屋島に咲く

モトコ

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能登守

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 平家の大舟団の向こう側に、屋島の稜線がくっきりと見えた。

 追い風、干潮。

 通信は唇を舐めた。黒漆の弓と、おのれの名を刻んだ矢を握りしめる。赤地錦の鎧直垂が、日の光を受けてきらきらと輝いた。

 通信の隣で景平が、ふらふらとしながら上体を起こし、兜をかぶった。相変わらず舟酔いがきつそうだ。

 狙うは端のほうで他の舟とはぐれたようになっている一団。

 通信は縮帆を指図した。干潮時ということもあって波は穏やかだ。潮流に乗って、櫂で漕いだほうが小回りがきく。

 通信の率いる河野の水軍は三十艘である。掻盾を立てさせ、颯爽と距離を詰めた。

 舳先に立って太刀を振る。三十艘が連なって、細長い形をとった。

 青い波を割ってあらわれた通信たちに気がついたか、敵の舟団に動揺が走るのが見てとれた。

 しかし、遅い。

 平家の舟団に向けて、雨のように矢を射こんだ。そのまま潮流にのって敵舟の舷に舟を激突させる。混乱して舟団からはぐれた一団に小型舟を突きいれた。ざっと割入って十艘ほどを本隊と完全に分断させる。蛇が獲物を締めつけるように、三十艘で十艘をかこいこんだ。

「行けや!」

 かけ声とともに潮騒におめきが混じる。熊手を手にした信家が、舟を引き寄せて乗りこんでは敵の首を掻き斬った。矢を射こんでくる敵兵を、景平が射抜く。通信も負けじと矢をつがえた。ぎりぎりと弦を引き絞って射る。掻盾を破壊した矢が、その後ろにいた敵兵をも貫いた。

 馬上では使い物にならない弦の張りの強い長弓だが、海戦ではこのくらいのほうが良い。通信の、どうだと言わんばかりの笑みを見て、景平がむくれた顔をした。通信に見せつけるように、並び立てられた掻盾の隙間から敵を射貫いてみせる。

 赤旗が次々と引きちぎられて、波の上に漂った。

 悪くない。

 通信は浜に向かって手をあげた。浜にいる騎兵のなかに義経がいるだろう。河野水軍の華々しい動きを見ていたはずだ。本隊から引き離した十艘を平らげたのち、通信は舟を浜に寄せさせた。舟から飛び降りて、騎兵の軍勢に駆けよる。

 通信の姿を見て、赤地錦の鎧直垂に紫裾濃の大鎧を着けた小柄な武者が歩み寄ってきた。

「あれ、かぶった」

 絵にかいたような美しさの義経である。通信が身に着けると浮いてしまう赤地錦を、軽やかに着こなしていた。しかし近づいてよく見れば、義経の鎧直垂は血を吸ってくすみ、色の白い肌は薄汚れて目元には濃い隈が浮かんでいた。憔悴しきったような表情で笑みをうかべながら、瞳だけがぎらぎらとしている。

「梶原殿の水軍は」

 口を開くなりそう言った義経の強さに、通信は驚くと同時に呆れた。

「今日は無理じゃないですかね」
「一部だけでも?」
「や、一部が来たところで、どうせ意味がないですから。この平家の大舟団をかこいきれないと。梶原殿って、意味のないこととか無駄なことはしないでしょう」

 無駄な犠牲を嫌うひとではないですかね――と言いかけて、通信は口を噤んだ。それを言ってしまったら、目の前の男を否定することになるような気がしたからだ。直感でしかなかったが、義経たちの戦いが厳しいものであったということは、その姿から見てとれる。

「普段から遅刻魔ですしね」

 そう言って、ため息をつく義経の表情が少し和らいだ。

「背後から追撃がないところをみると、伊勢三郎が上手くやってくれたようです」
「というと?」
「河野殿と戦っていた田口の調略ですよ」
「あっ!」

 たしかに、通信たちの三十艘を背後から田口勢に襲われていたらひとたまりもなかっただろう。田口のことなど、もうすっかり通信の頭からは抜け落ちていた。

「さすがですね。そこまで考えてなかったです」
「四郎!」

 景平の声に、通信は振り向いた。

「平家のほうに動き!」
「待って、そっち行く!」

 駆けながら沖を見ると、中型舟を筆頭にして五十艘ほどの舟が、河野の舟団に対峙するように陣型を整えようとしていた。

 いよいよだ。通信は胸が高鳴るのを感じた。波を蹴りあげながら舟に飛び乗る。ふと振りかえると、義経が駆け寄ってくる姿が見えた。

「河野殿! おれも舟に乗せてくれ」
「こっちへ」

 義経の手を取って、舟に引きあげる。

「いいんですか、あちらの騎兵は」
「大丈夫です。それよりも」

 沖に漕ぎでて舟団に合流する頃には、平家の舟が手堅い方形のまとまりを作っていた。前方中央に位置する中型舟には、得も言われぬ存在感があった。この一団は強い。一目でわかる。

