34 / 139
Ⅱ 君とオリンピックに行きたい
4 彼女を誘う
しおりを挟む
文学部史学科には入学したといっても、日本史、東洋史、西洋史のどこに進むかはまだ決まっていない。1回生の成績で決定するから、気を引き締めて勉強しろとの事だ。
大学図書館の外観は重厚で古ぼけているが、中は広くて明るい。電灯のついた一人用の学習机を前にして、大学に入った喜びをかみしめた。
食事は学生食堂を利用している。安くて量があるので、夕食もここで済ませることが多い。
最初に友人になったのは、教育学部で陸上競技部の東田保君だ。千五百でインターハイや国体にも出たことがあるそうだ。1回生の男子では、彼だけが四月からの競技大会に出場している。大学近くに下宿しているので是非来てくれと誘われた。
周りにいる女子大生は、どの子もきれいで賢そうだ。同じ文学部といっても交流は語学の授業だけで、そこでも誰もが淳一より英会話が滑らかにできていた。やはり文学部の選択は間違っていたのかもしれない。
陸上競技部で走る時と図書館にこもる時だけほっとできた。
病院に行ってから一週間後、初めてグラウンドを3キロだけ走った。まだ右足に違和感はあるが、マッサージと湿布を欠かさなかったからか痛みは感じない。
高校の時の走法で足を蹴り上げず、地面にこするような走り方に戻した。
陸上部のマネージャーから、淳一の名前が入った兵庫県陸上選手権大会の分厚いプログラムが配られた。これがデビュー戦だ。念のため、もう一度あの整形外科医に診てもらおうと思った。医者からひと月後来るようにと言われたのにまだ行っていない。
三田島医院に行ったのは、診察時間の終了間際で、待合室には誰もいなかった。
医師は足を押さえてまだ痛むところを確認した。足底筋膜炎は、普段の姿勢や走り方で治りに差が出るそうだ。腰や背中を引き上げるような姿勢を教えてくれた。
突然奥のドアが開き、若い女性が掃除機を持って入ってきた。その女性の顔を見てはっとした。お寺やスーパーで出会った女性だ。ここの娘さんだったのか。
何となく頭を下げると、彼女も緊張した面持ちで小さくうなずいた。
「なんだ、あの子を知っているの?」
医師が意外そうに聞いた。
「いや、スーパーとかで何度か見かけただけです」
彼女はすぐ奥に引っ込んでしまい、医師が笑いながら話してくれた。
「あの子も中・高と陸上をやっていたんだが、いろいろやりすぎて、足を痛めてしまった。学校が学校だろう?走り高跳び専門のはずが、リレーには必ず出されるし、人数が足りなければバレーやバスケまでやらされていたよ。今は、もう治ったのにパソコンにかじりついてばかりだ」
学校が学校って何のことだ?
でも陸上をやっていたのなら、声をかけるチャンスかもしれない。
ほんの少し前まで、考えてもいなかった言葉をが口に出した。
「あの、来週の試合に彼女に来てもらってもいいですか?総合運動公園の競技場ですが」
「えっ?君の応援ということかな。別に構わないけど。でもあの子がその日に行くかどうか、それは知らんよ」
「はい。じゃあ少し話をさせてもらっていいですか?」
「話って君・・・」
そう言いながらも、奥のドアを開けて彼女を連れてきてくれた。
やっと話ができる。彼女は怪訝そうな顔をして診察室に入って来た。あわてて今日もらったばかりのプログラムを出し、淳一が出場するページを開けて、自分の名前を指さした。
「あのう、僕は今度これに出るんだけど、見に来れませんか。陸上をやっていたのなら、こういう大会、懐かしいかなと思って。ええと、もしちょっとでも来てくれたらすごくうれしいです。でも予定があるんだったらいいです。あの無理言ってすいません」
そう言って分厚いプログラムを押し付けるように渡した。彼女はプログラムを受け取り、困ったような顔をして父親を見た。淳一はもう耳まで真っ赤になった。
「急に言ってごめんなさい。あの、すいませんでした」
返事も聞かず、逃げるように診察室を出て、椅子に座った。
何やっているんだ俺は。
やっと見つかった彼女に、会ってすぐ俺の試合に来てくれだなんて言うかな。
三田島医師が待合室に出てきて、笑いながら話した。
「診察はまだ終わってないけど、その調子じゃ大丈夫かな。一応湿布だけ渡しておくよ。まあ、あの子が行っても行かなくても頑張れよ」
支払いを済ませ、飛び出すように病院を出た。俺は何を焦っていたんだ。
彼女の名前も聞いていない。どうせ来るはずがない。次に会ったときどう言えばいい?
