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Ⅲ ロンドンへの道
5 プロポーズ
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監督から、尼崎の長距離記録会に出るように指示された。
淳一や東田を含む10人が5000mに出ることになった。
全体のエントリーは百人を超えていて4組もある。淳一は第一組で25人が走る。
駅伝で知られている高校の選手が多い。
今日、由佳はいない。
聾学校高等部を来年卒業するが、進路をどうするか家族で話し合うので、今日は応援には行けないと連絡があった。マイナーな大会だしスタート時間も遅い。
今度行われる大学駅伝のために走るらしいが、無理して来なくていいと返事をしておいた。
今日も最初から飛ばし、3周目でトップになった。彼女がいなくても走れるんだな。
10周を過ぎると独走態勢に入った。
鐘が鳴り、最後の1周でさらにスパートをかける。その時、左足が突っ張る感じがした。
太ももの後ろが急に痛み出したので左手で叩いた。つったのか?
水泳の時、何度か経験した痛みに似ている。
スピードを落としたものの何とかトップでフィニッシュ。
記録は14分7秒。やはり14分は切れなかった。
すぐスタンドでアイシングをする。早くしないと効果はない。
記録会終了後、監督が大学駅伝の予選会出場者を発表した。淳一を含め8名が出場する。
びわ湖大学駅伝の予選会は6組に分かれ、一万のタイムトライアルで行われる。各大学上位8人の合計タイムで本選への出場が決まるそうだ。
昨年は人数が足らず、予選会には参加できなかったらしい。
先輩の話によると監督さんの今年にかける意気込みはすごいらしい。
明日から8日間、毎日練習すると聞き唖然とした。おずおずと監督に報告をした。
「すいません。どうも足を痛めたみたいなので、病院に行きます」
「故障は許さんぞ。休んでいいのは明日だけだ。明後日までに回復しておけ」
冗談を言っている顔ではない。そんなにうまくいくかな?
彼女に連絡をして、三田島医院に診察時間終了後に訪れた。
夜のトレーニングの後は、医院の玄関まで送っていくのが日課になっているが、中に入るのは久しぶりだ。
ベッドに寝かされ父親のマッサージを受ける。由佳よりなめらかで力強い。彼女は側で父親からポイントを教えられていた。足の痛みは消えていたので、特に故障したわけでもなさそうだ。
終わってから4人で初めての夕食会。ご馳走が並んでいる。
「先月貰ったかまぼことかのお土産は、全部頂いたよ。それで東北はどうだった?」
「復興はまだまだですね。神戸みたいにはいかないと思います。」
「あの時の地震では、うちもえらい目にあった。由佳が生まれたのは、その年の7月だ。1月17日、家内は妊娠三か月だったが、別の病院に詰めっぱなしだったので心配したよ」
「僕は1歳だったから何も覚えていません。避難所の学校でしばらく暮らしたそうです。あまり泣かなくて助かったと、母が言っていました」
しばらく震災の話をした後、父親がビールを注いでくれた。
引越しのバイトをした後、何度か飲まされたことがある。
それほどおいしいとは思わなかった。一応口をつけたが、やはり苦いとしか思えなかった。
「陸上の方はどうかな。由佳のサポート効果は出てきたか?」
「彼女のおかげで順調です。いつ走ってもタイムが安定してきました」
母親が、新しい皿を持って来た。
「淳一さんは順調かもしれないけど、由佳も高3でしょ。進路をそろそろ決めないとね。一日二回もお寺に行くのは無理かも。その辺は考えて頂戴ね」
顔は笑っているが言葉はきつい。
「今日は彼女の応援なしで頑張りました。少し足を痛めたけど」
父親が手話に加わった。
「由佳は後半年で卒業だが、私はゆっくり自分に合う進路を見つけたらいいと思っている。由佳は、どうしようと思っているんだ?」
