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第9話
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その店は中華街の人気店だけあって、かなり混雑していた。
あちらこちらのテーブルで起こる、歓喜と驚きの声。
食器とグラスの触れ合う音。
20年の時を超えて、伊作と私がこうして横浜中華街で一緒に食事をしていることが不思議だった。
「なんだか夢を見ているみたいね?
本当の中国に来ているみたい」
「パリにもチャイニーズ・レストランはあるけど、日本の中華はホッとするよ。
日本人の好みにちゃんと合わせてあるから」
「娘がまだ保育園の頃に中華街に連れて来たんだけど、「ママー、ここは中国なの?」って目を丸くしていたわ」
「よく保育園の娘さんから「中国」なんて言葉が出たね?」
「おそらくパンダの影響かも?
パンダは中国から来たってことは知っていたし、よくテレビ番組でもやっていたから」
「なるほどパンダか? 子供って面白いね? どんどん知識を吸収していくスポンジみたいに」
エビチリ、鶏肉とピーマンのカシューナッツ炒め、そして春巻を食べながら私たちはビールを飲んだ。
「そろそろ紹興酒に変えようかな? 奈緒はどうする?」
「じゃあ私も紹興酒で」
温かい紹興酒と氷砂糖が運ばれて来た。
伊作は小さなワイングラスに氷砂糖を1つ入れると、そこに人肌に温められた紹興酒を注ぎ、それをターンテーブルに乗せ、私の前に回して寄越した。
「お砂糖を入れて飲む紹興酒なんて初めて」
「いい店は氷砂糖で出してくれるが、普通の店はザラメ砂糖が多いんだ。
ここはいい店だね? はいどうぞ」
「ありがとう、作ってくれて。
男の人にこんな風にしてもらうのって、何だか照れちゃうな?」
「そうかい? 僕はしてもらうよりもしてあげる方が好きだけど」
そう言って笑う伊作はとてもセクシーに見えた。
仕事上の付き合いで飲みに行くことはあるが、いつも女はホステス代わりに酌をさせられた。
たまに家で博行と飲む時も同じだった。
こうして伊作に給仕されると新鮮で、嬉しかった。
私は女性として大切にされていると感じた。
「ほら見てご覧、まるで本当の氷のように紹興酒の中で溶けていくのが見えるだろう?
僕はね、こうして氷砂糖が琥珀の酒の中で溶けていくのを見るのが好きなんだ。
それじゃあ二度目の乾杯をしようか?」
「今度は何に乾杯する?」
「さっきの乾杯は僕たちの再会を祝したから、今度は僕たちの未来に乾杯しよう」
「私たちの未来に?」
「そう、僕たちの素晴らしい未来に。
乾杯」
「私たちの素敵な未来に・・・、乾杯」
(未来? その未来とは一体どんな未来なのだろう?)
止めよう、今、そんなことを考えるのは。
誰にも先のことなど分かりはしないのだから。
甘く温かい、とろりとした紹興酒が、今の私たちの満たされた時間を象徴していた。
ただそれだけでしあわせだった。
「あの日のパリからずっとこうしているような気がするよ。
本当に20年も経っているのかな?」
「初めてパリで出会ったこと、今でも覚えてる?」
「もちろん忘れはしないよ。忘れることなんて出来なかった。
君は咲くのを躊躇う薔薇の蕾のような女性だった。
僕はそんな君を咲かせたいと思った。
そして今、君は大輪の薄いピンクの綻ぶような、気高い薔薇として咲いている」
「伊作は詩人でもあるのね? いつもそうやって女を口説いているんでしょ?」
「酷いなあ、本心だよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
20年前、フランスのドゴール空港に私たちを迎えに来てくれた現地ガイドが伊作だった。
黒のカシミアのロングコートを着た彼は、愛想を振り撒く訳でもなく、私たちに淡々とパリを案内してくれた。
ホテルに荷物を置いて、小さなビストロで昼食を摂った。
「みなさん、エスカルゴは初めてですか?
エスカルゴを食べた後のスープは、この様にパンに付けて食べると美味しいですよ」
彼はバゲットをひと口大にちぎると、それを私たちに実践して見せた。
「あらホント、すごく美味しいわね。
ニンニクがとてもよく効いているわ」
「エスカルゴなんて、日本では格式の高いフレンチレストランじゃないと食べられないからなあ」
ツアー客たちはそれに頷きながら食事を楽しんでいた。
「これからパリ市内観光と自由行動に分かれます。
パリの人は交通ルールをあまりよく守りませんし、スリや詐欺も多いのでくれぐれも注意して下さい。
バッグは体の前に来るようにして下さいね。
買い物に夢中になっていると狙われ易いです。
日本の女性は特に」
するとコーヒーもそのままに、半数以上のツアー客が急ぐように店を出て行った。
私は現地ガイドの伊作に尋ねた。
「みなさん、パリ観光もせずに慌ててどちらへ?」
「今、パリはソルドの真っ最中なんですよ、殆どの商品が半額になりますからお買い物に出掛けたようですね?
