【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第19話

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 今日が約束のパリの最後の日。
 明日は日本への帰途に就く私。
 あっという間の夢のような7日間だった。
 私たちはベッドでお互いを激しく求め合い、私たちはテニスの試合を終えた後のような心地よい達成感に包まれていた。

 ダビデ像のような裸体で、暖炉に薪を焚べている伊作。
 暖炉の火が彼の肉体を照らし、彼の瞳には暖炉の炎が映っていた。


 「ねえ、寒いから早くこっちに来て・・・」
 「今、新しい薪を焚べたから少し待って」
 「早くこっちへ戻って来てよ! そして私をもっと温めてって言ってるの!
 明日はもうさよならなんだから」

 私は苛立っていた。明日はこのパリを離れ、伊作と別れなければならないことに。
 伊作は私を見詰め、真顔でこう言った。

 「それなら帰らなければいい。
 ずっとこのままここで一緒に暮らせばいいじゃないか」
 
 私はそれを受け流した。
 泣くにはまだ早いからだ。

 「いいから早くここに来て、寒いよ」

 感傷的な話はしたくなかった。
 折角の伊作との最後のパリだから。
 私はずっと伊作に甘えていたかった。

 伊作がベッドに戻って来ると、私の体を抱きしめ、優しく髪を撫でてくれた。
 
 「伊作のカラダ、凄くあったかい・・・」
 「奈緒も」

 私と伊作は熱い口づけを交わした。

 「遂に今日が約束の最後の日になったね?
 どこか行きたいところはあるかい?」
 「ベルサイユにルーブル。オルセーにノートルダム大聖堂、モンマルトルにカルチェラタン。
 ムーラン・ルージュにエッフェル塔・・・。
 色んなパリをたくさん見せてもらった。
 とても7日間では回れないほど。この芸術の都はとても素敵だった。そして伊作も」
 「それじゃあ最後のパリは僕に任せてもらってもいいかな?」
 「もちろんよ。でもお願い、もう「最後」って言葉は言わないで。
 決心が鈍りそうだから」

 そして私たちは中断していたベッドでの最後のテニス・ラリーを再び始めた。

 

 伊作はセーヌ川にかかるこの橋に私を誘ってくれた。

 「知っているかい? アポリネールの『ミラボー橋』の詩を?」
 「知らないわ、ここがそのミラボー橋なの?」
 「そうなんだ、ここがミラボー橋さ」

 伊作は欄干からセーヌを見下ろし、アポリネールの詩を誦じてみせた。



    ミラボー橋の下 セーヌは流れる
    僕の恋もまた 忘れてしまってはいけないのか
    喜びはいつだって 苦しみの後にやって来た

    夜よ来い 鐘よ鳴れ
    日々は去り 僕は残る

    手と手を繋ぎ 頬と頬を合わせていよう
    僕らの腕が 橋を作るその下で
    波が過ぎる 絶え間ない視線にくたびれて
    
    夜よ来い 鐘よ鳴れ
    日々は去り 僕は残る

    恋は去る この流れる水のように
    恋は去る

    人生はあまりに 鈍い
    そして希望は あまりに激しい

    夜よ来い 鐘よ鳴れ
    日々は去り 僕は残る
    
    毎日が過ぎ 一週間が過ぎる
    過ぎた時も 恋も戻っては来ない

    ミラボー橋の下 セーヌは流れる

    夜よ来い 鐘よ鳴れ
    日々は去り 僕は残る



 伊作は私を力強く抱きしめ、そして泣いた。

 「僕は忘れないよ、奈緒のことは絶対に」
 「この7日間、私を愛してくれて本当にありがとう。
 伊作のことも、この美に溢れたパリも、私の人生の永遠の宝物になったわ。
 素晴らしいハッピーエンドの恋になったの。永遠に終わらない恋に。
 そしてこのミラボー橋のことも忘れない・・・」

 伊作は更に、私を抱く腕に力を込めた。

 「行くな奈緒! 行かないでくれ!
 僕は君のいないパリで生きていく勇気がない!」
 「伊作・・・。
 言ったでしょ? 私とあなたの恋はここで終わるの、美しいままで、愛し合ったままで。
 伊作が教えてくれた、アポリネールの詩のように。
 これで私たちの愛は永遠に美しいまま、私たちの心に刻まれたのよ。 
 絶対に忘れない! 私はこのパリで伊作と愛し合ったこの7日間の記憶を! 
 好きよ伊作! ずっと大好き!」



 それが私と伊作のパリでの思い出だった。
 そしてその彼が今、この横浜中華街で長い箸を使い、酢豚のピーマンを口へ運んでいる。
 私は夢を見ているようだった。

 このまま時間が止まればいいとさえ私は思った。
 私にはこの先のシナリオが思い浮かばずにいた。


 「どうかしたの?」
 「不思議だなあと思って。
 パリでの7日間もあっという間だったけど、20年経った今も同じなのね? あなたへの想いはあの頃のまま」
 「そうだね? 瞬く間に時間が過ぎて行った。
 でもここが、まるで君と過ごしたパリにいるみたいだよ」

 私はグラスに残った紹興酒を一息に飲み干した。
 窓際のテーブル席、夜のガラス窓にもうひとりの自分が映っている。
 ひとりの女としての自分が。

 私は恋の海に漂う難破船のようだった。

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