「彼と練習を続けたい。3月のマラソン大会で決まるから。それまでお願い」
両親に手を合わせた。
「後半年くらいなら、私は由佳のやりたいようにさせてもいいと思っている」
「でも高等部を卒業してからどうするの?無職でいいの?」
母親は手話をせずに話した。由佳は食い入るように口元を見つめている。
「すみません。ぼくの都合で彼女を独り占めして」
淳一の手話を見た彼女は、何度も首を振った。
「違う。私はしたいことしている。彼は関係ない」
「まあ今日は、ここまでにしよう。せっかくのご馳走が冷えてしまう。それで君は将来どうするつもりなの。陸上を続けていくのかな?」
三田島先生が話を変えてくれた。
「彼女のおかげで記録は伸びています。でも陸上で食べていけるほど甘くないことは分かっています。今のところ教師になろうか、とぐらいしか考えていません」
「まだ大学1年だからな。教師なら公務員か。六甲大なら就職だって固いだろう」
淳一は夕食を食べながら、ぽつりぽつりと東北のことを話し始めた。
ほとんどの建物はなくなったが、学校は残っていた。そこの先生に教師を目指せと言われた。
子供たちと二日間遊んだら離れなくなって困った。最後に別れるとき涙が出た。
そう話すと本当に涙が出てしまった。こんな時に情けない。
母親が口話と手話で語りかけてきた。
「淳一さん。これからずっと由佳のこと大事にしてくれる?由佳が聞こえないことをわかって付き合ってくれるのはうれしいけどね。でもこれから健聴者で、由佳よりいい人が出てこないとは限らないでしょう?」
彼女が心配そうに淳一を見た。
「僕が彼女にふさわしいか心配です。何年か先、大学を卒業して就職ができたら、彼女と・・・」
結婚の手話。右手の親指と左手の人差指を立て、近づけようとした。
三人の視線が自分の手に注がれているのに気がついた。
それで左右の指をくっつけないまま、両手を握りしめてしまった。
顔が真っ赤になっているのが分かる。
今、由佳に親の前でプロポーズしたことになるんだな。
まだ大学1回生で、高校生の彼女と結婚したいなんて親の前でよく言ったな。
恥ずかしくて顔を上げられない。
テーブルの下で、彼女が淳一の手を強く握ってきた。
淳一や東田を含む10人が5000mに出ることになった。
全体のエントリーは百人を超えていて4組もある。淳一は第一組で25人が走る。
駅伝で知られている高校の選手が多い。
今日、由佳はいない。
聾学校高等部を来年卒業するが、進路をどうするか家族で話し合うので、今日は応援には行けないと連絡があった。マイナーな大会だしスタート時間も遅い。
今度行われる大学駅伝のために走るらしいが、無理して来なくていいと返事をしておいた。
今日も最初から飛ばし、3周目でトップになった。彼女がいなくても走れるんだな。
10周を過ぎると独走態勢に入った。
鐘が鳴り、最後の1周でさらにスパートをかける。その時、左足が突っ張る感じがした。
太ももの後ろが急に痛み出したので左手で叩いた。つったのか?
水泳の時、何度か経験した痛みに似ている。
スピードを落としたものの何とかトップでフィニッシュ。
記録は14分7秒。やはり14分は切れなかった。
すぐスタンドでアイシングをする。早くしないと効果はない。
記録会終了後、監督が大学駅伝の予選会出場者を発表した。淳一を含め8名が出場する。
びわ湖大学駅伝の予選会は6組に分かれ、一万のタイムトライアルで行われる。各大学上位8人の合計タイムで本選への出場が決まるそうだ。
昨年は人数が足らず、予選会には参加できなかったらしい。
先輩の話によると監督さんの今年にかける意気込みはすごいらしい。
明日から8日間、毎日練習すると聞き唖然とした。おずおずと監督に報告をした。
「すいません。どうも足を痛めたみたいなので、病院に行きます」
「故障は許さんぞ。休んでいいのは明日だけだ。明後日までに回復しておけ」
冗談を言っている顔ではない。そんなにうまくいくかな?