それに今日は金曜日で、土日はお店もデパートもお休みになります。だからみなさん、そちらへ急いだのでしょうね?
あなたはいいんですか? ショッピングをしなくても?」
「私はパリにお買物に来たわけではありませんから」
「それは良いことです。折角のパリですからね?
なるべく多く、パリを楽しんで下さい。
一番のおみやげは、このパリでの思い出ですから。
それにパリで買える物は殆ど日本でも買えますからね?
パリにも日本にも『高島屋』はありますから」
伊作は澄んだ美しい瞳で、私を見て微笑んだ。
そして私たち観光組はベルサイユ宮殿へと向かった。
子供の頃からの憧れだったベルサイユ宮殿。
私の夢が遂に叶った。
美しいシンメトリーの巨大宮殿と広大な庭園に私は息を呑んだ。
宮殿内にある王の礼拝堂の天井画は圧巻だった。
「この天井画を描いた画家は、ずっと上を向いて描いていたためなのか? 天井画を完成させた後には気が狂って死んでしまったそうです。
この天井画は彼の命で描かれた物なのです」
伊作はそれをさらりと説明した。
神々しいほどの天空の物語。
画家は死んでしまったが、後世にこの凄まじい美を彼は残した。
私は死んで、一体何を残すことが出来るのだろう?
そして私たちはあの有名なベルサイユ宮殿の『鏡の間』へと進み出た。
巨大なシャンデリアと壁を覆い尽くす大きな鏡たち。
今でも楽団の演奏に合わせて踊る、貴族たちの姿が見えるようだった。
「ベルサイユにはトイレがありません。
女性のあの傘のように特徴的なスカートが役に立っていたようです。
何しろ廊下で用を足し、それを使用人たちに片付けさせていたそうですから」
「えっー、やだわ、廊下でなんて」
年配の二人組の女性ツアー客が笑った。
外に出て、私が噴水のところから庭を眺めていると、後ろから声を掛けられた。
伊作だった。
「この噴水は重力式の物で、上の貯水池からここへ水が噴出するように設計されているのです。
昔はポンプがありませんでしたからね?」
「私、あの『ベルサイユの薔薇』にずっと憧れていたんです。
それで思い切って大学の卒業旅行にパリにやって来ました。
予想以上でした、すごく素敵。
パリまで来た甲斐がありました」
「あのオスカルとアンドレですね? それは良かった。
ではマリー・アントワネットにもお詳しいのですね?」
「ベルバラの知識程度しかありません。
パリに来るのが決まってから、慌てて遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』を読みました。
もっとよく勉強して来れば良かったと後悔しています」
「そうでしたか?
ではプチ・トリアノンの話はご存知ですか?」
「その話、ありましたっけ? 記憶にありませんけど」
「マリー・アントワネットはこの堅苦しい形式ばったベルサイユ宮殿が嫌いだったそうです。
そんな王妃のために夫であるルイ16世は、その離宮である、プチ・トリアノン宮殿を与えたのです。
そこで彼女は英国式の田園集落を作りました。
野菜を育てたり、機織りをして過したのです。
そこが『王妃の里村』と呼ばれる所以でもあります。
プチ・トリアノンは王妃の聖域でした。
オーストリアのハプスブルグ家から僅か14歳で政略結婚をさせられた悲劇の王妃、アントワネット。
そこにはマリー・アントワネットの幽霊が出ると言われています」
「王妃の幽霊が?」
「余程、プチ・トリアノンでの暮らしが楽しかったのでしょう。
アントワネットの許可なく立ち入ることは許されませんでした。
それが例え王のルイ16世であってもです」
「見てみたい、プチ・トリアノンを」
「今日は時間がないのでご案内できませんが、是非、滞在中にご覧になってみて下さい。
きっと感銘を受けると思いますよ、美しくも悲しいプチ・トリアノンに」
「ひとりではちょっと。
私、フランス語もわからないし」
私はチラリと伊作を見て、遠回しに伊作を誘った。
「月曜日ならご案内出来ますけど?」
「ガイド料はおいくらですか?」
すると彼は面白そうに笑った。
「そうですねー? ではお昼をご馳走して下さい、それで結構です」
「それでいいんですか?」
「はい。喜んで」
それが伊作と私の運命の出会いだった。
あちらこちらのテーブルで起こる、歓喜と驚きの声。
食器とグラスの触れ合う音。
20年の時を超えて、伊作と私がこうして横浜中華街で一緒に食事をしていることが不思議だった。
「なんだか夢を見ているみたいね?
