【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第4話

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 「汐留に素敵なバーがあるんだけど、そこで飲まない?」
 「汐留なら僕の泊っているホテルのあるところだから助かるよ。歩いて帰れるから」


 タクシーに乗り、私は運転手に「ロイヤルパークホテルへ」と告げた。

 「ロイヤルパークなら僕の滞在しているホテルだよ。
 いいよね、あの大きな吹き抜けのあるバーラウンジ。
 でも座り心地のいいソファだから、寝てしまうかもしれないな?」
 「あらそうだったの? それなら伊作のお部屋で飲んだ方がいいかしら?」

 伊作は黙ってしまった。躊躇っているようだった。 
 それは私が人妻だったからだろう。

 「部屋で飲むのもいいけど、あのBARは好きだなあ。
 僕もナイトキャップはあのBARなんだ」

 私は彼の肩に頬を寄せ、彼のカシミアのコートにわざとファンデーションを付けた。
 それはまるで、犬のマーキングのように。
 他の雌犬が彼に近づかないようにと、私は呪言まじないをかけた。

 彼から香る、微かな油絵の具の香り。
 私はそっと目を閉じた。
 
 伊作はタクシーの中でもずっと私の手を握ってくれていた。



 高層ビルに囲まれた24階のBARラウンジで、私はマルガリータを、そして伊作はジンライムを飲んでいた。
 隣の高層ビルの灯りが都会の不夜城のように煌めいて見えた。
 私たちはソファに並んで座り、彼は私の肩を抱いた。

 「芳名帳に君の名前を見つけた時、心臓が止まりそうだった。
 そしてあの絵の前に立つ君の後ろ姿を僕は見ていた。
 すぐに奈緒だと気付いたよ」
 「あの絵、いつ描いたの?」
 「奈緒が帰国してすぐに。君を忘れないようにと描いた物だ。
 7日間だけの恋と約束したから、奈緒は僕に君の写真を撮らせてくれなかった。
 でも、別れた後にやっぱり後悔したんだ、君の顔が見たいとね?
 それでまだ奈緒の記憶が鮮明なうちにと君を描いた。
 いつも日本の個展にあの絵を飾ったのには理由があるんだ。
 いつか奈緒があの絵の前に立ってくれると信じていたから。
 そしてそれが現実のものとなった。
 奇跡は起きたんだ」
 「あの絵も売ってしまうの?」
 「まさか。誰にも売りはしないよ、でもあの絵はとても人気があるんだよ、中にはいくらでも出すから売って欲しいという人もいるほどだ。
 だが君は売り物ではないからね?
 風景や静物画ばかりしか描かない西山伊作が描いた唯一の肖像画。
 もしも僕が死んだら奈緒にもらって欲しい」
 「死んじゃイヤよ、いつまでもあなたの傍に私を飾っておいて。
 私があの絵に、そして伊作に会いに行くから」
 「パリまで?」
 「そう、パリまであなたに会いに行くわ。
 あなたと、あの描いてくれた私の絵に会うために。
 今はどこに住んでいるの?」
 「同じだよ、今も20年前と同じ、あのメゾンにひとりで暮らしている」
 「20年前と同じあの家に?」
 「そうだよ、あれからもう20年も過ぎたんだね?
 なんだか奈緒とこうしていると、ずっと一緒にいたような気がするよ」
 「どうして引っ越さなかったの?」

 彼はジンライムを口にすると、照れ臭そうに言った。

 「あのアパルトメントには、君との思い出が沢山染み込んでいるからね?」
 「馬鹿なひと・・・」

 うれしかった。
 そうして自分を20年もの間、ずっと想い続けていてくれたことに。
 そのセリフを聞いた瞬間、私は無意識に彼を抱きしめキスをした。
 それはとても長く自然なキスだった。


 「伊作のお部屋で飲みたい・・・」

 私は彼の耳元でそう囁いた。


 
 彼の部屋に入るとすぐに、私は伊作に強く抱き締められた。

 「ずっと愛していた! 僕の時間はあの日で止まったままだった!」
 「お願い、灯りを消して・・・」

 私も今年で42歳になっていた。
 生理はまだあるが、二度の出産を経験し、体の線はかなり崩れている。
 そんな自分を見て、気落ちする彼を見たくはなかった。


 私たちは失われた20年を埋めるかのように、無我夢中で求めあった。
 それは夫の博行との惰性のような行為とはまるで異次元のものだった。

 愛のあるセックス。

 めくるめく快楽の中で、私は次第に女になって行った。
 硬くて重い鎧を脱ぎ捨てた私は、本当の自分を解き放ったのだった。

 
 「好きよ伊作! 今でもあなたが大好き!」
 「僕もずっと奈緒を愛し続けていた!
 愛していたんだ! ずっと君を!」


 やがて彼もクライマックスに到達し、私の中から自分を引き抜くと下腹部へと射精し、そのまま果てた。

 波打つ彼の硬直したペニスが愛おしかった。
 許されることならそのまま私の中に放出して欲しいとさえ思った。
 私は今までに経験したことがないオルガスムスを感じていた。


 エクスタシーの余波も収まり、私は彼に身を寄せ、甘えた。
 
 「胸もお腹もオバサンになっちゃった。
 がっかりしたでしょ?」

 彼の想いを先回りするかのように私は自嘲した。

 すると彼は私にやさしいキスをしてくれた。

 「僕はどうだい? もう若くはない。奈緒の方こそ期待はずれだったんじゃないか?」
 「ううん、とってもいい香りがする。
 あなたのこの香り、あの頃よりもっと醸成されたような気がする・・・」
 「何もつけてはいないけど?
 でも奈緒はあの時の鮮烈なレモンから、円熟した甘いバレンシアオレンジになった気がする。 
 今、奈緒は女ざかりなんだね?
 僕はどうしたらいいんだろう?
 より一層、君を好きになってしまいそうだ」
 「私がバレンシアオレンジ?」
 「ああ、君はとても素敵だ、あの時よりもさらに」

 伊作は私を強く抱いた。

 「でも奈緒にはしあわせな家庭があるんだよね?」
 「しあわせかどうかは別だけどね?
 ねえ、淫らな人妻は嫌い?」

 私はそっと結婚指輪を外し、コンソールの上に置いたカルティエの時計の横にそれを置いた。

 「ほら、今はあなただけの物よ」

 私は左手の薬指を伊作に見せた。

 「奈緒・・・」

 中断されていた夜の物語が再開された。

 私は幾度も彼の名前を叫び続けた。



 終電を逃してしまった私は、彼との余韻を残したまま、タクシーで家路を辿った。


 家に着くと夫はすでに眠っていたが、寧ろそれは都合が良かった。


 私は浴槽に熱い湯を張り、カラダを沈めた。

 背徳感は無かった。
 まるでランニングを終えた後の爽快な気分だった。

 (伊作にまた会いたい・・・)

 さっき別れたばかりなのに、女子高生のように燥いでいる自分が可笑しかった。

 私は長い間、女を忘れていた。

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