【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第8話

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 土曜日、私は父と母に娘たちの面倒を見てもらうことにした。
 凛は中学生で、華も自分のことは自分で出来るが、一晩家を空けるのはやはり心配だったからだ。

 「じゃあママは今日は出張だから、ジイジとバアバの言うことをよく聞くのよ。
 おみやげ買って来るから」
 「大丈夫だよママ。私たちもう子供じゃないよ、大人でもないけど」
 
 父も母も、久しぶりに孫たちに会えて嬉しそうだった。
 
 「大変ね? お休みまでお仕事だなんて」
 「ごめんなさいね、孫のお守りなんかさせて」
 「何を言っているのよ、かわいい凛と華と一緒なら毎日でもいいくらいよ。
 ねえ凛ちゃん、華ちゃん?」
 「うん、ジイジとバアバ大好き!」
 「出張はビジネスマンには付き物だ。
 俺なんか1年の三分の一は海外出張だったからな?」
 「あの頃は大変だったわよねー。お父さん、たまに帰って来たかと思えば着替えを持ってまた海外だもんね?」
 「今なら労基署から業務改善命令だろうな?
 お前たちには苦労をかけた。
 ロスから帰って社長にそれを報告して、またすぐに今度はモスクワだったからな?
 パスポートが出入国のスタンプとビザでいっぱいだった」
 「気をつけて行くのよ」
 「うん、じゃあお願いね? 行ってきまーす」
 「ママ、行ってらっしゃーい!」


 私はまた嘘を吐いてしまった。
 人は一度嘘を吐くと、その嘘を隠すためにまた嘘を吐かねばならない。
 ごめんね凛、華。そしてお父さんとお母さん。

 タクシーに乗り、私は汐留で待つ彼の元へと向かった。



 「お待たせー!」

 私は人目も憚らず、ロビーで彼に抱き付いた。
 まるでパリの恋人たちのように。

 「奈緒、君に会いたかった」
 「私もよ、伊作。お部屋に荷物、置いて来てもいいかしら?」
 「もちろん」


 私たちは部屋に入りキャリーバッグを置くと、熱く長いキスをした。
 そのまま次のプロセスに進みたかったがそれは我慢した。
 今日は伊作と外でデートがしたかったからだ。

 「ねえ、今日は横浜に行かない?」
 「横浜? 実は僕もそう考えていたんだ、以心伝心だね?」
 「東京にも港はあるけど、私は横浜の港が好き」
 「横浜の港の風には色があるからね?」
 「何色の風?」
 「薄いモスグリーン。
 そして干草の香りがする」
 「それを見に行こうよ、横浜の風の色とその香りを知るために」



 私たちは電車に並んで座り、左から右へと流れて行く都会の景色を眺めていた。
 恋人繋ぎをした手が汗ばんでいた。


 「変わらないなあ、東京は?」
 「高層ビルは増えたけどね? でも私はこの混沌とした東京が好きよ。
 このカオスの街が」
 「カオスか? 不思議なチカラがあるよね? 東京には。
 でもここにはパワーはあっても美は少ない」
 「確かに美は乏しいかもしれないわね? そして最近ではそのパワーさえも衰えた気がする」
 「パリは変わらないよ、あの頃のままだ」
 「行きたいなあ、パリに」
 「おいでよパリに。
 僕はいつでも大歓迎だよ」

 私は何も言わず、彼と繋いだ手にギュッと力を込めた。
 それはいつか必ず、再びパリを訪れる決意だった。



 私たちは横浜駅からシーバスに乗り、山下公園を目指した。
 大桟橋に停泊しているホテルのような大型客船や、埠頭に係留され、荷役を続ける沢山の大きな船舶。
 舷側を叩くさざなみの音と夕陽に煌めく海。
 頬を撫でる潮風が心地いい。


 「本当ね? 横浜の風には色があるわ」
 「奈緒にはどんな色に見える?」
 「私には桃色に見えるわ。
 でも今日は干草の香りじゃなく、牡蠣の殻の匂いがする」
 「あははは 牡蠣か?
 思い出すよ、奈緒とモンパルナスのレストランで食べたあの牡蠣を」
 「また食べたい、フランスの牡蠣」

 私はそれに同意するかのように、彼とそっと腕を組んだ。



 山下公園の桟橋でシーバスを降りた私たちは、夕暮れのパープルに染まりつつある山下公園を散策した。


 「この山下公園は関東大震災の時の瓦礫で埋め立てられた、人工公園なんだ。
 ここに来ると物悲しく感じるのはそのせいかもしれない」
 「あの『赤い靴』の銅像もあるしね?」
 
 私は何気なく、『赤い靴』の童謡を口ずさんだ。


    赤い靴ー はーいてたー 
    女の子ー 偉人さんにー つーれられーてー
    いー ちゃー たー♪
 

 伊作もそれに続いた。

    
    横浜のー 波止場からー 
    ふーねにのーおってー・・・♪


 「悲しい唄ね?」
 「悲しみには時として、その儚さゆえに美しさが伴うものだ。
 外人と見知らぬ国へ旅立つ女の子の不安と悲しみ。
 それを赤い小さな靴が印象付けている」
 「ねえ、中華街でお食事しない?」
 「そうだね? やはり横浜に来たら中華だよね?」

 山下公園の花壇から、甘くエロチックな薔薇の香りが漂っていた。

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