【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第12話

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 食事を終え、彼のアトリエに向かう途中、セーヌ河畔に沿って伊作はクルマを走らせていた。
 
 7日間だけの恋。
 私たちには時間がない。
 私は一秒でも長く、伊作に触れていたかった。
 私は伊作の太腿に手を置き、彼の横顔を見詰めていた。

 早く彼のぬくもりが欲しいと思うと、体が熱くなった。

 だがその一方で、久しぶりの恋に戸惑う自分もいた。
 時折、低いグラスボートがセーヌ川を滑って行く。

 
 「ランボーって詩人、知ってる?」

 伊作は前を向いたまま、私に訊ねた。

 「アルチュール・ランボーのこと? 名前だけは知っているけど作品は読んだことがないわ」
 「僕は彼の詩が好きなんだ。
 いいんだよ、ランボーの詩はとても。
 僕もランボーのような、自由奔放な放浪詩人になりたい」
 「どんな詩?」

 彼はその一節をそらんじてみせた。


   私は歩いた 破れたポケットに両手を突っ込んで
   外套もポケットに劣らずおあつらえ向きだった

   大空の下を私は歩いた ミューズを道案内にして
   何たる愛の奇跡を私は夢見たことか

        
 「いい詩だろう? 『我が放浪』の一節なんだ」
 「うん、じゃあ私はあなたを道案内する女神ね?」
 「そうだね? そうかもしれない。
 君は僕を惑わす危険なミューズだよ」
 
 伊作はそう言うと、ハンドルを握りながら、私に軽く唇を重ねた。
 私もそれに応えた。
 運転しているので、それはとても短いキスだった。
 私は伊作に寄り添った。



 彼のパリのアトリエは、まるで絵画の神様がいるかのようだった。
 油絵具と木に塗られたニスの匂い。
 北向きのその部屋は天井が高く、縦長の格子窓がはめられていた。
 淡いセルリアンブルーに塗られた壁と暖炉。
 たくさんの絵具と絵筆、そして白いカンヴァス。
 しかし、作品は意外にも少なかった。
 イーゼルには完成間近の夜の遊園地の絵が置かれていた。

 「悲しそうな夜の遊園地ね? 誰もいないわ」
 「遊園地は決して楽しいだけじゃないからね? 少なくとも僕にはそう見えた。
 喧噪の中の静寂な孤独を表現したかった」
 「ここはどこの遊園地なの?」
 「チュイルリー公園の移動遊園地だよ」
 「今もあるの?」
 「冬だからね? 今は何もやっていないと思うよ。
 でも、明かりは点いているかもしれない」
 「見てみたい、その夜の遊園地」
 「じゃあ、これから見に行こうか?」
 「うん、その悲しい遊園地を。
 このアトリエには伊作の作品は少ないのね?」
 「別にダヴィンチを気取るわけじゃないけど、気に入らない作品は破り捨てて暖炉にくべてしまうんだ。
 僕はピカソじゃないから」

 すると伊作は書棚からフランス語の本を一冊手に取り、私に差し出した。

 「奈緒にあげるよ、このランボーの詩集」
 「いいの? あなたの大切なご本でしょう?」
 「だから奈緒に持っていて欲しいんだ。
 これを僕だと思って思い出して欲しいから」
 「ありがとう、でも折角だけどいただくわけには行かないわ。
 これから始まる伊作との素敵な恋は、音楽のように奏でられた瞬間から美しく消えてしまう定めだから。
 ただの思い出にはしたくはないの」

 「そしてあなたのことが好き」、と言いかけて止めた。
 安っぽい恋愛小説のように、好きとか愛してるを口にはしたくはなかったからだ。
 私はこの恋が、どこにでもあるような陳腐なものになることを避けたいと思った。

 「そうだったね? この恋はパリで終わるんだった・・・」

 伊作は寂しそうにそれを本棚に戻した。
 彼の後ろ姿が切なかった。

 私たちは白布が掛けられたソファに座り、熱く長いキスをした。
 私は彼の厚い胸に触れ、伊作は初めて私の乳房にそっと触れた。

 「伊作・・・」
 「奈緒。君が好きだ」

 ふたりは強く抱擁し、服を脱ぎ捨て体を合わせた。
 それはまるでアダムとエヴァの原始の行為のように自然なものだった。

 私はその時、初めて女としてのエクスタシーを感じ、本気で伊作と愛し合った。
 伊作のコンスタントな動きに合わせ、声が漏れてしまうのが恥ずかしかった。

 「あん、あん、あん・・・」

 私は目を閉じ、すべてを伊作に委ねた。
 赤く燃える暖炉の前で、夢中になって私たちはお互いを強く求め合った。
 


 長いセックスの後、放心状態でいる私に伊作が言った。

 「もうすぐ日が暮れる。
 遊園地に出掛けてみようか?」
 「うん・・・」

 私たちはラグに脱ぎ散らかした服を拾い集め、何事もなかったかのようにアトリエを後にした。

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