いやそんな機会なんかないな。
くそ、本当に馬鹿なことしてしまった。
大学図書館の外観は重厚で古ぼけているが、中は広くて明るい。電灯のついた一人用の学習机を前にして、大学に入った喜びをかみしめた。
食事は学生食堂を利用している。安くて量があるので、夕食もここで済ませることが多い。
最初に友人になったのは、教育学部で陸上競技部の東田保君だ。千五百でインターハイや国体にも出たことがあるそうだ。1回生の男子では、彼だけが四月からの競技大会に出場している。大学近くに下宿しているので是非来てくれと誘われた。
周りにいる女子大生は、どの子もきれいで賢そうだ。同じ文学部といっても交流は語学の授業だけで、そこでも誰もが淳一より英会話が滑らかにできていた。やはり文学部の選択は間違っていたのかもしれない。
陸上競技部で走る時と図書館にこもる時だけほっとできた。
病院に行ってから一週間後、初めてグラウンドを3キロだけ走った。まだ右足に違和感はあるが、マッサージと湿布を欠かさなかったからか痛みは感じない。
高校の時の走法で足を蹴り上げず、地面にこするような走り方に戻した。
陸上部のマネージャーから、淳一の名前が入った兵庫県陸上選手権大会の分厚いプログラムが配られた。これがデビュー戦だ。念のため、もう一度あの整形外科医に診てもらおうと思った。医者からひと月後来るようにと言われたのにまだ行っていない。
三田島医院に行ったのは、診察時間の終了間際で、待合室には誰もいなかった。
医師は足を押さえてまだ痛むところを確認した。足底筋膜炎は、普段の姿勢や走り方で治りに差が出るそうだ。腰や背中を引き上げるような姿勢を教えてくれた。
突然奥のドアが開き、若い女性が掃除機を持って入ってきた。その女性の顔を見てはっとした。お寺やスーパーで出会った女性だ。ここの娘さんだったのか。
何となく頭を下げると、彼女も緊張した面持ちで小さくうなずいた。
「なんだ、あの子を知っているの?」
医師が意外そうに聞いた。
「いや、スーパーとかで何度か見かけただけです」
彼女はすぐ奥に引っ込んでしまい、医師が笑いながら話してくれた。
「あの子も中・高と陸上をやっていたんだが、いろいろやりすぎて、足を痛めてしまった。学校が学校だろう?走り高跳び専門のはずが、リレーには必ず出されるし、人数が足りなければバレーやバスケまでやらされていたよ。今は、もう治ったのにパソコンにかじりついてばかりだ」
学校が学校って何のことだ?
でも陸上をやっていたのなら、声をかけるチャンスかもしれない。
ほんの少し前まで、考えてもいなかった言葉をが口に出した。
「あの、来週の試合に彼女に来てもらってもいいですか?総合運動公園の競技場ですが」
「えっ?君の応援ということかな。別に構わないけど。でもあの子がその日に行くかどうか、それは知らんよ」
「はい。じゃあ少し話をさせてもらっていいですか?」
「話って君・・・」
そう言いながらも、奥のドアを開けて彼女を連れてきてくれた。
やっと話ができる。彼女は怪訝そうな顔をして診察室に入って来た。あわてて今日もらったばかりのプログラムを出し、淳一が出場するページを開けて、自分の名前を指さした。
「あのう、僕は今度これに出るんだけど、見に来れませんか。陸上をやっていたのなら、こういう大会、懐かしいかなと思って。ええと、もしちょっとでも来てくれたらすごくうれしいです。でも予定があるんだったらいいです。あの無理言ってすいません」
そう言って分厚いプログラムを押し付けるように渡した。彼女はプログラムを受け取り、困ったような顔をして父親を見た。淳一はもう耳まで真っ赤になった。
「急に言ってごめんなさい。あの、すいませんでした」
返事も聞かず、逃げるように診察室を出て、椅子に座った。
何やっているんだ俺は。
やっと見つかった彼女に、会ってすぐ俺の試合に来てくれだなんて言うかな。
三田島医師が待合室に出てきて、笑いながら話した。
「診察はまだ終わってないけど、その調子じゃ大丈夫かな。一応湿布だけ渡しておくよ。まあ、あの子が行っても行かなくても頑張れよ」
支払いを済ませ、飛び出すように病院を出た。俺は何を焦っていたんだ。
彼女の名前も聞いていない。どうせ来るはずがない。次に会ったときどう言えばいい?
いやそんな機会なんかないな。
くそ、本当に馬鹿なことしてしまった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる