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屋島
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はじめは帆をおろして進んでいた舟だが、しだいに帆が波しぶきを吸って重くなってくる。このままでは転覆しかねないと判断したのか、いつのまにか縮帆していた。義経にはよくわからなかったが、嵐のなか、潮の流れと風の向きに経に気を配りながらの操舟には、相当の腕がいるのだという。
義経は舟の屋形のうちで、ほとんど目を瞑って過ごしていた。屋形の外からは阿万六郎の威勢のいい声と、水夫たちのかけ声が聞こえてくる。
波が舷に当たっては砕け、風がごうごうと吹き荒れる。屋形すら、ときおりざっと波をかぶった。その度に屋根からは水が漏り、義経の鎧直垂が濡れた。
どのくらいの時が過ぎたのだろうか。三日の航程ということだが、船酔いがあまりにも辛く、これが永遠に続くのではないかとすら思われた。日の光もさしこまない屋形のうちは、とにかく時の進みが遅い。
舟全体が、ぎしりと軋む。
この状態で渚に着いたとき、すぐに軍兵を出せるだろうか。義経は不安に襲われた。ただでさえ風雨によって一日行程が押している。巻きかえしをはかるためにも、着港したらすぐさま馬で馳せねばなるまい。
体力を温存するためにも寝ておいたほうがいいのだろうが、まったく眠気の訪れる気配はなかった。胃のなかはすでに空っぽで、酸っぱいをとおりこして苦い唾液ばかりが溢れてくる。
しかたがないので、四国に上陸してからのことを繰りかえし想像した。阿波の勝浦から屋島まで、途中休憩は挟めないだろう。馬にゆとりはないのだから、慎重に駆け通すほかない。
「だれか、動けるものはいるか」
ずぶ濡れの阿万六郎が、蔀を跳ねあげ屋形のうちを見まわした。義経が体を起こそうとすると、弁慶に押しとどめられる。
「やめておいたほうがよいでしょう。わたしが行きますよ」
「でも」
弁慶は大きな揺れにも動じず立ち上がると、屋形の外に出ていった。
「このままじゃ舟がばらばらになっちまう。帆柱を切り倒してくれ」
「承知」
そんな会話が聞こえてきたような気がした。一定の調子で響く斧の音が、どこか心地よい。義経は自然とまどろんでいた。うっすらとした意識が浮いたり沈んだり、生きているのかも死んでいるのかも定かではないような状態である。
目蓋の裏側に、平泉の景色が浮かんだ。きらきらと輝く新緑に包まれた、のどかな風景。ずっと眺めていたくなるような緑の都。
「九郎殿」
継信の声がする。
そうだ、狩りの途中だった。かたわらに狩装束姿の継信と忠信がいて、鹿を狙っていた。立派な角をもった牡鹿である。
「あれは山の主でしょうか」
「あれを一矢で屠れば、おれは天下に名を轟かせるかな」
義経が言うと、継信が眉間に皺をよせた。
「なんでもいいけど、ぼさっとしてると逃がしちゃいますよ?」
忠信の声に慌てて矢をつがえる。草を食む鹿が、ちらりと義経を見た。その目を義経は射貫いた。夏草を揺らしながら、どうっと倒れた牡鹿の四肢が震えている。
「仕留めた!」
駆け寄ると、すぐさまとどめを刺した。首を掻き切って血を抜くと、両手が真っ赤に染まった。
「お見事です。いまに九郎殿の名は一天四海に轟きましょう」
うやうやしく言う継信は、頬を紅潮させていた。
「そんなことは当然だとして。さっさと捌いて喰おう、喰おう!」
忠信らしい反応に、義経は声をだして笑った。血にまみれた両手を掲げて、笑っていた。
ああ、楽しかった。あの頃の。
「九郎殿」
肩を揺すられて、はっとして飛び起きた。
「おれ、なにか言ってた?」
「いいえ」
目を丸くした継信が、義経の言葉を否定しながらも、少し笑っている。
「すでに御名は一天四海に轟いておりますれば」
「あ! 継信よくも」
「じっくりお休みいただけたようで良かったです」