彼女に連絡をして、三田島医院に診察時間終了後に訪れた。
夜のトレーニングの後は、医院の玄関まで送っていくのが日課になっているが、中に入るのは久しぶりだ。
ベッドに寝かされ父親のマッサージを受ける。由佳よりなめらかで力強い。彼女は側で父親からポイントを教えられていた。足の痛みは消えていたので、特に故障したわけでもなさそうだ。
終わってから4人で初めての夕食会。ご馳走が並んでいる。
「先月貰ったかまぼことかのお土産は、全部頂いたよ。それで東北はどうだった?」
「復興はまだまだですね。神戸みたいにはいかないと思います。」
「あの時の地震では、うちもえらい目にあった。由佳が生まれたのは、その年の7月だ。1月17日、家内は妊娠三か月だったが、別の病院に詰めっぱなしだったので心配したよ」
「僕は1歳だったから何も覚えていません。避難所の学校でしばらく暮らしたそうです。あまり泣かなくて助かったと、母が言っていました」
しばらく震災の話をした後、父親がビールを注いでくれた。
引越しのバイトをした後、何度か飲まされたことがある。
それほどおいしいとは思わなかった。一応口をつけたが、やはり苦いとしか思えなかった。
「陸上の方はどうかな。由佳のサポート効果は出てきたか?」
「彼女のおかげで順調です。いつ走ってもタイムが安定してきました」
母親が、新しい皿を持って来た。
「淳一さんは順調かもしれないけど、由佳も高3でしょ。進路をそろそろ決めないとね。一日二回もお寺に行くのは無理かも。その辺は考えて頂戴ね」
顔は笑っているが言葉はきつい。
「今日は彼女の応援なしで頑張りました。少し足を痛めたけど」
父親が手話に加わった。
「由佳は後半年で卒業だが、私はゆっくり自分に合う進路を見つけたらいいと思っている。由佳は、どうしようと思っているんだ?」
「彼と練習を続けたい。3月のマラソン大会で決まるから。それまでお願い」
両親に手を合わせた。
「後半年くらいなら、私は由佳のやりたいようにさせてもいいと思っている」
「でも高等部を卒業してからどうするの?無職でいいの?」
母親は手話をせずに話した。由佳は食い入るように口元を見つめている。
「すみません。ぼくの都合で彼女を独り占めして」
淳一の手話を見た彼女は、何度も首を振った。
「違う。私はしたいことしている。彼は関係ない」
「まあ今日は、ここまでにしよう。せっかくのご馳走が冷えてしまう。それで君は将来どうするつもりなの。陸上を続けていくのかな?」
三田島先生が話を変えてくれた。
「彼女のおかげで記録は伸びています。でも陸上で食べていけるほど甘くないことは分かっています。今のところ教師になろうか、とぐらいしか考えていません」
「まだ大学1年だからな。教師なら公務員か。六甲大なら就職だって固いだろう」
淳一は夕食を食べながら、ぽつりぽつりと東北のことを話し始めた。
ほとんどの建物はなくなったが、学校は残っていた。そこの先生に教師を目指せと言われた。
子供たちと二日間遊んだら離れなくなって困った。最後に別れるとき涙が出た。
そう話すと本当に涙が出てしまった。こんな時に情けない。
母親が口話と手話で語りかけてきた。
「淳一さん。これからずっと由佳のこと大事にしてくれる?由佳が聞こえないことをわかって付き合ってくれるのはうれしいけどね。でもこれから健聴者で、由佳よりいい人が出てこないとは限らないでしょう?」
彼女が心配そうに淳一を見た。
「僕が彼女にふさわしいか心配です。何年か先、大学を卒業して就職ができたら、彼女と・・・」
結婚の手話。右手の親指と左手の人差指を立て、近づけようとした。
三人の視線が自分の手に注がれているのに気がついた。
それで左右の指をくっつけないまま、両手を握りしめてしまった。
顔が真っ赤になっているのが分かる。
今、由佳に親の前でプロポーズしたことになるんだな。
まだ大学1回生で、高校生の彼女と結婚したいなんて親の前でよく言ったな。
恥ずかしくて顔を上げられない。
テーブルの下で、彼女が淳一の手を強く握ってきた。
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