本当の中国に来ているみたい」
「パリにもチャイニーズ・レストランはあるけど、日本の中華はホッとするよ。
日本人の好みにちゃんと合わせてあるから」
「娘がまだ保育園の頃に中華街に連れて来たんだけど、「ママー、ここは中国なの?」って目を丸くしていたわ」
「よく保育園の娘さんから「中国」なんて言葉が出たね?」
「おそらくパンダの影響かも?
パンダは中国から来たってことは知っていたし、よくテレビ番組でもやっていたから」
「なるほどパンダか? 子供って面白いね? どんどん知識を吸収していくスポンジみたいに」
エビチリ、鶏肉とピーマンのカシューナッツ炒め、そして春巻を食べながら私たちはビールを飲んだ。
「そろそろ紹興酒に変えようかな? 奈緒はどうする?」
「じゃあ私も紹興酒で」
温かい紹興酒と氷砂糖が運ばれて来た。
伊作は小さなワイングラスに氷砂糖を1つ入れると、そこに人肌に温められた紹興酒を注ぎ、それをターンテーブルに乗せ、私の前に回して寄越した。
「お砂糖を入れて飲む紹興酒なんて初めて」
「いい店は氷砂糖で出してくれるが、普通の店はザラメ砂糖が多いんだ。
ここはいい店だね? はいどうぞ」
「ありがとう、作ってくれて。
男の人にこんな風にしてもらうのって、何だか照れちゃうな?」
「そうかい? 僕はしてもらうよりもしてあげる方が好きだけど」
そう言って笑う伊作はとてもセクシーに見えた。
仕事上の付き合いで飲みに行くことはあるが、いつも女はホステス代わりに酌をさせられた。
たまに家で博行と飲む時も同じだった。
こうして伊作に給仕されると新鮮で、嬉しかった。
私は女性として大切にされていると感じた。
「ほら見てご覧、まるで本当の氷のように紹興酒の中で溶けていくのが見えるだろう?
僕はね、こうして氷砂糖が琥珀の酒の中で溶けていくのを見るのが好きなんだ。
それじゃあ二度目の乾杯をしようか?」
「今度は何に乾杯する?」
「さっきの乾杯は僕たちの再会を祝したから、今度は僕たちの未来に乾杯しよう」
「私たちの未来に?」
「そう、僕たちの素晴らしい未来に。
乾杯」
「私たちの素敵な未来に・・・、乾杯」
(未来? その未来とは一体どんな未来なのだろう?)
止めよう、今、そんなことを考えるのは。
誰にも先のことなど分かりはしないのだから。
甘く温かい、とろりとした紹興酒が、今の私たちの満たされた時間を象徴していた。
ただそれだけでしあわせだった。
「あの日のパリからずっとこうしているような気がするよ。
本当に20年も経っているのかな?」
「初めてパリで出会ったこと、今でも覚えてる?」
「もちろん忘れはしないよ。忘れることなんて出来なかった。
君は咲くのを躊躇う薔薇の蕾のような女性だった。
僕はそんな君を咲かせたいと思った。
そして今、君は大輪の薄いピンクの綻ぶような、気高い薔薇として咲いている」
「伊作は詩人でもあるのね? いつもそうやって女を口説いているんでしょ?」
「酷いなあ、本心だよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
20年前、フランスのドゴール空港に私たちを迎えに来てくれた現地ガイドが伊作だった。
黒のカシミアのロングコートを着た彼は、愛想を振り撒く訳でもなく、私たちに淡々とパリを案内してくれた。
ホテルに荷物を置いて、小さなビストロで昼食を摂った。
「みなさん、エスカルゴは初めてですか?
エスカルゴを食べた後のスープは、この様にパンに付けて食べると美味しいですよ」
彼はバゲットをひと口大にちぎると、それを私たちに実践して見せた。
「あらホント、すごく美味しいわね。
ニンニクがとてもよく効いているわ」
「エスカルゴなんて、日本では格式の高いフレンチレストランじゃないと食べられないからなあ」
ツアー客たちはそれに頷きながら食事を楽しんでいた。
「これからパリ市内観光と自由行動に分かれます。
パリの人は交通ルールをあまりよく守りませんし、スリや詐欺も多いのでくれぐれも注意して下さい。
バッグは体の前に来るようにして下さいね。
買い物に夢中になっていると狙われ易いです。
日本の女性は特に」
するとコーヒーもそのままに、半数以上のツアー客が急ぐように店を出て行った。
私は現地ガイドの伊作に尋ねた。
「みなさん、パリ観光もせずに慌ててどちらへ?」
「今、パリはソルドの真っ最中なんですよ、殆どの商品が半額になりますからお買い物に出掛けたようですね?
