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Ⅰ 未完のアスリート
2 母の再婚
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物心つく頃から、淳一は母と二人、山の手の古ぼけたアパートに住んでいた。
山の手といっても、崖にへばりつくように安っぽい集合住宅がひしめいている所だ。多分家賃も安かったのだろう。おまけに交通が不便で、どこに行くにも長い坂道を歩かねばならない。
いつも日曜日は、母と一時間かけて商店街まで歩いて買い物をした。
その後、公立の図書館に寄り、そこでゆっくり時間を過ごし、絵本を何冊も借りて、また歩いて帰る。天気が悪くない限り、バスに乗るというぜいたくはしなかった。
平日は、仕事で夕方まで帰らない母を待つ間、絵本を繰り返し読みふける日々を過ごしていた。
部屋には母と男性が写っている写真があった。
男性が誰か聞いたことがある。
「この人はあなたの父さん。淳が赤ちゃんの時、地震で亡くなったの。淳のこと、すごく可愛がってくれていたのよ」
3、4才の頃だっただろうか。バスと電車を乗り継ぎ、どこかの公園に連れて行かれたことがある。
人で一杯の公園には太い竹筒にろうそくが灯されていた。
近くの不思議な形の建物に入ると、地下に降りる階段があった。薄暗い部屋の壁には、名前を刻んだ黒いプレートがびっしり貼られていた。
母はプレートの上に手を置き、涙ぐみながらだれかの名前を呼んだ。それを見て、淳一は怖くて大声で泣き出した。すぐ外に出してくれたが、震えが止まらなかった。
二度とその場所に行くことはなかったが、あの時、母は何と呼んでいたのだろう?
淳一が8才の時、母が再婚して生活が一変した。
新しい父は母より二回りも年上で、初めて会った時、お祖父さんになる人かと思った。前妻が病死して二年。二人の息子はどちらも結婚して家を出ている。
引っ越した家は、部屋数が多く、草が生い茂っているものの結構広い庭もあった。三人の生活が始まると、母と父の写真が入った額は見られなくなった。
母は後妻として迎えられたが、近親者への紹介はおざなりだった。結婚して何年にもなるのに、義父は訪れた親族に、「これはわしのあれでな」と、うろたえながら説明しているのが不思議だった。
母が再婚してうれしいこともあった。欲しかったゲーム機を買ってもらえたことだ。母もパートを掛け持ちすることがなくなり、顔や体つきがふっくらとしてきた。
自分の部屋をもらえたのはよかったが、今まで一つの部屋で寝ていた母と離れるのはつらかった。夜、寂しくて母に会いに行くと、義父にこっぴどく叱られた。
母はシーツで顔を隠したまま声をかけてくれず、泣きながら自分の部屋に戻った。悲しかったが、もう母は、自分だけのものではないことを思い知らされた。
転校した学校は、下町の学校と違い、子供同士の付き合いは万事あっさりとしていた。人見知りをしがちな淳一にとって、それはむしろ好ましいことでもあったが、暗くなるまで空き地や公園で遊ぶことがなくなり、暇を持て余すようになった。勢いゲームの世界にはまり、新しいソフトが出たと聞けば目の色を変えて母にねだった。
「前は、読んだ本のことを母さんに教えてくれていたのに」
寂しそうな顔をして、ふた月に一度くらい、ゲームソフトのお金を出してくれた。
学年が上がっても淳一はゲームに明け暮れていた。
その頃義父が営む水道工事の仕事が減ってきたらしい。母がまたパートに出始め、義父と言い争う姿が見られるようになった。
義父が酔って帰って来た日、ゲームに夢中になっていた淳一は、二人の口げんかが始まっても振り向きもしなかった。義父が怒りを爆発させ、大声で怒鳴った。
「なんじゃ。お前ら二人共、だれに食わせてもらっとんじゃ」
そう言うなり、淳一のゲーム機をテレビの画面に叩き付けた。にぶい音がして画面がへこみ、画像が消えた。
「もうやめて。私が悪かったから。淳ちゃんも謝りなさい」
ゆっくり立ち上がり、目の前にいる義父を見た。身長はさほど変わらない。義父は気圧されたように悪態をつき、ドアを強く閉めて出ていった。母が小さい声で言った。
