沈黙のメダリスト

友清 井吹

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Ⅱ 君とオリンピックに行きたい

4 彼女を誘う

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文学部史学科には入学したといっても、日本史、東洋史、西洋史のどこに進むかはまだ決まっていない。1回生の成績で決定するから、気を引き締めて勉強しろとの事だ。

大学図書館の外観は重厚で古ぼけているが、中は広くて明るい。電灯のついた一人用の学習机を前にして、大学に入った喜びをかみしめた。
食事は学生食堂を利用している。安くて量があるので、夕食もここで済ませることが多い。

最初に友人になったのは、教育学部で陸上競技部の東田保君だ。千五百でインターハイや国体にも出たことがあるそうだ。1回生の男子では、彼だけが四月からの競技大会に出場している。大学近くに下宿しているので是非来てくれと誘われた。

周りにいる女子大生は、どの子もきれいで賢そうだ。同じ文学部といっても交流は語学の授業だけで、そこでも誰もが淳一より英会話が滑らかにできていた。やはり文学部の選択は間違っていたのかもしれない。
陸上競技部で走る時と図書館にこもる時だけほっとできた。
 
病院に行ってから一週間後、初めてグラウンドを3キロだけ走った。まだ右足に違和感はあるが、マッサージと湿布を欠かさなかったからか痛みは感じない。
高校の時の走法で足を蹴り上げず、地面にこするような走り方に戻した。

陸上部のマネージャーから、淳一の名前が入った兵庫県陸上選手権大会の分厚いプログラムが配られた。これがデビュー戦だ。念のため、もう一度あの整形外科医に診てもらおうと思った。医者からひと月後来るようにと言われたのにまだ行っていない。

三田島医院に行ったのは、診察時間の終了間際で、待合室には誰もいなかった。
医師は足を押さえてまだ痛むところを確認した。足底筋膜炎は、普段の姿勢や走り方で治りに差が出るそうだ。腰や背中を引き上げるような姿勢を教えてくれた。

突然奥のドアが開き、若い女性が掃除機を持って入ってきた。その女性の顔を見てはっとした。お寺やスーパーで出会った女性だ。ここの娘さんだったのか。
何となく頭を下げると、彼女も緊張した面持ちで小さくうなずいた。

「なんだ、あの子を知っているの?」
医師が意外そうに聞いた。
「いや、スーパーとかで何度か見かけただけです」

彼女はすぐ奥に引っ込んでしまい、医師が笑いながら話してくれた。
「あの子も中・高と陸上をやっていたんだが、いろいろやりすぎて、足を痛めてしまった。学校が学校だろう?走り高跳び専門のはずが、リレーには必ず出されるし、人数が足りなければバレーやバスケまでやらされていたよ。今は、もう治ったのにパソコンにかじりついてばかりだ」

学校が学校って何のことだ?
でも陸上をやっていたのなら、声をかけるチャンスかもしれない。
ほんの少し前まで、考えてもいなかった言葉をが口に出した。

「あの、来週の試合に彼女に来てもらってもいいですか?総合運動公園の競技場ですが」
「えっ?君の応援ということかな。別に構わないけど。でもあの子がその日に行くかどうか、それは知らんよ」
「はい。じゃあ少し話をさせてもらっていいですか?」
「話って君・・・」

そう言いながらも、奥のドアを開けて彼女を連れてきてくれた。
やっと話ができる。彼女は怪訝そうな顔をして診察室に入って来た。あわてて今日もらったばかりのプログラムを出し、淳一が出場するページを開けて、自分の名前を指さした。

「あのう、僕は今度これに出るんだけど、見に来れませんか。陸上をやっていたのなら、こういう大会、懐かしいかなと思って。ええと、もしちょっとでも来てくれたらすごくうれしいです。でも予定があるんだったらいいです。あの無理言ってすいません」

そう言って分厚いプログラムを押し付けるように渡した。彼女はプログラムを受け取り、困ったような顔をして父親を見た。淳一はもう耳まで真っ赤になった。

「急に言ってごめんなさい。あの、すいませんでした」
返事も聞かず、逃げるように診察室を出て、椅子に座った。
何やっているんだ俺は。
やっと見つかった彼女に、会ってすぐ俺の試合に来てくれだなんて言うかな。

三田島医師が待合室に出てきて、笑いながら話した。
「診察はまだ終わってないけど、その調子じゃ大丈夫かな。一応湿布だけ渡しておくよ。まあ、あの子が行っても行かなくても頑張れよ」

支払いを済ませ、飛び出すように病院を出た。俺は何を焦っていたんだ。
彼女の名前も聞いていない。どうせ来るはずがない。次に会ったときどう言えばいい?
いやそんな機会なんかないな。

くそ、本当に馬鹿なことしてしまった。

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