屋島に咲く

モトコ

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屋島

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 夜を徹して阿波と讃岐の国境を越えると、空が白むころ屋島の対岸に着いた。森の木々にまぎれて、馬を休めると同時に朝餉をとる。

 義経は、なにか腹に入れたいと感じてはいなかったが、継信がさしだす糒をしかたなく噛んだ。糒は嫌いだ。まったく美味しいとは思えない。適当に水で流しこむ。

「屋島まではどうやって渡るのですか」
「ここの海はとても浅いので舟は使いません。潮がひけば馬で渡ることができます」

 継信の問いに、近藤が答える。佐々木三郎盛綱が馬で海を渡ったという児島も、このような感じだったのかしらと義経は思った。

「まもなく、干潮かと」
「そうか。では急いで渡ってしまおう」

 各々甲冑を身に着け、武器を手にする。義経は赤地錦の鎧直垂にむらさきすそごおどし紫裾濃威の鎧をまとい、黄金造りの太刀を佩いた。義経の大鎧の総角は、いつもどおり継信が整える。

 支度をすっかり済ませると、義経たちはむれ牟礼や高松の民家に火を放ちながら屋島へと渡った。立ちのぼる煙を見て平家方は混乱するだろう。民にはもうしわけないと思いながらも、こちらが寡兵であるということを悟らせないためにはしかたがない。それに田畑の作物とは異なり、民の住む簡素な家屋など、簡単に造ることができる。

 思っていたとおり、立ちのぼる黒煙を見て慌てたように、屋島の渚から次々と舟が沖に漕ぎ出してきた。

 義経は、敵方に数がわからないように、十騎程度に兵をわけ、それぞれまばらに浜を駆けさせた。しばらくそれを繰りかえしていると、痺れを切らしたのだろう。舟が数艘、渚に寄ってくる。先頭の舟の舳先に男が立っていた。義経たちに向かって大声をあげる。

「将はだれか、名乗られないのか」
「清和天皇十代の子孫、源頼朝殿の弟御おとうとご、九郎判官義経殿だ」

 伊勢三郎が吠えた。

「ああ、なるほど。鞍馬山の稚児か」

 舟に乗っている平家方の兵たちがどっと笑った。櫂で水面を叩き、舟を揺する。

「お前たちこそ、乞食のようなもんじゃないか。負け犬の遠吠えは見苦しいぜ」

 すかさず返した伊勢三郎に、こんどは源氏方の兵たちが箙を叩いて囃した。

「名乗れ、無礼者」
「伊勢三郎義盛」
「鈴鹿山の山賊か。判官ともあろう身分で、山賊なんぞを飼っているとはもの好きよなあ」
「なんだと」
「よせ、くだらない挑発にのるんじゃない」

 義経が伊勢三郎を制すと、武者が一人ざっと馬を前に進めた。金子十郎家忠である。

「口が達者なのは結構なことだがね。それで勝負がつくわけじゃないだろう」

 言いながら金子十郎は矢をつがえると、舳先にいた男の胸板を射貫いた。

「一ノ谷で坂東武者の弓がいかに恐ろしいものか見ていただろうに。残念だったな」

 斃れた男が海に落ちる。それを合図に、平家方の舟から次々と矢が放たれた。義経は、矢の当たらないぎりぎりのところまで軍勢を退かせた。そして近藤を呼ぶと、彼に二十騎ほどをつけ、主上が暮らしている屋敷である、いわゆる「屋島の内裏」を焼き払ってくるように命じた。内裏を焼かれれば、報復に平家の本体ともいえる軍勢が出てくるはずだ。

 そのなかに、必ず能登守がいる。

 義経は鼓動の高鳴りを感じた。昂揚のあまり、たとえここで全滅しても、能登守と刺し違えるのであれば、戦果としては悪くないとすら思える。となりで継信が渋い顔をしていた。義経の考えていることなど透けて見えているといった様子で首を横に振る。

 義経たちが波打ちぎわに出てこないので、たまらず焦れた平家方の舟から、武者どもが渚に駆け寄ってきた。多くは鎧も着けておらず、徒歩かちである。義経たちは、それらを片っ端から射貫いてまわった。

 挑発するかのように浜をざっと駆け抜けては、馳射で舟の上のものたちも射貫いていく。まるで流鏑馬のようだと義経は思った。ひょうと弓が鳴り、少し遅れてあがる悲鳴が実に面白い。あるいは蹄に引っかけられた、かわいそうな徒立ちの兵が、命乞いをするのを討ち取って見せるのも軽妙だ。義経のもとには次々と首が集まってきた。

 味方にも射貫かれたものがでているが、平家方に比べればずっと少ない。砂浜に転がっている屍体には、あまり現実味がなかった。きっと血が砂に吸われてしまうからかもしれない。あるいは、いずれ波が浚っていくからか。

