【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第14話

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 セーヌの中洲、シテ島にあるノートルダム大聖堂へやって来た。

 このゴシック建築を代表するローマ・カトリック教会は、絶対的威厳に満ちてそびえ建っていた。


 「このノートルダムの中央口のあのレリーフはね、『最期の審判』を表現しているんだ。
 人類が滅んだ後、人間はキリストから裁きを受ける。
 中央に鎮座しているのがキリストで、広げた両手には磔にされた時の傷が残されている。
 それを民衆に見せることで「人々の罪穢れは私が受け止めたゆえ、安心して私を信じるがよい」という意味があるそうだ。
 キリストの左手にいるのが磔の槍と釘を持った天使。そして聖母マリア。
 そして右手にいるのが十字架を持った天使と、洗礼者ヨハネがいる。
 ほら、あそこの天秤で魂の重さが測られるんだ。
 魂の軽い人間は地獄へ、そして重い人間は天国へと召される」
 「私は魂が軽いだろうから地獄かも?」
 「そんなことはないよ。大丈夫、奈緒は絶対に天国行きだから。
 本当に悪い奴は自分を悪くは言わないものさ」


 伊作との2日目のパリ。
 大聖堂の中には無数の赤い蝋燭の炎が灯っていた。

 そしてあの教科書で見た薔薇窓のステンドグラスの美しさに私は息を呑んだ。
 蝋燭のゆらめく光炎の中を進んで行くと、小さな郵便局の受付のような場所があった。

 「ここは何?」
 「懺悔室だよ」
 「こんな小さなところで罪を告白するの?」
 「罪を告白するにはひっそりとしている方がいいからじゃないのかな?
 大きな舞台のような場所で、自分の犯した罪をみんなに告白する人はいないからね?」
 「それはそうだけど」
 「奈緒は告白したい罪はあるの?」
 「たくさんあるわよ、数えきれないくらい」
 「それは嘘だね? 君に罪は似合わない。
 もしあるとすれば、僕に奈緒のことを好きにさせた罪だね? あはははは」
 「じゃあお互い様ね? 伊作も罪を犯しているわ、私が伊作のことを大好きにさせた罪」
 「そしてそれもあと6日で終わる・・・」

 伊作は溜息混じりにそう言った。

 パリでのあと6日、すべてを忘れて私は伊作を全力で愛するのだ。
 それが私に出来る、唯一の伊作への罪滅ぼしだった。
 私は伊作の黒のカシミアのコートの背中に額をつけた。

 
 「知っているよね?『ノートルダムのせむし男』の話は?」
 「うん、子供の頃に母に読んで貰ったわ。
 でも背中の曲がったカジモドがすごく怖かった」
 「外見は醜い姿をしていたカジモドだが、心がとても美しい人間だった。
 エスメラルダを純粋に愛し、彼女を処刑した司祭のフロスをこの鐘楼から突き落としてエスメラルダの仇を討つ」
 「悲しいお話よね? 結局みんな死んじゃうんですもの」
 「死には時間を停止させる力がある。
 エスメラルダは永遠に美しいまま、人々の記憶に残っている」
 「じゃあカジモドは?」
 「エスメラルダを愛したという想いが彼の魂に刻まれたに違いない。
 おそらく彼はその醜さゆえに捨てられた赤子ではなく、今度はハンサムな貴公子として生まれ変わったのかもしれない」
 「伊作は前世でカジモドだったの? 今はイケメンさんだけど?」
 「ありがとう、奈緒。
 じゃあ奈緒は蘇った美しいエスメラルダだね?
 そして僕たちは恋に落ちた、この美しいパリの街で」

 
 思い出は美しいままでいい、私はそう思った。
 ラブ・ロマンスはハッピーエンドで終わるべきなのだ。
 恋を永遠のものとして大理石彫刻をするためには、愛を停止させなければならない。
 しかも幸福の絶頂で。
 この恋愛を風化させないために。

 私の判断は正しいはずだ。
 私はそう自分に言い聞かせた。
 幸せはいつかは終わる。
 恋愛もいつかは終わるのだ。
 私は伸一からそれを学んだ。

 パリと東京、そんな超遠距離恋愛なんて、絶対に上手くいくはずがない。
 


 大聖堂を出ると、外は雪が降っていた。
 ゆっくりと落ちてゆく、スノードームのような雪。

 黒い法衣を纏った神父さんから英語で声を掛けられた。

 「パリにはハネムーンですか?」
 「はい、新婚旅行の続きをしています」
 「では良い旅を。アーメン」

 私も英語でそう返事をした。
 夫婦であるということについては否定しなかった。
 他人から見ても私たちはお似合いだと思われていることが嬉しかったからだ。

 ノートルダムのパイプオルガンの音が聞こえて来た。
 
   BWV578 小フーガ ト短調。

 私たちは雪の中でその音色を愛でるように聴いていた。
 しっかりと強く抱き合ったままで。

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