【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第1話

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 銀座の夜が好きだった。
 煌びやかな光の街。高級ブランドに高級外車、電車の音。
 すれ違う華やかに着飾った大人たち。
 
 私は会社では女性管理職として、家では良き妻、賢き母親としての理想の自分を演じていた。
 女優のように。

 本当の自分は20年前のパリに捨てた。
 そしてそんな自分を知っているのは、あの男しかいない。
 時はどうして私たちを置き去りのまま、過ぎ去って行くのだろう?
 私は時間の流れの中で、立ち竦んだままだった。
 
 本当の自分に戻りたい。
 
 すべてを投げ捨て、ただ夢中で彼を愛したあの頃の私に。


 
 月末の怒涛のような業務も終わり、私は気分を変えようと、春物の服を買いに銀座のデパートへやって来た。
 女にとって買物は、一番のストレス解消でもある。
 春になると様々なイベントが始まる。
 歓送迎会や学校の行事、夫や子供たちの友人を招いてのパーティなど、確かに私はその場では脇役ではあるが、そこでも私はバイプレイヤーを演じなければならない。
 服は女にとっても妥協の出来ない甲冑でもあるのだ。
 私は慎重に服を選んでいた。

 アラフォー女は中途半端な位置にある。
 若くはないが、かと言って年寄りでもない。
 人生の酸いも甘いも味わった、ある意味、「女ざかり」であるとも言える。
 出産も経験し、女としての「図々しさ」もある。
 若作りをしていると思われたくはないが、それでも若くは見られたい。

 「部長はいつも綺麗ですけど、 何か特別なエステとかしているんですか? お化粧品はどんな物を?」
 
 そんな時、私はいつも同じセリフを台本通りに話す。

 「会社では仕事、家ではママで奥さんもしているのよ?
 そんな私に美容に使う時間的余裕なんてどこにもないわ。
 ただよく食べてよく飲んで、よく眠ることくらいかしら?
 お化粧品はニベアだけよ」

 私はそう言って微笑んで見せる。より美しい笑顔を意識して。

 そしてそれが快感でもあった。
 私は自分への投資は怠らなかった。

 以前、夫の博行ひろゆきからこんなことを言われたことがある。

 「ママの服のセンスは同性には憧れだろうけど、あまり男受けはしないかもしれないな?」
 「別に男受けなんかしてもしょうがないでしょ? もうオバサンなんだから」
 
 だが内心は大きく傷ついた。
 やはりいつまでも男から女として見られていたい。
 婉曲的な言い方ではあるが、

 
    「お前はダサい女」


 夫からそう指摘されたのだから。


 
 数点の自分の服と、娘たちの服を買った。
 丁度、地方の物産展が開催されているようなので、夫や子供たちの為に、何かおみやげを買って帰ろうと、エスカレーターを昇って行った。


 催事場のあるフロアに辿り着くとかなり混雑していて、その人波に押されるように歩いていると、絵の展示販売会が催されているのが目に留まった。
 鑑賞している人は疎らだった。

 高額な絵画を購入する人などは、限られたお金持ちの道楽だと視線を戻そうとした時、何気なく見たその個展の作者の名前に、私は息が止まりそうだった。


      『西山伊作 作品展示会』


 その名前は忘れもしない、20年前に愛し合い、別れたパリの恋人、西山伊作の個展だったからだ。

 運命の扉が今、静かに開かれようとしていた。

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