 しばらくそうしていると、内裏とおぼしき方角から煙が立ちのぼった。近藤が上手くやったようだ。

 義経は兵たちに声をかけると渚から撤退した。軍勢を小さくまとめ、内裏のほうへと向かう。途中、近藤たちとも合流して慎重に馬を進めた。内裏の総門の前の渚に、次々と平家の小舟で押し寄せてくる。いままで相手にしていた兵とはまったく違う、見るからに精強な兵たちだった。

 義経は馬を止めた。数多の兵を押しのけて、一騎、ひたすらに存在感のある武者が馬を進めてきた。武者は鎧直垂を着けず、唐巻染からまきぞめの小袖にから唐綾威あやおどしの鎧を着けていた。

「さぞかし名のあるものとお見受けする。名乗られよ!」
「能登守教経」
「嘘をつくなよ」

 義経は笑った。教経であるはずがない。教経は死んだのだ。しかし、武者から滲みでる圧は、まちがいなく教経そのものといってさしつかえない。梶原景時や河野通信の言っていたことは、本当だったということか――義経が逡巡しているあいだに、武者が矢をつがえ、放つ。鋭いうなりをあげながら飛びきた矢に、兵が射貫かれた。

「九郎殿!」

 継信と忠信が庇うように前に出て、義経の馬をさがらせる。伊勢三郎や金子十郎が矢を放つ。しかし、動かぬ武者を狙っているにもかかわらず、不思議なことに掠りもしない。わぁっと赤旗の兵たちがどよめきたつ。我も続けと意気揚々として、砂煙を巻きあげながら攻め来た。それを矢で散々に射かけるも、やはり数に押されはじめる。悠々としている能登守に一矢報いようと隙をうかがうも、すぐに周りの兵たちに阻まれた。

「十騎ずつ小さくまとまって散り散りに後退しろ! こちらの数を悟らせるな」

 義経の指示に従い、兵たちがそれぞれにまとまって後退をはじめた。なかでも田代冠者の率いる騎兵が巧みな動きを見せている。小さくまとまって引きさがりながらも、上手いこと矢を射こみ敵を足止めしていた。

「そこをどけ、矢面の雑魚ども」

 教経の咆哮。ぎりぎりと弦を引き絞る音が、こちらまで聞こえてくるようだった。後退しながらも、思わず恐怖で体がすくむ。こわばった指で手綱を強く握りしめた。

 大将である自分が弱気を見せてどうする。義経は声をあげた。恐れを振りはらおうと背後を仰ぎ見た、そのときだった。

 義経と教経のあいだに、唐突に継信が割り入った。その反動で義経は太夫黒ごと勢いよく突き飛ばされる。なにをするのかと文句を言おうと顔をあげ、義経は言葉を失った。

「あ」
「いけません、九郎殿!」

 忠信が太夫黒の手綱を掴んだ。

「でも」
「御身を大事にしてください! でないと兄が体を張った意味がなくなります」
「くそっ」

 浜の奥にある松林のあたりまで後退すると、平家の軍勢は、それ以上追ってこなかった。義経たちのいるあたりは高台のようになっており、頭上から容易に射貫かれることを懸念したのだろう。

 渚を見おろす。倒れている継信のもとに平家方の兵が一人、近づいてくるのが見えた。継信の首を獲ろうという魂胆だろう。

「させるかよ」

 すかさず忠信が駆け戻って矢を放った。忠信の矢は、見事に兵の足を貫いている。射貫かれて倒れた兵を見て、なにを思ったのか教経が、自ら馬で馳せきて抱え上げた。これは好機とばかり、忠信をはじめ幾人かが矢を次々と射こんだが、教経の馬にすら矢を当てることができなかった。

 教経が舟に戻ると平家の軍勢は沖に引き上げていった。

 義経は兜をかなぐり捨てると、忠信とともに継信のもとに駆け寄った。

 継信は左の肩から右の脇までを射貫かれていた。血の泡を吐きながらも、まだかろうじて息がある。義経は継信の体を引きよせて、その手を握った。

「しっかりしろ」
「だめですね」

 微かにため息をついて継信が薄く笑った。その手は氷のように冷たい。

「なにか言い残すことはあるか」
「なにも、ありません」

 それが精一杯だった。あとは声にならず、すべてが胸のうちでつかえる。涙がとめどなく溢れた。ただ弱っていく息の、その最期をあざ笑うかのように、波の音ばかりが規則正しい。

 夕暮れ時の海は金色に輝いている。

 継信には見えるだろうか。美しい黄金の。あの穏やかな青春の日々に、こんな南の地で果てるなど、だれが想像できようか。

 散り散りになっていた兵が義経のもとに集まってきていた。だれ一人として言葉をかけるものはいない。ただ、義経と継信を静にかこんでいる。

「弁慶」
「ここに」
「近藤殿に、このあたりに尊い僧侶がいはしないかと聞いてくれるか。継信を弔いたい。経の費用代わりに、この太夫黒を引いていけ」
「わかりました」

 忠信が、堪えきれずに嗚咽を漏らした。伊勢三郎やほかの兵たちも、みな一様に涙を浮かべ鼻をすすっていた。
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