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Ⅴ 由佳の選択
17 遍路道
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淳一は吉見先生と別れた後、伯父さんから夕食に誘われた。
ここで断ることはできないと思った。
「ご無沙汰していて申し訳ありません。今度草抜きに来ます」
「無理しなくていいのよ。でもいつでも顔を見せてね。そうそう、もうすぐモスクワで世界陸上があるでしょう。うちの人、淳一君を何で出さないんだってうるさいのよ」
「陸上は・・・・、彼女がいないと走る気がしなくなってしまって」
伯母さんが口をつぐんだ。馬鹿だな、二人が気を遣って由佳の名前を出さなかったのに。
伯父さんが淳一を見据えて言った。
「ではな、淳一君。この夏、千二百キロを歩くというのはどうだ。やってみないか?」
泊まっていけと言うのを断った。彼女と過ごしたあの部屋には戻れない。
荒れ果てた部屋に帰るなりベッドに倒れこんだ。酒を飲まずに眠るのは何日ぶりだろう。
朝、なぜか部屋に東田がいた。彼にはマンションの暗証番号を教えている。
昨晩は部屋の鍵を掛け忘れていたようだ。
「コーヒーと食べる物を用意しといたよ。その様子じゃ相当大変なことがあったみたいだけど、後でゆっくり聞かせてもらう。今はしんどくても目の前のことやっていこう。前期の試験が明日からだ。起きてシャワーを浴びろ。髭も剃れよ」
試験なんかどうでもいいと思ったが、コーヒーの匂いで腹が鳴った。
いい気なもんだ。小説の主人公のように死ねないんだったら生きていくしかないか。
前期試験が終わった次の日から、伯父さんに教えられた1200キロの道、四国八十八か所の遍路道を歩き始めた。陸上部の合宿には行かなかった。
歩き始めた頃、知らない間に頭の中で由佳と会話をしていた。
手話ではなく、彼女が話す声が聞こえる。忘れようとすればするほど、鮮明に彼女の顔が浮かんでくる。それをどうにかしようと、多くのお遍路さんを抜きながら走るように歩いた。
でも彼女の顔が消えることはなかった。
徳島県の日和佐を出て、室戸までの長い行程。海の側を足早に歩いていると、頭が透き通って来るのを感じた。風の中、雨の中、太平洋を左に眺めながら南へ歩き続けた。
その時、束の間でも由佳のことを考えていない自分に気が付いた。
丸一日、早朝から60km以上を早足で歩き続け、海岸沿いの旅館にようやくたどり着いた。
宿の人に、その昔空海が修業したという洞窟を教えてもらい、明け方、その洞窟から太平洋に日が昇るのを眺めた。
太陽はこうやって、何十億年も日の出を繰り返してきているんだな。
俺は何をちょこまか走っているんだ。
この風景をだれかと見たいと思った。
由佳でなくてもいい。だれかと。
高知県に入り、合宿を終えた東田が合流してくれた。
彼から初めてきちんと遍路旅の作法を教えてもらった。子供のころ両親と八十八か所を回ったそうだ。
今までは、本堂の前で手を合わせ、般若心経だけ唱えて納経帳に朱印を押してもらい、一目散に次の寺を目がけて走り出していた。
一日に七か寺も回ったことがある。まるでスタンプラリーだ。
納め札を用意し、行く寺ごとに線香やろうそくを灯すようになった。
彼とあれこれ話しながら歩くのは楽しかった。景色を楽しむ余裕もできてきた。
由佳のことを思い出さない時間が増えていった。
4日後、彼が岡山に帰省してから、さらに3日間歩き、真っ黒に日焼けして神戸に戻った。
結局、千二百キロを走破はすることはできなかった。
途中で打ち切ったのは、愛媛県を歩いている途中、吉見先生から連絡があったからだ。
先生に打ち明けてから一か月が過ぎていた。
先生は、誰かと会う日時と場所だけ教えてくれたが、名前は言ってくれなかった。