義経は、にまにまと満足げな表情を浮かべる継信を睨みつけた。
「もう着いたのか」
「勝浦が見えて参りました」
「早いな」
「一日と少しで着いてしまったようですよ。遅れどころか、当初の予定よりも早いです」
「よし。近くなったら馬を海に下ろせ。港に敵兵がいないとも限らない。みな騎馬で陸にあがろう」
「わかりました。すぐに差配します」
継信の背を追って、義経も屋形の外に出た。久々の外気で肺を満たす。手足を伸ばせば、ぱきぱきと関節が鳴った。
帆柱が根元からなくなっていた。そういえば、切り倒したのだっけ――と、思いだす。きっと困難な航海だったのだろう。無理もない。
「判官殿、ようやっと港に着きますよ」
阿万六郎が言う。見れば風で飛ばされたのか、烏帽子をかぶっていない。髻が解け、髪を風になびかせている。義経の視線に気がついたのか、ちょっと気まずそうに頭頂を手で覆った。
「他の舟は」
「大丈夫、すべて無事です。あの淀江内ってやつはなかなかやりますね。湾内ではなんどか助けられました」
阿万六郎が言って、すぐ後方に着いてきている舟を指さした。義経が手を振ると、田代冠者と淀江内が両手を大きく振って答えた。荒れ狂っていた波は、もうすっかり穏やかに凪いで、雲の切れまから束になった朝日が海面にさしこんでいる。
「おれは水夫らと一度休ませていただきます。一息入れたら、港の漁夫でもとっ捕まえて淡路に行きます。これらの舟は、さすがに修理しないと使えませんので」
「苦労をかけます」
「しかたねぇってことですよ。でも、おれの腕は確かだったでしょ?」
「そうですね。すばらしい」
ほほえみかけると、阿万六郎が満足そうに笑った。
舟の上の阿万六郎は、普段のしょぼくれた印象とはまったく真逆の、逞しい男だった。吹く風に胸をはり、水夫たちに声をかけてまわる姿は、自信と余裕をたっぷりと持ったいい男に見える。
あの気の強い浮夏御前が、なんだかんだ阿万六郎を見捨てないのは、きっとこの姿にときめいているからなのだろう。兄頼朝にもそういった別の姿があって、それに兄嫁は惚れているのだろうか。余計なことを考えそうになって、義経は頭を振った。
義経は舟の屋形のうちで、ほとんど目を瞑って過ごしていた。屋形の外からは阿万六郎の威勢のいい声と、水夫たちのかけ声が聞こえてくる。
波が舷に当たっては砕け、風がごうごうと吹き荒れる。屋形すら、ときおりざっと波をかぶった。その度に屋根からは水が漏り、義経の鎧直垂が濡れた。
どのくらいの時が過ぎたのだろうか。三日の航程ということだが、船酔いがあまりにも辛く、これが永遠に続くのではないかとすら思われた。日の光もさしこまない屋形のうちは、とにかく時の進みが遅い。
舟全体が、ぎしりと軋む。
この状態で渚に着いたとき、すぐに軍兵を出せるだろうか。義経は不安に襲われた。ただでさえ風雨によって一日行程が押している。巻きかえしをはかるためにも、着港したらすぐさま馬で馳せねばなるまい。
体力を温存するためにも寝ておいたほうがいいのだろうが、まったく眠気の訪れる気配はなかった。胃のなかはすでに空っぽで、酸っぱいをとおりこして苦い唾液ばかりが溢れてくる。
しかたがないので、四国に上陸してからのことを繰りかえし想像した。阿波の勝浦から屋島まで、途中休憩は挟めないだろう。馬にゆとりはないのだから、慎重に駆け通すほかない。
「だれか、動けるものはいるか」
ずぶ濡れの阿万六郎が、蔀を跳ねあげ屋形のうちを見まわした。義経が体を起こそうとすると、弁慶に押しとどめられる。
「やめておいたほうがよいでしょう。わたしが行きますよ」
「でも」
弁慶は大きな揺れにも動じず立ち上がると、屋形の外に出ていった。
「このままじゃ舟がばらばらになっちまう。帆柱を切り倒してくれ」
「承知」
