沈黙のメダリスト

友清 井吹

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Ⅱ 君とオリンピックに行きたい

21 寺へ引っ越す

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合宿から帰って間もなく、長年暮らした家から引越した。
暑い日だったが午前中だけで片付いた。

前日、庭を含め、どの部屋も時間をかけて掃除をした。
義父の前妻さんの仏壇をきれいにふいて、庭に咲いていた花を活けた。
手を合わせてつぶやいた。
「三人目の奥さんで苦労しているみたいですよ」

当日は洋二兄が軽トラを借りてきてくれた。引っ越し作業は慣れているから何の心配もない。
持っていくもので一番重いのは、兄からもらった70冊の文学全集だ。

この家で、母と8年、一人で4年近く暮らしてきた。
母が死んだ後、この家が無かったら行く所はどこにもなかった。それだけは義父に感謝だ。

引越しの前日、両隣の人に声をかけておいた。
当日、どちらも見送りに出て来てくれた。右隣のおばさんには特に世話になった。
母が亡くなってから、何かと声をかけてくれた。庭に干した洗濯物を取り入れて乾かしてもらい、残り物だけど、と言っておかずをもらったこともあった。

左隣のお嬢さんは、ここに来た時は赤ちゃんだったのに、今年中学生だ。
「あなたにうちの子の勉強を教えてもらおうと思っていたのに」
その母親から手作りのケーキを頂いた。死んだ母とは仲良くしていたそうだ。
挨拶だけの関係だと思っていたが、ちゃんと見守られていたんだな。
いつも何かをしてもらってばかりだけれど。

車に積み込みが終わり出発した。母さんとの思い出の家が遠ざかっていく。
振り向くと悲しいような寂しいような気持ちになった。
でも新しい住まいには、由佳が待っている。

淳一の住む寺は金剛寺という。街はずれにあり、建物や壁は割と新しい。
昔は大きな禅の道場だったそうだ。
本堂や納骨堂以外にも、修行に来た人が寝泊まりしたという古い建物があり、その中の一部屋を貸してもらうことになった。8畳の畳部屋で大きな押し入れがある。
朝食付き月3万円で敷金無しは信じられない安さだが、条件は思った以上に多かった。

門限はないが、戸締りはしっかりすること。
朝の勤行に出る出ないは自由。朝食は7時。
母が眠る納骨堂の掃除は毎朝する。鍵は淳一専用の分を渡しておく。
墓場と庭の掃除は、週2、3回はしてほしい。落ち葉の多い時期は1時間以上かかる。
葬儀はいいが、寺の行事はできるだけ手伝ってほしい。
トイレ三か所の掃除は週2回でいいから忘れないこと。
風呂は自分で掃除をするなら遅く入っても構わない。
どんどんやることが増えてきた。、

驚いたのは、住職夫婦の二人共手話ができるということだ。
特に伯母さんは、由佳と笑いながらすごい速さで手話をしていた。
ここの一家はどうなっているんだ。
この寺に、伯父さんだけでなく由佳の父親や母親も一緒に住んでいたそうだ。
由佳はこの家に何度も泊まったことがあり、自宅よりのびのび過ごしている印象を受けた。
子供がいない伯父夫婦に可愛がられて育ったそうだ。

荷物を運び終わり、勉強部屋と決めた部屋で二人向かい合った。
彼女は笑顔で右のこぶしで左の手首を叩く。お疲れ様の意味だ。
『これからよろしく』と握手をするつもりで彼女の手を握ろうとした。
さっと淳一から離れて手話をした。

「私に、さわらない約束でしょう?」
ではいつならいい?手話で聞いた。
彼女は左の握りこぶしに右人差し指を当て、前に振った。一年後という意味だ。

それは長すぎる。無理にでも抱きしめたい気分だ。
しかしその後どうなる?
彼女を失う愚だけは絶対に避けたい。
この部屋にいたかもしれない修行僧は、こんな悩みをどうやって乗り越えたのだろう。
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