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第5話 元医者だった男

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 今日は珍しく、四床ともカーテンが開けられていた。
 病院の少し早い夕食が始まっていた。
 隣のベッドの川崎が話しを始めた。
 
 「ここの病院はメシが旨いよな?
 前の病院は最悪だったよ、いかにも病院食って感じでさ。
 女房も心配してよ、ふりかけとか缶詰とか差し入れてくれたもんだ。 
 「言われた通り作りました」って食事だったが、ここはうめえよ、ホントに」

 川崎は還暦を少し過ぎたような男だった。
 だいぶ長く入院しているようで、一日置きくらいに家族が代わる代わる見舞いに来ていた。

 「そうですよね? ここの管理栄養士さんがいいのか、調理の人の腕がいいのかはわかりませんが、病院食とは思えないクオリティですよ。
 しかもこの金額で。
 これなら街にお店が出せるレベルですよね?」

 そう川上が言った。
 川上は三十歳くらいの細身で、見舞いに来る奥さんや両親、同僚の話から推測すると、自動車メーカーの工場で三交代勤務で働いているようだった。
 私と同じ窓際のベッドだったので、よく外の景色を眺めていた。
 少しぽっちゃりした奥さんと、幼稚園くらいの娘さんが毎日のように来ていた。

 「そうだよなあ、飽きねえもんな、ここの食事は」

 川崎もそれに同調した。

 だが、出入り口のベッドの磯崎だけは、私たちの会話に加わろうとはしなかった。
 
 昨日、手術を終えたばかりの磯崎はまだ辛そうで、重湯にも手を付けてはいなかった。
 私は彼に自分と同じ匂いを感じていた。
 磯崎と私は、多分同じいくらいの年齢のはずだ。手術後だというのに、誰も見舞いに来る者はいなかった。

 「室井さんはどこが悪いの?」

 川崎が箸を動かしながら私に尋ねた。

 「大腸です。まさか手術した後がこんなに痛いとは思いませんでした。ちょっと切っただけなんですけどね?
 傷口が痛みますよ」
 「俺も何度も切ったが、慣れるもんじゃねえよ、術後の痛みは」

 その時、黒縁のメガネをかけた研修医と、小太りの指導医が磯崎のところにやって来た。

 「食事はまだ無理ですか? 痛みます? 磯崎さん?」

 磯崎はそれに答えようとはしなかった。
 だが、磯崎の次の言葉で病室が凍り付いた。

 「ヘボ医者」

 憮然として怒りに震える若い研修医。
 指導医の方は慣れた口調でこう言った。

 「何かお気に召さないことでもありましたか? 磯崎先生」
 「明日、退院するぞ。どうせお前らには治せやしない。俺でも無理なんだからな?」

 研修医の態度が変わった。

 「磯崎さん、ドクターだったんですか?」
 「昔の話だ。だが、お前らよりは腕はいい。
 だからもういいんだ、最後くらい自由にさせろ。
 ここは大学病院じゃねえんだから」
 
 ふたりの医師は困惑していた。

 「とにかく今は安静にしていて下さい。
 明日から経過観察になりますので、よろしくお願いします」

 そう言ってふたりの医者は出て行った。

 どうやら磯崎は医師だったようだ。

 しかも余命の少ない・・・。
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