51 / 139
Ⅱ 君とオリンピックに行きたい
21 寺へ引っ越す
しおりを挟む
合宿から帰って間もなく、長年暮らした家から引越した。
暑い日だったが午前中だけで片付いた。
前日、庭を含め、どの部屋も時間をかけて掃除をした。
義父の前妻さんの仏壇をきれいにふいて、庭に咲いていた花を活けた。
手を合わせてつぶやいた。
「三人目の奥さんで苦労しているみたいですよ」
当日は洋二兄が軽トラを借りてきてくれた。引っ越し作業は慣れているから何の心配もない。
持っていくもので一番重いのは、兄からもらった70冊の文学全集だ。
この家で、母と8年、一人で4年近く暮らしてきた。
母が死んだ後、この家が無かったら行く所はどこにもなかった。それだけは義父に感謝だ。
引越しの前日、両隣の人に声をかけておいた。
当日、どちらも見送りに出て来てくれた。右隣のおばさんには特に世話になった。
母が亡くなってから、何かと声をかけてくれた。庭に干した洗濯物を取り入れて乾かしてもらい、残り物だけど、と言っておかずをもらったこともあった。
左隣のお嬢さんは、ここに来た時は赤ちゃんだったのに、今年中学生だ。
「あなたにうちの子の勉強を教えてもらおうと思っていたのに」
その母親から手作りのケーキを頂いた。死んだ母とは仲良くしていたそうだ。
挨拶だけの関係だと思っていたが、ちゃんと見守られていたんだな。
いつも何かをしてもらってばかりだけれど。
車に積み込みが終わり出発した。母さんとの思い出の家が遠ざかっていく。
振り向くと悲しいような寂しいような気持ちになった。
でも新しい住まいには、由佳が待っている。
淳一の住む寺は金剛寺という。街はずれにあり、建物や壁は割と新しい。
昔は大きな禅の道場だったそうだ。
本堂や納骨堂以外にも、修行に来た人が寝泊まりしたという古い建物があり、その中の一部屋を貸してもらうことになった。8畳の畳部屋で大きな押し入れがある。
朝食付き月3万円で敷金無しは信じられない安さだが、条件は思った以上に多かった。
門限はないが、戸締りはしっかりすること。
朝の勤行に出る出ないは自由。朝食は7時。
母が眠る納骨堂の掃除は毎朝する。鍵は淳一専用の分を渡しておく。
墓場と庭の掃除は、週2、3回はしてほしい。落ち葉の多い時期は1時間以上かかる。
葬儀はいいが、寺の行事はできるだけ手伝ってほしい。
トイレ三か所の掃除は週2回でいいから忘れないこと。
風呂は自分で掃除をするなら遅く入っても構わない。
どんどんやることが増えてきた。、
驚いたのは、住職夫婦の二人共手話ができるということだ。
特に伯母さんは、由佳と笑いながらすごい速さで手話をしていた。
ここの一家はどうなっているんだ。
この寺に、伯父さんだけでなく由佳の父親や母親も一緒に住んでいたそうだ。
由佳はこの家に何度も泊まったことがあり、自宅よりのびのび過ごしている印象を受けた。
子供がいない伯父夫婦に可愛がられて育ったそうだ。
荷物を運び終わり、勉強部屋と決めた部屋で二人向かい合った。
彼女は笑顔で右のこぶしで左の手首を叩く。お疲れ様の意味だ。
『これからよろしく』と握手をするつもりで彼女の手を握ろうとした。
さっと淳一から離れて手話をした。
「私に、さわらない約束でしょう?」
ではいつならいい?手話で聞いた。
彼女は左の握りこぶしに右人差し指を当て、前に振った。一年後という意味だ。
それは長すぎる。無理にでも抱きしめたい気分だ。
しかしその後どうなる?
彼女を失う愚だけは絶対に避けたい。
この部屋にいたかもしれない修行僧は、こんな悩みをどうやって乗り越えたのだろう。
暑い日だったが午前中だけで片付いた。
前日、庭を含め、どの部屋も時間をかけて掃除をした。
義父の前妻さんの仏壇をきれいにふいて、庭に咲いていた花を活けた。
手を合わせてつぶやいた。
「三人目の奥さんで苦労しているみたいですよ」
当日は洋二兄が軽トラを借りてきてくれた。引っ越し作業は慣れているから何の心配もない。
持っていくもので一番重いのは、兄からもらった70冊の文学全集だ。
この家で、母と8年、一人で4年近く暮らしてきた。
母が死んだ後、この家が無かったら行く所はどこにもなかった。それだけは義父に感謝だ。
引越しの前日、両隣の人に声をかけておいた。
当日、どちらも見送りに出て来てくれた。右隣のおばさんには特に世話になった。
母が亡くなってから、何かと声をかけてくれた。庭に干した洗濯物を取り入れて乾かしてもらい、残り物だけど、と言っておかずをもらったこともあった。
左隣のお嬢さんは、ここに来た時は赤ちゃんだったのに、今年中学生だ。
「あなたにうちの子の勉強を教えてもらおうと思っていたのに」
その母親から手作りのケーキを頂いた。死んだ母とは仲良くしていたそうだ。
挨拶だけの関係だと思っていたが、ちゃんと見守られていたんだな。
いつも何かをしてもらってばかりだけれど。
車に積み込みが終わり出発した。母さんとの思い出の家が遠ざかっていく。
振り向くと悲しいような寂しいような気持ちになった。
でも新しい住まいには、由佳が待っている。
淳一の住む寺は金剛寺という。街はずれにあり、建物や壁は割と新しい。
昔は大きな禅の道場だったそうだ。
本堂や納骨堂以外にも、修行に来た人が寝泊まりしたという古い建物があり、その中の一部屋を貸してもらうことになった。8畳の畳部屋で大きな押し入れがある。
朝食付き月3万円で敷金無しは信じられない安さだが、条件は思った以上に多かった。
門限はないが、戸締りはしっかりすること。
朝の勤行に出る出ないは自由。朝食は7時。
母が眠る納骨堂の掃除は毎朝する。鍵は淳一専用の分を渡しておく。
墓場と庭の掃除は、週2、3回はしてほしい。落ち葉の多い時期は1時間以上かかる。
葬儀はいいが、寺の行事はできるだけ手伝ってほしい。
トイレ三か所の掃除は週2回でいいから忘れないこと。
風呂は自分で掃除をするなら遅く入っても構わない。
どんどんやることが増えてきた。、
驚いたのは、住職夫婦の二人共手話ができるということだ。
特に伯母さんは、由佳と笑いながらすごい速さで手話をしていた。
ここの一家はどうなっているんだ。
この寺に、伯父さんだけでなく由佳の父親や母親も一緒に住んでいたそうだ。
由佳はこの家に何度も泊まったことがあり、自宅よりのびのび過ごしている印象を受けた。
子供がいない伯父夫婦に可愛がられて育ったそうだ。
荷物を運び終わり、勉強部屋と決めた部屋で二人向かい合った。
彼女は笑顔で右のこぶしで左の手首を叩く。お疲れ様の意味だ。
『これからよろしく』と握手をするつもりで彼女の手を握ろうとした。
さっと淳一から離れて手話をした。
「私に、さわらない約束でしょう?」
ではいつならいい?手話で聞いた。
彼女は左の握りこぶしに右人差し指を当て、前に振った。一年後という意味だ。
それは長すぎる。無理にでも抱きしめたい気分だ。
しかしその後どうなる?
彼女を失う愚だけは絶対に避けたい。
この部屋にいたかもしれない修行僧は、こんな悩みをどうやって乗り越えたのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる