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第3話 見舞客

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 いつの間にか私は眠っていた。
 目が覚めると既に時計は昼の11時を過ぎていた。
 嫌な夢だった。

 大型自動車運搬船の三等航海士をしている私が、たくさんの大型船舶に囲まれて、本船の位置をロストしてしまい、窮地に立たされているという夢だった。

 私は二十代の頃に国際航路の航海士をしていた。
 航海士として船位をロストすることはもちろん、他の船舶との衝突や座礁など、絶対にあってはならないことだった。
 夢占いなどは信じない私ではあるが、自分が苦境の中にある時、よくこんな夢を見る。
 そしてまた今回もそんな夢を見た。

 死の恐怖が私の背中にピッタリと貼り付いているせいかもしれない。
 私はこの病院から生きて退院することが出来るのだろうか?
 私は病床から見える雲を目で追った。

 ある宗教家の話では、雲というのは人間に生まれ変わる前の姿だという。
 羊の形をした雲は、人間に生まれ変わる前は羊であり、象の形をした雲は、前世では象だったというのだ。
 自分の雲は人間の形をした雲なのだろうか? それとも私の次の転生は蟻なのかもしれない。

 そんなことを考えながら、私は加藤登紀子の歌を思い出していた。

       
        空を飛ぼうなんて 悲しい話を

        いつまで考えて いるのさ

        あの人が突然 戻ったらなんて

        いつまで考えて いるのさ

        暗い土の上に 叩きつけられても

        懲りもせずに空を 見ている

        凍るような声で 別れを言われても

        懲りもせずに信じてる 信じてる

        ああ 人は昔々 鳥だったのかもしれないね

        こんなにも こんなにも 空が恋しい


 最初、人間には翼があったのかもしれない。
 その昔、翼は退化して消えてしまったのだ。
 本当は人間には天使のように翼が生えていたはずだと私は思う。
 翼がなくなってしまったのは、人間が空を飛ぶことを諦めてしまったからなのだと。

 蟻は昆虫学的には蜂と同じ分類になるらしい。
 ほとんどの蟻には針もなく、羽根も消えた。

 それは蟻が外敵を傷付けることをしなくなり、毒針が退化して、這いつくばって餌を確保することで空を飛ぶ必要がなくなり、羽根も退化したのだそうだ。
 私の命も役目を終え、生きる必要がなくなりつつあるのだろうか?

 そんなことをぼんやりと考えていると、久美子が見舞に来てくれた。
 久美子にだけは入院したことを告げ、入院に必要な物を依頼したのだった。

 「大変だったわね? 救急車で運ばれるなんて。まだ痛い? 手術したばかりだもんね? 取り敢えず、着替えとか必要な物を持って来たから。
 他に何か必要な物があったら言ってね?」
 
 久美子は大きな紙袋を両手に下げて見舞いに来てくれた。


 「悪いな、忙しいのに」
 「全然平気よ。でもびっくりしたわ、救急車で運ばれたなんて言うから」

 久美子はベージュのスプリングコートを脱ぐと。幾何学模様の春物のワンピースを着ていた。
 ショートボブがとても似合っていた。
 少し大きめの金のイヤリングには見覚えがあった。それは私が以前、久美子にプレゼントした物だった。
 久美子とは付き合って三年になる。
 彼女は私との結婚を望んだが、私はそれを拒絶した。
 それは私の寿命が長くはないと感じていたからだ。


 「悪いけど靴下を履かせてくれないか? 痛くて手が届かないんだ」
 「お安い御用よ、この靴下でいいの?」
 「ああ、すまないな?」
 
 私は幼い頃から母親に靴下を履かせてもらった記憶がない。
 そして今、私は靴下さえも自分で履くことが出来なくなってしまっていた。

 久美子の柔らかく温かい手が自分の足に触れた時、私は嗚咽した。
 私はこの時、不謹慎にも「このまま死ねたら、どんなにいいだろう」と考えていたからだ。


 その時、点滴を交換するためにナースの横河梢よこかわこずえがやって来た。

 
 「あら室井さん、奥様ですか?」
 「いえ、彼女です」
 
 私がそう言うと、久美子は寂しそうに笑った。

 「すみませんが面会は午後1時からになっているので。次回からは気を付けて下さいね?」
 「あらごめんなさい、気が付かなくて」
 「ごめんなさいね? 今、院内感染とか色々と問題になっているので」
 「わかりました。今度から気を付けます」
 「すみませんでした、横河さん。私が彼女にそれを伝えていなくて」
 「でも安心しました。室井さんにもこんな美人な彼女さんがいて。うふっ。
 「俺には誰も知り合いはいない」なんて悲しいことを言うから、心配していたんですよ。まったくもう」

 梢はてきぱきと点滴を交換し、部屋を出て行った。

 昼食の配膳が始まったようだった。配膳車が近づいて来る音が聞こえた。

 「じゃあ私も何か食べて、また午後から来るわね?」
 「今日はもう帰っていいよ。わざわざどうもありがとう」
 「大丈夫? じゃあまた明日来るわね? ゆっくり治してね。欲しい物があればLINEして頂戴」 
 「ありがとう、気をつけてな」
 「うん、お大事にね」

 久美子は私の手を握り、寂しそうに微笑んで病室を後にした。

 私の好きな、スズランのコロンの香りを残して。
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