【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第2話

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 私は足を止め、ガラス越しに展示会場を見渡した。
 高鳴る心臓の鼓動。

 老夫婦と話しをしているその後ろ姿には確かに見覚えがあった。
 
 絵を説明しながら振り向いたその男性は、まぎれもなく20年前にパリで愛し合った、西山伊作だった。

 ボサボサの頭に銀縁の丸眼鏡、その奥には優しく澄んだ瞳があった。

 すぐに彼を抱きしめたい衝動に駆られたが、女心がそれを阻んだ。
 
 (少しでも綺麗な自分で会いたい)

 小走りに女子トイレへ向かい、私はお化粧を直し、髪と服装を整え、軽くコロンを纏った。

 その時、今日は仕事帰りなので地味なベージュの下着だったことを思い出し、そんな慌てた鏡に映る自分が可笑しかった。


 勇気を出して個展会場の中に入って行くと、そこに彼の姿は無かった。

 受付の女性に来展名簿の署名を促された。

 「ご芳名をお願いしてもよろしいでしょうか?」
 「あっ、はい」

 私は広谷奈緒とは書かず、旧姓だった前園奈緒と署名をした。
 彼を驚かせたいという思いと、そして私がここを訪れた痕跡を残すために。

 だがその一方で不安もあった。
 想い続けていたのは私の方だけだったのかもしれないと。
 そしておそらく、彼も結婚をして子供もいるかもしれない。
 自分は何を期待しているのだろうと私は思った。


 「西山先生はどちらに?」
 「ただいま席を外しておりますが、すぐにお戻りになると思います。
 ごゆっくりとご覧になってお待ち下さい」
 「ありがとうございます」

 私は彼の絵を丹念に見て回った。
 当時、パリで見た彼の作品とは作風がかなり変化していた。
 ここに展示されている彼の作品は、パリの下町や公園の風景を油絵で描いた物が多く、ブラマンクに影響を受けた佐伯祐三のそれとは違い、彼独自の見事な構図、色使い、そして絵筆のタッチに私は魅了された。
 蘇る彼のアトリエの油絵の具とニスの匂い。

 じっくりとひと作品ずつを鑑賞して行くと、そこに一枚だけ女性のポートレートが掛けてあった。
 それを見た時、私は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。

 それはパリのカフェで微笑む私だった。

 両手でコーヒーカップを包み、美しく輝く巻き毛と鳶色の瞳。
 その絵は今にも動き出しそうだった。
 突然、背後から懐かしい声がした。

 「どうだい? いい絵だろう? モデルは奈緒、君だ」

 私は振り向き思わず叫んだ。

 「伊作!」
 「覚えていてくれたんだね? 僕の名前を」
 「当たり前じゃない! 忘れるもんですか!」

 すると彼は私を強く抱きしめて言った。

 「奈緒に会いたかった。
 僕はこの20年、この日をずっと待ち望んでいたんだ」

 涙が止まらなかった。
 せっかく直したお化粧も無駄になってしまった。

 「絶対に会えると信じていた」
 「私も、いつもあなたのことを想っていたわ。
 本当に偶然なの、偶然にここを通り掛かったのよ。
 そしたら、そしたら伊作の絵が・・・。
 私、神様を信じるわ」
 「個展は日曜日までだけど、日本にはしばらくいるつもりなんだ。
 これから少し時間ある?」
 「もちろん!」
 「じゃあ食事でもしよう。
 悪いが木下さん、僕はこれで失礼するから後はよろしくお願いします。
 さあ行こう、奈緒」

 伊作は私の手を取り、デパートの個展会場を後にした。
 その時、私はダスティン・フォフマンが主演の映画『卒業』を思い出していた。
 結婚式の最中に、教会からエレーンがベンジャミンと逃げるあのシーンを。

 私はすべてを忘れ、キャサリン・ロスが演じるエレーンになった。
 頭の中でサイモン&ガーファンクルの『Sound of Silence』が鳴っていた。

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