しい胸の音が聞こえた。

「わたしには、政のことはよくわかりません。でもあなたが戦うと決めたのならば、ともに戦おうと思いました」
「恐ろしいとは感じなかったのか?」
「でも、あなたはもっと怖い思いをしていたのでしょう?」

 舌っ足らずな美津の声が、とても耳になじむ。

「おれはお前に、なにも報いることができないよ」

 指先で唇に触れる。

 ずっと美津を邪魔だと感じていたのは、美津の気持ちに応えられない自分の、不甲斐ない姿を認めることができなかったからだ。通信は、おそるおそる顔をあげた。涙に濡れた顔を見られるのが気恥ずかしかった。

 自分の弱さを晒すこと。この身を相手に託すこと。それは、通信にとっては途方もない強さが必要なことだった。もし、このちっぽけで独りよがりな自分を受けいれてもらえなかったらと思うと、たまらなく怖かったのだ。

「わたしは通信殿の妻です」

 はらはらっと、美津の頬に透明のしずくがしたたり落ちる。

 どちらともなく額を寄せ、唇を重ねた。

 締め切った蔀戸の隙間から、細く光がさしこんでいる。熱を帯びて薄らと染まるなめらかな素肌を自分だけのものにしたくて、細い体を腕のなかに抱きすくめた。

 ずっとこのまま、時が止まってしまえばいいのにとすら思う。

 まるでうららかな春の陽光のような心地よい温もりだった。散っていく桜の花びらを美しいと眺めているときのような切なさを感じながら、体を離す。

 すでに日が昇っていることに気がついた美津が、顔を真っ赤にしながら慌てて露わとなっている肢体を隠した。

「わたしはここで戦います。わたしがここに残っていれば、父上はきっと強く攻めないはずです」

 袿の襟をかき合わせた美津が、文箱を引きよせる。

「ですからどうぞ、ご武運を」

 そう言って取りだした掛守を、通信の首にかけた。


 通経に、ことの経緯を説明すると、ああ……と曖昧にうなずかれた。拗ねたのかとも思ったが、呆れられたというほうが正しいような気もする。案外、いつも外から通信と美津を見続けていた通経のほうが、よっぽど現状を把握していたのかもしれない。こんなもの、犬も食わない。

 城を出ると、通信を待ち構えるように玉氏が立っていた。

「娘を説得できましたかな」
「やっぱりちょっと、返せないです」
「では、わたしはもうしばらくここで陣を敷かねばならないということかね。老骨にはこたえるなぁ」
「湯にでも浸かってきたらいかがですか」
「田口の連中が帰りがけに、この城を襲うとも限らない。そうそう手柄を横取りされては敵わんからなぁ」

 玉氏が肩をすくめてみせた。暗に守ってくれるということだろう。通信は感謝した。

「して、婿殿は」
「屋島に」
「ほう」
「日の本中の侍に、河野の勢は三島の大蛇が如しと名を刻んできます」

 玉氏がのけぞって笑った。ひとしきり笑って、さっさと行けと言うように手を振った。

 信家が、流黒を引いてくる。

 空が青かった。遠くのほうで紗のような雲が風に流されている。木々の緑が、いまだ吹き止まぬ風に煽られている。葉にまとわりついた露がきらきらと輝いて散った。湿った土の、なんとも言えない匂いがする。それは春の芽吹きの匂いに似ていた。

 海が見える。高波が荒々しく砕け散り、白い泡がひゅるりと風に巻かれて踊る。

 七郎が手を振っていた。堂々と帆をあげて、大波をものともせずに走る舟は、いつもより逞しく見えた。

 流黒に鞭をいれる。通信は、接岸した舟に騎乗したまま飛びのった。信家が続く。景平は一度、馬の手綱を引いた。躊躇していたようだが、腹をくくったのか馬の腹を蹴ると、舟に飛びのってきた。

「大丈夫なんですか?」

 信家が驚いた表情で景平を見つめていた。

「海が荒れてるから。比志城のほうに戻っても」
「戻ったら、なんのために伊予に来たんだって、平次にどやされるから」
「ちがいない」
「それに」

 目を細めた景平が、遠くの方を見つめていた。

「この景色が、好きなんですよ」
「ふふふ……では、舟にも慣れてください」

 嬉しそうに信家が笑った。

 西海のしまなみは美しい。あたりまえのことだ。それでも、他国のものに好きだと言ってもらえるのは誇らしい。景平の率直な言葉は、近くにいた水夫たちを奮い立たせるには充分すぎた。

 通信は舳先に立つと、頭上に振り上げ屋島を指し示す。鬨の声があがり、水夫たちが櫂で水面を叩く。

「なんだか、面構えがすっきりしましたね」

 七郎がにやにやとのぞきこんできたので、臑を蹴っ飛ばしてやった。

 空と海とが行ったり来たりする。突風に吹きあげられた波しぶきが散華のように降り注いだ。潮風の匂いを胸一杯に吸いこむと、通信は雄叫びをあげた。



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