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第4話 卑しい嫉妬

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 昼食を終え、春雨のように緩慢に落ちてゆく点滴を眺めていると、突然廊下でナースの梢が叫ぶ声が聞こえた。

 「壁際を歩かないで! ウンチが転がっていますから!」

 どうしてウンチが廊下に転がっているのか、私にはその原因がすぐに予想出来た。
 そんなことをするのは、このフロアには1人しかいない。
 おそらくそれは、403号室の個室に入院している、80歳を超えた痴呆老人の仕業だ。
 名前は知らないが、いつも1日に何度かは暴れ、喚き、病院スタッフを困らせていた。
 どうやら自分の糞便を廊下に投げ捨てたらしい。


 「ああ、ダメダメ、そっちにはまだウンチがあるかも! こっちを歩いて!」
 「梢ちゃんも大変だね?」

 大腸がんで入院している香川が梢を労わっているようだった。

 「大丈夫、慣れてるから。あはははは」

 冷たい病院の廊下に、梢の屈託のない明るい笑い声が響いていた。

 看護師の仕事は過酷だ。
 ギリギリの人員、不規則な勤務に加え、様々な難題が幾つも、あるいは同時に降り掛かって来る。
 やって当然、失敗すれば将来も失いかねない命を扱う仕事だからだ。

 体力の消耗、崩壊寸前の精神状態の中で、ストレスという泥沼の中で働いている。
 だが、それに対する報酬は少しばかり高い給料と、患者の笑顔だけだった。
 看護師という使命感がなければとても務まる仕事ではない。

 私の中学時代の同級生、歌川は国立大学の医学部の教授をしている。
 彼とはいつも、1番、2番を競う成績だった。
 ただ違っていたのは彼が裕福な開業医の息子で、私は大学に進学することも許されない、貧しい家庭の子供だということだった。

 私が30歳の時、母が地元の総合病院に胆石で入院した。
 その病院で、私は偶然、医者になった歌川と遭遇した。

 「おう、室井じゃないか? お前は全然変わらないな? 誰か入院しているのか?」
 「おふくろが明日、この病院で手術なんだ」

 歌川は白衣を羽織り、首には聴診器を掛けていた。
 私にはそんな彼が疎ましかった。
 
 (変わらないよ俺は。今も燻ぶったままだ。俺もお前と同じように医者になれたかもしれないのに)

 私は彼の出世を妬んだ。

 「そうか? それは心配だな? 担当の先生によく言っておくよ」
 「ありがとう」
 「じゃあ、またな」

 そう言って歌川は足早にその場を去って行った。

 私はホッとした。
 歌川に対する自分のジェラシーを、見破られるのが悔しかったからだ。



 母の病室に行くと、ナースが母親と話していた。

 「さっき歌川に会ったよ、ここの医者をしているらしい」
 「歌川君って、お前と中学の時に同級生だったあの歌川君かい?」
 「ああ、そうだよ、立派な医者になっていたよ、俺と違って」
 
 私は皮肉を込めて母にそう言った。


 「お前は成績が良かったのにごめんね、大学にも出してやれなくて・・・」
 「室井さん、歌川先生と同級生だったんですか?」
 「彼はクラスの出世頭ですよ」

 私は心にもないことを言った。

 「ペンシルバニア大学での研修を終えて、短期ですけどうちの病院の消化器外科の先生をしていただいています。とても評判のいい先生ですよ、患者さん想いの」
 「彼、そんなに評判がいいんですか、歌川は?」
 「ええ、先日も便秘で苦しんでいた、少しボケたお婆ちゃんの肛門に指を入れて、便を手で掻き出してあげていたんですよ。「辛かったよね? 辛かったよね?」って言いながら。
 そんなのドクターが直接やることじゃないですからね?」

 私は歌川を見直した。
 中学の時、私に1番を取られると、「親父に叱られる」と半べそをかいていた歌川がである。
 その時私は自分の卑屈な心を恥じた。




 梢が検温にやって来た。

 「室井さん、検温のお時間ですよ~」

 梢は私に体温計を渡した。

 「さっきは大変でしたね?」
 「ああ、聞こえてましたか? ウンコ事件」
 「頭が下がりますよ、梢さんには」
 「仕事ですから」

 検温終了のアラームが鳴り、体温計を梢に渡した。

 「35.8℃ね?」

 その病は体温が下がるが、梢は明るく言ってのけた。

 「辛いでしょうけど動いて下さいね? お通じはどうですか?」
 「はい、今日は2回」
 「そうでしたか? じゃあまた寝る前に検温に来ますね?」
 「よろしくお願いします」


 安っぽいネオンサインのように、窓の外を夜の新幹線が走り抜けて行った。
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