【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第10話

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 月曜日、伊作は私の滞在しているホテルまでクルマで迎えに来てくれた。
 
 「それではマリー・アントワネットに会いに行きましょうか?」
 「本当にアントワネットの幽霊がいるんですか?」
 「さあどうでしょう? でも、私は好きですよ、プチ・トリアノンもマリー・アントワネットの幽霊もね?」
 
 ホテルの前にはクリーム色のシトロエンが停めてあった。

 伊作は助手席のドアを開けてくれた。
 その身のこなしはとてもスマートなものだった。
 彼は私をレディとして扱ってくれた。
 まだ学生の私にとって、それは初めての経験だった。
 うれしかった。


 伊作は静かにクルマを発進させ、滑らかに車道の流れにクルマを合流させた。


 「自己紹介がまだでしたね?
 僕は西山伊作、25歳。
 パリには絵の勉強に来ているんです。
 パリに来て今年で3年になります」
 「私は前園奈緒、青学の4年生です。
 伊作さんて素敵なお名前ですね?」
 「母が名付けてくれたんです。
 母はクリスチャンでね? キリスト教のサラとアブラハムの子供のイサクが由来らしい。
 母はピアニストだったんですけど、今は日本の音大で講師をしています。
 奈緒ちゃんはクリスチャンなの?」

 ここでようやく伊作は私を「ちゃん」付けで呼び、友だち口調になった。

 「私は宗教とは無縁だから、キリスト教にも知識がないの」
 「パリへは卒業旅行で来たんだよね?」

 私は少し返答に躊躇したが、正直に答えた。

 「それもあるけど本当は傷心旅行なの。
 親友に彼を盗られちゃった」
 「杏里の『悲しみが止まらない』の唄みたいだね? それは辛かったね?」
 
 私は黙って頷いた。

 「こんなに素敵な奈緒ちゃんを振るなんて、その彼、どうかしてるよ。
 でもね、恋愛なんてどんなにお互いが好きでも、そうはいかない時もある。
 それが奈緒ちゃんたちの定めだったのかもしれない」
 「定め?」

 私は運転に集中する彼の横顔にハッとした。
 
 (なんて美しく、知的な横顔なの?)

 人間の履歴書は横顔にあるという。
 今、私はそれを納得していた。


 「僕たちは生まれた時から、いや、生まれる前から宿命を背負って生まれて来るんだ。
 いつどこに、どんな親の元に生まれ、誰と恋をし、結ばれたり別れたりするのかは、既に決められているんだよ。
 そしてやがて運命の人に出会う。僕はそう思うんだ」
 「じゃあ彼と別れることも、親友に裏切られることも運命だったというの?」
 「でもそう考えれば諦めが付くだろう? 嫌なことや悪いことはみんな運命のせいだと思えば気がラクじゃない?」
 「なーんだ、そういうこと? 伊作さんて面白い人ね?」

 私は思わずハンドルを握る彼の血管の浮き出た手に触れそうになった。
 伊作といると、とても穏やかで素直な自分でいることが不思議だった。
 私はパリに来て、本当に良かったと思った。

 私たちは一緒にドライブを楽しんでいる、恋人同士のようだった。

 ドライブ中、私は日本の話を、そして伊作はパリのことを話した。
 楽しいドライブデートだった。



 プチ・トリアノンに到着した。

 「もっと大きい宮殿を予想していたけど、意外と小さいのね?」
 「この建物はね、各々のファサード外観から見える景色を、計算して造られているんだ。
 確かにベルサイユ宮殿やトリアノン宮殿と比べると小さいが、僕はこの離宮がとても気に入っている。
 ここでアントワネットは自然に囲まれ、農作業をし、ファルセン伯爵と恋をした」
 「不倫してたってこと?」
 「嫌な言い方をすればそうなるね? でも僕はファルセンとの恋は「純愛」だと思うんだ。 
 だってルイ16世との結婚は国同士が決めた政略結婚だったんだから」
 「そういえばそうかもしれないけど、ちょっと抵抗あるなあ? 旦那さんがいるのに浮気だなんて」

 私は香織のことを想い出していた。
 つまり私がルイ16世でファルセンが香織? それが許せなかった。


 「ふたりの出会いはパリのオペラ座での仮面舞踏会、マスカレードだったそうだ。
 仮面をしているふたりが、まさかフランス王妃とスウェーデンの貴族だったなんて、運命を感じないかい?」
 「そこからお付き合いが始まったの?」
 「いや、ふたりが親密になったのは、その数日後に開かれたベルサイユ宮殿での舞踏会だったらしい」

 だが私はそれを容認する気にはなれなかった。
 それはファルセンの略奪愛であり、アントワネットのルイ16世への背徳だったからだ。
 人はその行為を不倫と呼ぶ。「倫理に非ず」と。


 「そのまま二人の密会は続いたの?」
 「ファルセンは王妃に迷惑が掛かるのを怖れ、アメリカへの従軍を志願し、アントワネットの下を去ってしまう。
 でもやっぱりアントワネットのことが忘れられず、パリへ舞い戻って来てしまうんだ。
 すると彼女はファルセンにそっくりなルイ17世を出産していたんだ。
 夫のルイ16世はどうやらそれを知っていたらしい」
 「子供まで産んじゃったの!」
 「そういう時代だったんだろうな?
 世継は王家の宿命だからね?
 そしてフランス革命を迎える。
 ファルセンは何度も王家を亡命させようと試みたがすべて失敗に終わり、ファルセンは最愛のアントワネットと自分の子供までも失ってしまう。
 民衆の自由の名の基にギロチンの露と消えたんだ。
 ルイ17世はまだ10歳だったんよ、ファルセンの民衆への怒りは尋常じゃなかったはずだ」
 「残されたファルセンはその後、どうなったの?」
 「スウェーデン軍の元帥にまで出世して、最後は暴徒化した群衆に撲殺されたらしい。
 その場にいた彼の部下たちは、何もせずにただそれを傍観していたそうだ。
 彼は軍服をはぎ取られ、裸で側溝に捨てられるという屈辱的な死を遂げる」
 「バチが当たったのよ、不倫なんかするから」
 「そうかもしれない。
 ほら、そこにアントワネットの幽霊が」
 「キャーッ!」

 私は思わず伊作に抱き付いた。
 伊作は私を優しく抱きしめてくれた。
 
 「ごめんごめん、ちょっと悪戯したくなっちゃったんだ。
 あまりに奈緒がかわいくてね?」

 奈緒ちゃんから「ちゃん」が取れ、私は伊作に「奈緒」と呼び捨てにされた。

 「驚かせないでよ、伊作のバカ・・・」

 私も彼を呼び捨てにした。
 私たちは抱き合ったまま、じっとしていた。

 「もう少しだけ、こうしていて・・・」

 伊作はそれに答える代わりに、私を抱きしめる腕に力を込めた。

 私の失恋の痛みは、ゆっくりと溶けてゆくグラスの氷のように消えていった。

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