【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

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第18話

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 伊作とパリの街を散策していると、アパルトメントのテラスに「三色すみれ」があるのを見つけた。


 「あのパンジー、雪が載ってかわいそう」
 「パンジーってなんでパンジーって言うか知ってるかい?」
 「なんでパンジーっていうの?」
 「ヴィオラとも言うんだけど、ヨーロッパではハーツウィーズと呼ばれることもある。
 膨大な交配を繰り返し、生まれたのがこの三色すみれなんだ。
 ちょっとサルの顔みたいにも見えるだろう?
 だからモンキー・フラワーとも呼ばれることもある。
 パンジーは不思議な花でね? 毒性があるんだよ。
 低木の下にパンジーを植えると雑草が生え難くくなる」
 「あんなにかわいい花なのに?」
 「そんな花はたくさんあるよ。
 スズランもあんなにいい香りなのに毒性がある。
 スズラン畑で眠ると死んでしまうそうだよ」
 「スズラン畑で? ホントに?」
 「確かめたわけではないけど、そんな噂があるらしい。
 シェークスピアは『真夏の世の夢』の中で、パンジーを絞った汁を媚薬として表現しているけどね?
 パンジーはね、フランス語のパンセに由来しているという説もある。
 パンセとは考える、思考するという意味があるんだ。
 だから自由思想のシンボルにもなっている。
 あの俯いて咲くところが、いかにも考えているようにも見えるだろう?
 パスカルも『パンセ』でこう言っている。


    人間はひと茎の葦にすぎず、自然の中で最も弱いものである。
    しかし、考える葦である。


 人間は偉大だよ、それは思考するからだ。
 人間は小さくて弱い。だが人間の思考は自由で無限だ。それは宇宙さえも超越してしまう」
 「素敵な名前なのね? パンジーって」
 「英語の pansy とは女々しいとか、男らしくないという意味がある。
 ゲイという意味もあるし、pance には「ヒモ男」という俗語の意味もあるが、このチャーミングな花を見ていると、それは似つかわしくない話だよね?」  


 労わるように伊作はパンジーを見つめていた。

 この人の絵が優しさに満ち溢れているのは、こんな風に物事を考えているからなのかもしれない。
 
 私は彼の腕につかまり、頬を寄せた。
 深く純粋に。
 彼から微かに油絵具の匂いがした。
 遠くで聞こえる教会の鐘の音。

 私はこの美しい芸術の街と、伊作を生涯忘れることはないだろう。
 そして雪に耐えて咲く、このパンジーのことも。

 パンジーの花言葉は「節度」だそうだ。
 私はパンジーに降り積もった雪を、手を伸ばして払い除けてあげた。 

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