そんな会話が聞こえてきたような気がした。一定の調子で響く斧の音が、どこか心地よい。義経は自然とまどろんでいた。うっすらとした意識が浮いたり沈んだり、生きているのかも死んでいるのかも定かではないような状態である。
目蓋の裏側に、平泉の景色が浮かんだ。きらきらと輝く新緑に包まれた、のどかな風景。ずっと眺めていたくなるような緑の都。
「九郎殿」
継信の声がする。
そうだ、狩りの途中だった。かたわらに狩装束姿の継信と忠信がいて、鹿を狙っていた。立派な角をもった牡鹿である。
「あれは山の主でしょうか」
「あれを一矢で屠れば、おれは天下に名を轟かせるかな」
義経が言うと、継信が眉間に皺をよせた。
「なんでもいいけど、ぼさっとしてると逃がしちゃいますよ?」
忠信の声に慌てて矢をつがえる。草を食む鹿が、ちらりと義経を見た。その目を義経は射貫いた。夏草を揺らしながら、どうっと倒れた牡鹿の四肢が震えている。
「仕留めた!」
駆け寄ると、すぐさまとどめを刺した。首を掻き切って血を抜くと、両手が真っ赤に染まった。
「お見事です。いまに九郎殿の名は一天四海に轟きましょう」
うやうやしく言う継信は、頬を紅潮させていた。
「そんなことは当然だとして。さっさと捌いて喰おう、喰おう!」
忠信らしい反応に、義経は声をだして笑った。血にまみれた両手を掲げて、笑っていた。
ああ、楽しかった。あの頃の。
「九郎殿」
肩を揺すられて、はっとして飛び起きた。
「おれ、なにか言ってた?」
「いいえ」
目を丸くした継信が、義経の言葉を否定しながらも、少し笑っている。
「すでに御名は一天四海に轟いておりますれば」
「あ! 継信よくも」
「じっくりお休みいただけたようで良かったです」
義経は、にまにまと満足げな表情を浮かべる継信を睨みつけた。
「もう着いたのか」
「勝浦が見えて参りました」
「早いな」
「一日と少しで着いてしまったようですよ。遅れどころか、当初の予定よりも早いです」
「よし。近くなったら馬を海に下ろせ。港に敵兵がいないとも限らない。みな騎馬で陸にあがろう」
「わかりました。すぐに差配します」
継信の背を追って、義経も屋形の外に出た。久々の外気で肺を満たす。手足を伸ばせば、ぱきぱきと関節が鳴った。
帆柱が根元からなくなっていた。そういえば、切り倒したのだっけ――と、思いだす。きっと困難な航海だったのだろう。無理もない。
「判官殿、ようやっと港に着きますよ」
阿万六郎が言う。見れば風で飛ばされたのか、烏帽子をかぶっていない。髻が解け、髪を風になびかせている。義経の視線に気がついたのか、ちょっと気まずそうに頭頂を手で覆った。
「他の舟は」
「大丈夫、すべて無事です。あの淀江内ってやつはなかなかやりますね。湾内ではなんどか助けられました」
阿万六郎が言って、すぐ後方に着いてきている舟を指さした。義経が手を振ると、田代冠者と淀江内が両手を大きく振って答えた。荒れ狂っていた波は、もうすっかり穏やかに凪いで、雲の切れまから束になった朝日が海面にさしこんでいる。
「おれは水夫らと一度休ませていただきます。一息入れたら、港の漁夫でもとっ捕まえて淡路に行きます。これらの舟は、さすがに修理しないと使えませんので」
「苦労をかけます」
「しかたねぇってことですよ。でも、おれの腕は確かだったでしょ?」
「そうですね。すばらしい」
ほほえみかけると、阿万六郎が満足そうに笑った。
舟の上の阿万六郎は、普段のしょぼくれた印象とはまったく真逆の、逞しい男だった。吹く風に胸をはり、水夫たちに声をかけてまわる姿は、自信と余裕をたっぷりと持ったいい男に見える。
あの気の強い浮夏御前が、なんだかんだ阿万六郎を見捨てないのは、きっとこの姿にときめいているからなのだろう。兄頼朝にもそういった別の姿があって、それに兄嫁は惚れているのだろうか。余計なことを考えそうになって、義経は頭を振った。
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