「能登守が来ます」

 義経が身をのりだした。吹きつける風に、解れた髪が靡いている。その瞳に炎が宿るのを、通信は見逃さなかった。

 なにがあったのだろうか。否、想像に難くない。義経の血にまみれた鎧直垂が、痛々しく物語っているではないか。通信は口を引き結んだ。舳先で鞘に収めたまま太刀を振る。

 太刀の動きを見て、三十艘の舟が矢の届かない位置まで後退する。機動力のある小舟を後方にまわし、その前に通信や信家の操る中型舟を配置した。まともに当たっても、数の差で押されてしまう。いつでも逃げられるようにしたほうが良いだろう。

「いえ、逃げられません。突き破ってください」

 義経が口を開いた。

「突き破るっていっても」
「あの舟にいるのは能登守です」
「どうしてそう言いきれますか」

 言葉を遮るように、どかっという乾いた音が響いた。矢が、水夫に持たせた分厚い掻盾を粉砕していた。それだけでは飽き足らず、その後ろで兵が首を射貫かれて死んでいる。

「ばかな、この距離だぞ」

 舟の上に男が立っていた。男は、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧を着けている。

「教経!」

 義経が吠えた。

「射よ、あれを射殺せ!」

 義経の言葉に急かされるままに、通信と景平は矢を放った。しかし景平の矢は舟まで届かずに海上に落ち、通信の矢は掻盾に防がれる。

「ここは一端、引くべきかと!」

 信家が喚いていた。信家のかたわらで七郎も首を縦に振っている。教経が矢を放つ度に、掻盾ごと兵を射殺された。たまったものではない。ただでさえ、こちらのほうが舟の数も兵の数も少ないというのに。通信は、背後に陣を敷く小舟に後退を促した。

 勢いに乗ったのか、教経の武勇を見て平家方の弓の上手が次々と矢を放ってきた。多くは波に吸いこまれて消えていくが、弦に、掻盾に、帆柱にと、届くものも数知れない。小舟が後退したのを確認したのち、通信は舟を回転させて、平家の舟団に背を向けた。

「逃げるのか?」

 義経が通信の胸ぐらをつかんだ。

「おれは、なんとしても教経を討つ」

 義経の表情が歪んでいた。歪んでいるのにも関わらず美しいものだ、と通信は思った。

「まさかと思いますが弔い合戦ですか」
「そうだ! 継信を殺した教経は、必ず殺す」
「……」

 継信というのは、義経と縁の深いものなのだろう。ならば気持ちはわかる。自分もかつて我武者羅に父親の仇を討った。

 義経の家臣であれば、これほどに自分たちを思ってくれる、最上の主人に出会えたと涙ながらにその心に沿うだろう。しかし通信は義経の臣ではない。だれの臣でもないし、なったつもりもない。

 通信は逡巡した。なにも言わずに言葉を飲みこみ、義経の指示を無視することもできる。けれど、きっと自分の考えを伝えたほうがいい。

「九郎殿。おれたちにとって戦での死は名誉なものです。でもおれが死んだら、おれの家人や郎等、そして妻が路頭に迷うかもしれません。生きていけないかもしれません」

 胸元の掛守を握る。いまから紡ぐ言葉は、目の前の傷ついた男を、さらに傷つけるかもしれない。そういう予感がある。

「だからおれが命をかけるとき、おれの郎等たちは身を挺しておれを守るでしょうね」

 沼田の敗戦が脳裏をよぎった。立場もわきえずに独りよがりだったあの頃、自分は多くのものたちを死なせてきた。もう顔も思い出せないくらい、たくさんのものたちを死なせてきた。

 その屍の上に、いまの通信がある。

 だから、そのものたちの死を、自分の生き様で語らねばならない。彼らを、「無駄死にだった」と他人に言わせないためにも。

「もう一度言いますけど、おれたち武士にとって、戦での死は名誉なものです。でも自分の死に様を決められるのは自分自身だけであって、九郎殿でもないし、おれの郎等たちでも、神でも仏でもありません」

 通信は当主だ。これからも多くのものの人生を背負って立たねばならない。

「無駄死には名誉ではありません。それこそ九郎殿の嫌うことでしょう。おれがこんなところで死んだら、おれのために死んだものたち、すべてが無駄死にとなってしまいます」

 立ち続けていることは苦しい。けれど、背負ってきたものを投げだしてしまったとき、きっと通信はふたたび立ち上がることはできないだろう。背負っているものに、実のところ支えられている。

「おれの死に場所はここじゃないです。おれはまだまだ戦わなければなりません」
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