2 / 139
Ⅰ 未完のアスリート
2 母の再婚
しおりを挟む
物心つく頃から、淳一は母と二人、山の手の古ぼけたアパートに住んでいた。
山の手といっても、崖にへばりつくように安っぽい集合住宅がひしめいている所だ。多分家賃も安かったのだろう。おまけに交通が不便で、どこに行くにも長い坂道を歩かねばならない。
いつも日曜日は、母と一時間かけて商店街まで歩いて買い物をした。
その後、公立の図書館に寄り、そこでゆっくり時間を過ごし、絵本を何冊も借りて、また歩いて帰る。天気が悪くない限り、バスに乗るというぜいたくはしなかった。
平日は、仕事で夕方まで帰らない母を待つ間、絵本を繰り返し読みふける日々を過ごしていた。
部屋には母と男性が写っている写真があった。
男性が誰か聞いたことがある。
「この人はあなたの父さん。淳が赤ちゃんの時、地震で亡くなったの。淳のこと、すごく可愛がってくれていたのよ」
3、4才の頃だっただろうか。バスと電車を乗り継ぎ、どこかの公園に連れて行かれたことがある。
人で一杯の公園には太い竹筒にろうそくが灯されていた。
近くの不思議な形の建物に入ると、地下に降りる階段があった。薄暗い部屋の壁には、名前を刻んだ黒いプレートがびっしり貼られていた。
母はプレートの上に手を置き、涙ぐみながらだれかの名前を呼んだ。それを見て、淳一は怖くて大声で泣き出した。すぐ外に出してくれたが、震えが止まらなかった。
二度とその場所に行くことはなかったが、あの時、母は何と呼んでいたのだろう?
淳一が8才の時、母が再婚して生活が一変した。
新しい父は母より二回りも年上で、初めて会った時、お祖父さんになる人かと思った。前妻が病死して二年。二人の息子はどちらも結婚して家を出ている。
引っ越した家は、部屋数が多く、草が生い茂っているものの結構広い庭もあった。三人の生活が始まると、母と父の写真が入った額は見られなくなった。
母は後妻として迎えられたが、近親者への紹介はおざなりだった。結婚して何年にもなるのに、義父は訪れた親族に、「これはわしのあれでな」と、うろたえながら説明しているのが不思議だった。
母が再婚してうれしいこともあった。欲しかったゲーム機を買ってもらえたことだ。母もパートを掛け持ちすることがなくなり、顔や体つきがふっくらとしてきた。
自分の部屋をもらえたのはよかったが、今まで一つの部屋で寝ていた母と離れるのはつらかった。夜、寂しくて母に会いに行くと、義父にこっぴどく叱られた。
母はシーツで顔を隠したまま声をかけてくれず、泣きながら自分の部屋に戻った。悲しかったが、もう母は、自分だけのものではないことを思い知らされた。
転校した学校は、下町の学校と違い、子供同士の付き合いは万事あっさりとしていた。人見知りをしがちな淳一にとって、それはむしろ好ましいことでもあったが、暗くなるまで空き地や公園で遊ぶことがなくなり、暇を持て余すようになった。勢いゲームの世界にはまり、新しいソフトが出たと聞けば目の色を変えて母にねだった。
「前は、読んだ本のことを母さんに教えてくれていたのに」
寂しそうな顔をして、ふた月に一度くらい、ゲームソフトのお金を出してくれた。
学年が上がっても淳一はゲームに明け暮れていた。
その頃義父が営む水道工事の仕事が減ってきたらしい。母がまたパートに出始め、義父と言い争う姿が見られるようになった。
義父が酔って帰って来た日、ゲームに夢中になっていた淳一は、二人の口げんかが始まっても振り向きもしなかった。義父が怒りを爆発させ、大声で怒鳴った。
「なんじゃ。お前ら二人共、だれに食わせてもらっとんじゃ」
そう言うなり、淳一のゲーム機をテレビの画面に叩き付けた。にぶい音がして画面がへこみ、画像が消えた。
「もうやめて。私が悪かったから。淳ちゃんも謝りなさい」
ゆっくり立ち上がり、目の前にいる義父を見た。身長はさほど変わらない。義父は気圧されたように悪態をつき、ドアを強く閉めて出ていった。母が小さい声で言った。
「淳ちゃん、帰ろうか。前のアパートに」
しかしもう後戻りなどできないことは二人共分かっていた。