それに今日は金曜日で、土日はお店もデパートもお休みになります。だからみなさん、そちらへ急いだのでしょうね?
あなたはいいんですか? ショッピングをしなくても?」
「私はパリにお買物に来たわけではありませんから」
「それは良いことです。折角のパリですからね?
なるべく多く、パリを楽しんで下さい。
一番のおみやげは、このパリでの思い出ですから。
それにパリで買える物は殆ど日本でも買えますからね?
パリにも日本にも『高島屋』はありますから」
伊作は澄んだ美しい瞳で、私を見て微笑んだ。
そして私たち観光組はベルサイユ宮殿へと向かった。
子供の頃からの憧れだったベルサイユ宮殿。
私の夢が遂に叶った。
美しいシンメトリーの巨大宮殿と広大な庭園に私は息を呑んだ。
宮殿内にある王の礼拝堂の天井画は圧巻だった。
「この天井画を描いた画家は、ずっと上を向いて描いていたためなのか? 天井画を完成させた後には気が狂って死んでしまったそうです。
この天井画は彼の命で描かれた物なのです」
伊作はそれをさらりと説明した。
神々しいほどの天空の物語。
画家は死んでしまったが、後世にこの凄まじい美を彼は残した。
私は死んで、一体何を残すことが出来るのだろう?
そして私たちはあの有名なベルサイユ宮殿の『鏡の間』へと進み出た。
巨大なシャンデリアと壁を覆い尽くす大きな鏡たち。
今でも楽団の演奏に合わせて踊る、貴族たちの姿が見えるようだった。
「ベルサイユにはトイレがありません。
女性のあの傘のように特徴的なスカートが役に立っていたようです。
何しろ廊下で用を足し、それを使用人たちに片付けさせていたそうですから」
「えっー、やだわ、廊下でなんて」
年配の二人組の女性ツアー客が笑った。
外に出て、私が噴水のところから庭を眺めていると、後ろから声を掛けられた。
伊作だった。
「この噴水は重力式の物で、上の貯水池からここへ水が噴出するように設計されているのです。
昔はポンプがありませんでしたからね?」
「私、あの『ベルサイユの薔薇』にずっと憧れていたんです。
それで思い切って大学の卒業旅行にパリにやって来ました。
予想以上でした、すごく素敵。
パリまで来た甲斐がありました」
「あのオスカルとアンドレですね? それは良かった。
ではマリー・アントワネットにもお詳しいのですね?」
「ベルバラの知識程度しかありません。
パリに来るのが決まってから、慌てて遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』を読みました。
もっとよく勉強して来れば良かったと後悔しています」
「そうでしたか?
ではプチ・トリアノンの話はご存知ですか?」
「その話、ありましたっけ? 記憶にありませんけど」
「マリー・アントワネットはこの堅苦しい形式ばったベルサイユ宮殿が嫌いだったそうです。
そんな王妃のために夫であるルイ16世は、その離宮である、プチ・トリアノン宮殿を与えたのです。
そこで彼女は英国式の田園集落を作りました。
野菜を育てたり、機織りをして過したのです。
そこが『王妃の里村』と呼ばれる所以でもあります。
プチ・トリアノンは王妃の聖域でした。
オーストリアのハプスブルグ家から僅か14歳で政略結婚をさせられた悲劇の王妃、アントワネット。
そこにはマリー・アントワネットの幽霊が出ると言われています」
「王妃の幽霊が?」
「余程、プチ・トリアノンでの暮らしが楽しかったのでしょう。
アントワネットの許可なく立ち入ることは許されませんでした。
それが例え王のルイ16世であってもです」
「見てみたい、プチ・トリアノンを」
「今日は時間がないのでご案内できませんが、是非、滞在中にご覧になってみて下さい。
きっと感銘を受けると思いますよ、美しくも悲しいプチ・トリアノンに」
「ひとりではちょっと。
私、フランス語もわからないし」
私はチラリと伊作を見て、遠回しに伊作を誘った。
「月曜日ならご案内出来ますけど?」
「ガイド料はおいくらですか?」
すると彼は面白そうに笑った。
「そうですねー? ではお昼をご馳走して下さい、それで結構です」
「それでいいんですか?」
「はい。喜んで」
それが伊作と私の運命の出会いだった。
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