「淳ちゃん、帰ろうか。前のアパートに」
しかしもう後戻りなどできないことは二人共分かっていた。
山の手といっても、崖にへばりつくように安っぽい集合住宅がひしめいている所だ。多分家賃も安かったのだろう。おまけに交通が不便で、どこに行くにも長い坂道を歩かねばならない。
いつも日曜日は、母と一時間かけて商店街まで歩いて買い物をした。
その後、公立の図書館に寄り、そこでゆっくり時間を過ごし、絵本を何冊も借りて、また歩いて帰る。天気が悪くない限り、バスに乗るというぜいたくはしなかった。
平日は、仕事で夕方まで帰らない母を待つ間、絵本を繰り返し読みふける日々を過ごしていた。
部屋には母と男性が写っている写真があった。
男性が誰か聞いたことがある。
「この人はあなたの父さん。淳が赤ちゃんの時、地震で亡くなったの。淳のこと、すごく可愛がってくれていたのよ」
3、4才の頃だっただろうか。バスと電車を乗り継ぎ、どこかの公園に連れて行かれたことがある。
人で一杯の公園には太い竹筒にろうそくが灯されていた。
近くの不思議な形の建物に入ると、地下に降りる階段があった。薄暗い部屋の壁には、名前を刻んだ黒いプレートがびっしり貼られていた。
母はプレートの上に手を置き、涙ぐみながらだれかの名前を呼んだ。それを見て、淳一は怖くて大声で泣き出した。すぐ外に出してくれたが、震えが止まらなかった。
二度とその場所に行くことはなかったが、あの時、母は何と呼んでいたのだろう?
淳一が8才の時、母が再婚して生活が一変した。
新しい父は母より二回りも年上で、初めて会った時、お祖父さんになる人かと思った。前妻が病死して二年。二人の息子はどちらも結婚して家を出ている。
引っ越した家は、部屋数が多く、草が生い茂っているものの結構広い庭もあった。三人の生活が始まると、母と父の写真が入った額は見られなくなった。
母は後妻として迎えられたが、近親者への紹介はおざなりだった。結婚して何年にもなるのに、義父は訪れた親族に、「これはわしのあれでな」と、うろたえながら説明しているのが不思議だった。
母が再婚してうれしいこともあった。欲しかったゲーム機を買ってもらえたことだ。母もパートを掛け持ちすることがなくなり、顔や体つきがふっくらとしてきた。
自分の部屋をもらえたのはよかったが、今まで一つの部屋で寝ていた母と離れるのはつらかった。夜、寂しくて母に会いに行くと、義父にこっぴどく叱られた。
母はシーツで顔を隠したまま声をかけてくれず、泣きながら自分の部屋に戻った。悲しかったが、もう母は、自分だけのものではないことを思い知らされた。
転校した学校は、下町の学校と違い、子供同士の付き合いは万事あっさりとしていた。人見知りをしがちな淳一にとって、それはむしろ好ましいことでもあったが、暗くなるまで空き地や公園で遊ぶことがなくなり、暇を持て余すようになった。勢いゲームの世界にはまり、新しいソフトが出たと聞けば目の色を変えて母にねだった。
「前は、読んだ本のことを母さんに教えてくれていたのに」
寂しそうな顔をして、ふた月に一度くらい、ゲームソフトのお金を出してくれた。
学年が上がっても淳一はゲームに明け暮れていた。
その頃義父が営む水道工事の仕事が減ってきたらしい。母がまたパートに出始め、義父と言い争う姿が見られるようになった。
義父が酔って帰って来た日、ゲームに夢中になっていた淳一は、二人の口げんかが始まっても振り向きもしなかった。義父が怒りを爆発させ、大声で怒鳴った。
「なんじゃ。お前ら二人共、だれに食わせてもらっとんじゃ」
そう言うなり、淳一のゲーム機をテレビの画面に叩き付けた。にぶい音がして画面がへこみ、画像が消えた。
「もうやめて。私が悪かったから。淳ちゃんも謝りなさい」
ゆっくり立ち上がり、目の前にいる義父を見た。身長はさほど変わらない。義父は気圧されたように悪態をつき、ドアを強く閉めて出ていった。母が小さい声で言った。
「淳ちゃん、帰ろうか。前のアパートに」
しかしもう後戻りなどできないことは二人共分かっていた。
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