山の手といっても、崖にへばりつくように安っぽい集合住宅がひしめいている所だ。多分家賃も安かったのだろう。おまけに交通が不便で、どこに行くにも長い坂道を歩かねばならない。
いつも日曜日は、母と一時間かけて商店街まで歩いて買い物をした。
その後、公立の図書館に寄り、そこでゆっくり時間を過ごし、絵本を何冊も借りて、また歩いて帰る。天気が悪くない限り、バスに乗るというぜいたくはしなかった。
平日は、仕事で夕方まで帰らない母を待つ間、絵本を繰り返し読みふける日々を過ごしていた。
部屋には母と男性が写っている写真があった。
男性が誰か聞いたことがある。
「この人はあなたの父さん。淳が赤ちゃんの時、地震で亡くなったの。淳のこと、すごく可愛がってくれていたのよ」
3、4才の頃だっただろうか。バスと電車を乗り継ぎ、どこかの公園に連れて行かれたことがある。
人で一杯の公園には太い竹筒にろうそくが灯されていた。
近くの不思議な形の建物に入ると、地下に降りる階段があった。薄暗い部屋の壁には、名前を刻んだ黒いプレートがびっしり貼られていた。
母はプレートの上に手を置き、涙ぐみながらだれかの名前を呼んだ。それを見て、淳一は怖くて大声で泣き出した。すぐ外に出してくれたが、震えが止まらなかった。
二度とその場所に行くことはなかったが、あの時、母は何と呼んでいたのだろう?
淳一が8才の時、母が再婚して生活が一変した。
新しい父は母より二回りも年上で、初めて会った時、お祖父さんになる人かと思った。前妻が病死して二年。二人の息子はどちらも結婚して家を出ている。
引っ越した家は、部屋数が多く、草が生い茂っているものの結構広い庭もあった。三人の生活が始まると、母と父の写真が入った額は見られなくなった。
母は後妻として迎えられたが、近親者への紹介はおざなりだった。結婚して何年にもなるのに、義父は訪れた親族に、「これはわしのあれでな」と、うろたえながら説明しているのが不思議だった。
母が再婚してうれしいこともあった。欲しかったゲーム機を買ってもらえたことだ。母もパートを掛け持ちすることがなくなり、顔や体つきがふっくらとしてきた。
自分の部屋をもらえたのはよかったが、今まで一つの部屋で寝ていた母と離れるのはつらかった。夜、寂しくて母に会いに行くと、義父にこっぴどく叱られた。
母はシーツで顔を隠したまま声をかけてくれず、泣きながら自分の部屋に戻った。悲しかったが、もう母は、自分だけのものではないことを思い知らされた。
転校した学校は、下町の学校と違い、子供同士の付き合いは万事あっさりとしていた。人見知りをしがちな淳一にとって、それはむしろ好ましいことでもあったが、暗くなるまで空き地や公園で遊ぶことがなくなり、暇を持て余すようになった。勢いゲームの世界にはまり、新しいソフトが出たと聞けば目の色を変えて母にねだった。
「前は、読んだ本のことを母さんに教えてくれていたのに」
寂しそうな顔をして、ふた月に一度くらい、ゲームソフトのお金を出してくれた。
学年が上がっても淳一はゲームに明け暮れていた。
その頃義父が営む水道工事の仕事が減ってきたらしい。母がまたパートに出始め、義父と言い争う姿が見られるようになった。
義父が酔って帰って来た日、ゲームに夢中になっていた淳一は、二人の口げんかが始まっても振り向きもしなかった。義父が怒りを爆発させ、大声で怒鳴った。
「なんじゃ。お前ら二人共、だれに食わせてもらっとんじゃ」
そう言うなり、淳一のゲーム機をテレビの画面に叩き付けた。にぶい音がして画面がへこみ、画像が消えた。
「もうやめて。私が悪かったから。淳ちゃんも謝りなさい」
ゆっくり立ち上がり、目の前にいる義父を見た。身長はさほど変わらない。義父は気圧されたように悪態をつき、ドアを強く閉めて出ていった。母が小さい声で言った。
「淳ちゃん、帰ろうか。前のアパートに」
しかしもう後戻りなどできないことは二人共分かっていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる