沈黙のメダリスト

友清 井吹

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Ⅰ 未完のアスリート

20 本当のピンチ

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淳一にとって本当のピンチは、すぐ後にやって来た。
10月。担任の吉見先生に放課後、職員室に来るよう告げられた。

「こんなことで君を呼び出すのは気が引けるんだけど。前に封筒を渡したよね」
高校の学費が三か月滞納されているという通知だ。

先月、通知を義父に渡すため、駅前のマンションへ行った。部屋は少し荒れている感じがした。
義父は封筒の中を見もせず言った。
「なみ江がパチンコにはまってしまってな」
  
「事務の人がお父さんに連絡したけど、まだ未納のままなの。こんなこと君に言うべきじゃないかもしれないけど、困ったことになるかもしれないから知らせとこうと思って」
「困ったことって何ですか?」
来年2月の修学旅行に行けなくなるということだ。それだけのことか。

「授業料は、もう補助を受けてるから何とかなるけど、修学旅行とかの積み立て金が滞っているから心配しているの。家の方どうなっているのかな?」
言えるはずがない。その場で聞いてみた。
「じゃあ先生。例えば僕が修学旅行に行かなければ、未納分は消えるということですか」

吉見先生はしばらく黙っていたが、小さい声で言った。
「まあ、そうね」
「じゃあキャンセルするので、お手数ですが、手続きをお願いできますか」
「まだそこまで決まったわけじゃないでしょ。私もこれから動いてみるから」

その日の夕方、気の重いまま義父に会いに行った。義父は、うつろな目をして玄関に出てきた。
「わしのキャッシュカードをあいつに取られてな。二軒分の光熱費も税金も滞納しとる。健介に頼んだら、なみ江と別れたら立て替えてやると捨て台詞だ。洋二に光熱費だけ出してもらっている。仕事の方は細々と続けているから、今度銀行口座を変えて、わしの手元に入れるつもりだ。それまでちょっと待ってくれんか。今月はいつものように渡せん。すまんがこれだけでな」

しわだらけの五千円札をくれた。先月分の3万円をもらっていないことを言い出せなかった。
今月分も無理か。ため息が出た。
未納のガス代ひと月分だけをコンビニで支払った。残るのは電気代と水道代。食費と学費もある。
家に来た督促通知の束を見て、またため息をついた。全部俺が払うのか。

高校の学費、要するに修学旅行費や卒業アルバム代をバイトをして払うのは、何とも割り切れない気がする。それよりまず光熱費だ。電気や水道を止められたらどうしようもない。

次の週から、毎週土日は必ず引越しのバイトを入れた。
この時期になると、もう近場の仕事はあまりなかった。秋から冬は引っ越しが少ないらしい。
県外まで遠出して、家に帰るのが11時ごろになる時もあった。
そうなると月曜日がしんどい。学校で居眠りすることが多くなった。

ファミレスでの仕事も始めた。
店に張っている『急募』という紙を見て、パチンコ屋と居酒屋を訪ねたが、高校生の男子はいらないと断られた。ファミレスは拘束時間が長い割に時給が低い。
中で彼女でも見つける目的なら別だが。
学校では疲れから目つきが鋭くなり、ますます口数も減った。

水泳部後輩の木ノ嶋さんが、2年の教室にやって来た。
「先輩、練習に来てくださいよ。温水プールだけでもいいです。みんな待っていますから」
椅子に座ったまま「行けたらね」、と一言つぶやいた。
水泳部の基礎体力作りや温水プールなんかに行くひまはないよ。

彼女は、淳一の疲れた顔を見て、悲しそうな顔で、それ以上何も言わず帰ってしまった。
わざわざ教室まで来てくれたのに悪かったな。何度か弁当を作ってくれた子だ。

さすがに疲れた。2学期の期末は、国立文系コース85人中68位。
だれ一人ほめてくれないけれど、よく頑張っている方じゃないか?

ファミレスの仕事は平日の5時から9時までだが、日によって10時までやることもある。
厨房では料理といっても、ほとんどが温めたら終わりだが、マニュアルを確認しながら作るので気を遣う。時には社員一人とバイト二人だけで、二十人以上の客の料理を作ったことがある。
晩飯は店で食べられるので助かるが、心が荒んでいくような気がする。

バイト仲間の多くは高校生だった。客が途切れた時、接客担当の女子から声をかけられた。
客の前では笑顔だが、奥に入るとむすっとして、休憩時間は外でタバコを吸っている。

「倉本君。今彼女いないんだったら私と付き合わへん?」
アイラインがきついし、口紅の色も濃すぎると思った。若いから素顔の方がましなのに。

「バイトと勉強で暇がない」
「えらいね。高校卒業する気なんや。私なんか卒業あきらめてる」
似たような境遇なのかもしれない。でもこの子と付き合い始めたら、もう高校なんかどうでもよくなってしまうのは確実だ。

「倉本君、東高やろ?あんな進学高に行ってるのにバイトせなあかんの?」
「生活苦しいし、一人で暮らしているから」
「ほんま?じゃあ私を泊めてよ」

そうしてもいいかな、と本気で考えた。家だったらキスでも何でも出来そうだ。
首を縦に振りそうになった。すると誰かが、淳一の服を引っ張ったような気がした。
「やめとけって」「よくないよ」そういう声が聞こえた気がした。

「いや無理かな。汚いし、せまいし」
「何、それ?」
彼女は馬鹿にしたように笑い、タバコを吸いに出て行った。

そのうち彼女は店に来なくなってしまった。惜しいことをしたのかもしれない。
うまくいけば高2で同棲できたのに。

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