沈黙のメダリスト

友清 井吹

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Ⅴ 由佳の選択

8 私に何をしてもいい

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その日から、彼女の生活はめまぐるしいほど忙しくなった。

英語とアメリカ手話の勉強。渡航のための手続きもあり、淳一と顔を合わせることも少なくなった。
一緒にトレーニングをして、寺で二人そろって朝食を食べる習慣が完全に消えた。

淳一はまた、大学の陸上競技部に戻ったが、週に一度顔をのぞかせるくらいだ。
久しく行けなかった図書館に通い、閉館まで居残ることが多くなった。
卒論までに、読むべき本が限りなくある。勉強しておかないと。

テレビCMの撮影は、一週間ぶっ通しで行われた。
信州の山道や東京の国立競技場、湘南の海岸を何度も走らされてくたくたになった。
彼女への連絡は、初め淳一がやっていたが、服装やメイクの説明などでもたつくので、途中から女性の手話通訳者が付いた。確かにスタイリストの指示なんか半分も理解できなかった。   

着替えたり、走ったり、手をつないで歩いたり、スタジオでポーズを取らされたりして疲れ果てた。それでもプロに化粧してもらった由佳は本当にきれいで、改めて見とれてしまった。
彼女はどんどん輝いていき、俺は落ち込んでいく。

渡米するのは10月初め。前々日に一日だけ、淳一のために時間を空けてくれた。
「今日は、どこへ行ってもいい。それから、私に何をしてもいい」

朝、寺に来て伯父さん夫婦と久しぶりに四人で朝食。
伯母さんは、「気をつけて」と言ったまま言葉にならず涙ぐんでしまい、彼女が抱きしめた。
伯父さんが「いい加減にしろ」と言いながら、自分も目を潤ませている。

食後、彼女と毎日トレーニングしたランニングコースをゆっくり歩いた。
秋風が心地よい。いつもストレッチをする公園で軽くマッサージをしてくれた。
二人で歩くのはもうこれでおしまいか。胸が詰まる思いで歩いていると、彼女が、淳一の手を取り走り出した。何十、いや何百回このコースを駆け抜けたのだろう。

もう俺を引っ張ってくれるのは終わりか。いつまでも俺だけの由佳であってほしかったけれど、知らない間に俺より先を進んでいたんだな。これから歩む道や場所が違っていく気がする。
今度会った時、二人はどうなっているのだろう。

散歩を途中で切り上げ、淳一の部屋で愛し合った。もう彼女のどこに触れればどう反応するかもわかってきた。でもそれもおしまいか。

午後は二人で、六甲大学で行われる陸上部主催の祝勝会に行った。
学生食堂での立食パーティで、部員以外の人の方が多い。学長さんや学生課の林田さん、田代教授も来てくれた。百人もの人に挨拶するのは大変だった。
由佳は、学生に取り囲まれ笑顔で手話をしていた。

会場が暗くなり、ロンドンで走る様子が映し出された。フィニッシュ寸前の場面。
会場一杯の人がスクリーンに向かって大歓声を上げる。3位になった時、やっぱりブーイングが沸き起こった。
淳一が彼女に手話をしている場面では、何と画像にハートマークが映っていて、会場は口笛や笑い声ではちきれんばかりになった。

閉会後、吉泉教授の研究室に行った。
彼女は監督から封筒を渡されると、嬉しそうにそれを胸に抱いた。

「これはカリフォルニア大学へ私が書いた推薦状だ。高校の成績表も英訳して入れておいた。この娘さんは良くできるから多分大丈夫だろう」
事前に頼んでいたのか。俺が出来る事は、抱いたりキスしたりするだけか。

大学を出て、近くの摩耶山に行った。人通りの多い三宮には行かず、ケーブルとロープウエイを乗り継いで山頂まで登ることにしたのだ。そういえば初めてのデートもハイキングだった。

頂上広場で、眼下に広がる海と街を見おろした。
「景色もきれいだけど、君の方がもっときれいだよ。君は、アメリカでもてるだろうな」
「あなたもステキよ。私はジュンが誰と付き合っても平気。私たちは最高のパートナーでしょう?」
彼女の思いがよく分からない。彼女は淳一を見つめた。

「明後日、見送りには来ないで」
「何で?必ず行くつもりだった」
「私、あなたを見たらきっと泣く。あなたも泣くと思う。出発するのがつらくなる。来なくても泣くかもしれないけれど」
「わかった。じゃあ今日が最後か」

彼女を抱きしめた。眼下の大阪湾の、そのまたはるか向こうに由佳は行ってしまう。
遠すぎるよ。遠すぎる遠距離恋愛だ。

その日、三田島家での夕食には彼女の姉夫婦も来ていた。姉さんのお腹が大きい。
今八か月とのことだ。すごい速さで姉妹が手話をしている。

側で旦那さんが、「すばらしい弟ができてうれしい」と言ってくれた。
誰も由佳の留学のことにはふれなかった。母親は年末に渡米する予定だったが、姉の出産予定日が近いのでやめるということだ。


彼女が渡米した当初、パソコンで毎日のように会った。
時差は17時間もある。アメリカが夜の12時で、こちらは夕方の5時にパソコンの前に座る。
初めは一日の出来事を事細かに手話で知らせ合った。

でもスカイプの利用はすぐ終わってしまった。彼女から今覚えているアメリカ手話と混同するので、英文のメールにしてほしいと言われた。
返事も英文なので、辞書片手に大変だ。翻訳機能を使えと言われたが、それも途中で投げ出した。
彼女にとって日本語は、第二言語で、アメリカ手話は第三言語。英語は第四言語になるのか。
バイリンガルどころではない、すごい能力だ。

しかし数日おきのメール交換が週一回、そのうちもっと間が空くようになってきた。
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