顔を見ればわかるとのことだ。多分香奈さんと思うが、だれでもいい。
今は誰かに心の隙間を埋めてほしい。
ここで断ることはできないと思った。
「ご無沙汰していて申し訳ありません。今度草抜きに来ます」
「無理しなくていいのよ。でもいつでも顔を見せてね。そうそう、もうすぐモスクワで世界陸上があるでしょう。うちの人、淳一君を何で出さないんだってうるさいのよ」
「陸上は・・・・、彼女がいないと走る気がしなくなってしまって」
伯母さんが口をつぐんだ。馬鹿だな、二人が気を遣って由佳の名前を出さなかったのに。
伯父さんが淳一を見据えて言った。
「ではな、淳一君。この夏、千二百キロを歩くというのはどうだ。やってみないか?」
泊まっていけと言うのを断った。彼女と過ごしたあの部屋には戻れない。
荒れ果てた部屋に帰るなりベッドに倒れこんだ。酒を飲まずに眠るのは何日ぶりだろう。
朝、なぜか部屋に東田がいた。彼にはマンションの暗証番号を教えている。
昨晩は部屋の鍵を掛け忘れていたようだ。
「コーヒーと食べる物を用意しといたよ。その様子じゃ相当大変なことがあったみたいだけど、後でゆっくり聞かせてもらう。今はしんどくても目の前のことやっていこう。前期の試験が明日からだ。起きてシャワーを浴びろ。髭も剃れよ」
試験なんかどうでもいいと思ったが、コーヒーの匂いで腹が鳴った。
いい気なもんだ。小説の主人公のように死ねないんだったら生きていくしかないか。
前期試験が終わった次の日から、伯父さんに教えられた1200キロの道、四国八十八か所の遍路道を歩き始めた。陸上部の合宿には行かなかった。
歩き始めた頃、知らない間に頭の中で由佳と会話をしていた。
手話ではなく、彼女が話す声が聞こえる。忘れようとすればするほど、鮮明に彼女の顔が浮かんでくる。それをどうにかしようと、多くのお遍路さんを抜きながら走るように歩いた。
でも彼女の顔が消えることはなかった。
徳島県の日和佐を出て、室戸までの長い行程。海の側を足早に歩いていると、頭が透き通って来るのを感じた。風の中、雨の中、太平洋を左に眺めながら南へ歩き続けた。
その時、束の間でも由佳のことを考えていない自分に気が付いた。
丸一日、早朝から60km以上を早足で歩き続け、海岸沿いの旅館にようやくたどり着いた。
宿の人に、その昔空海が修業したという洞窟を教えてもらい、明け方、その洞窟から太平洋に日が昇るのを眺めた。
太陽はこうやって、何十億年も日の出を繰り返してきているんだな。
俺は何をちょこまか走っているんだ。
この風景をだれかと見たいと思った。
由佳でなくてもいい。だれかと。
高知県に入り、合宿を終えた東田が合流してくれた。
彼から初めてきちんと遍路旅の作法を教えてもらった。子供のころ両親と八十八か所を回ったそうだ。
今までは、本堂の前で手を合わせ、般若心経だけ唱えて納経帳に朱印を押してもらい、一目散に次の寺を目がけて走り出していた。
一日に七か寺も回ったことがある。まるでスタンプラリーだ。
納め札を用意し、行く寺ごとに線香やろうそくを灯すようになった。
彼とあれこれ話しながら歩くのは楽しかった。景色を楽しむ余裕もできてきた。
由佳のことを思い出さない時間が増えていった。
4日後、彼が岡山に帰省してから、さらに3日間歩き、真っ黒に日焼けして神戸に戻った。
結局、千二百キロを走破はすることはできなかった。
途中で打ち切ったのは、愛媛県を歩いている途中、吉見先生から連絡があったからだ。
先生に打ち明けてから一か月が過ぎていた。
先生は、誰かと会う日時と場所だけ教えてくれたが、名前は言ってくれなかった。
顔を見ればわかるとのことだ。多分香奈さんと思うが、だれでもいい。
今は誰かに心の隙間を埋めてほしい。
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