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第一楽章
第1話 薔薇『マリア・カラス』
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「私はあなたに相応しい」
それがこの薔薇、『マリア・カラス』の花言葉だった。
太い茎にしっかりとした葉を広げ、大輪の花を咲かせる「孤高の薔薇」
花びらの色は鮮血のような鮮やかな赤と淡い恋の色を混ぜたような、唯一無二の色をしていた。
絶世のプリマドンナ、マリア・カラス。
偉大なソプラニスタに与えられた称号。
世界の聴衆を魅了し、いくつかの恋に身を焦がし、破れ、絶望の中で不慮の死を遂げた悲劇のDiva、マリア・カラス。
海音寺琴子。彼女もまた、そんな儚くも美しいDivaだった。
今日の聡子のピアノ伴奏のピアニッシモは、明らかに強すぎた。
私は水鳥のダウンフェザーのような柔らかな音が欲しかった。
ピアニッシモとは弱く弾くことではない。「女が男にやさしく囁くように弾く」という意味なのだ。
琴子はベッドの軋む音にうんざりしながら、今日のソロコンサートのことを思い出していた。
「はあ、はあ、はあ・・・」
夫の荒い息遣いと単調な腰の律動が続いていた。
(早く終わってくれないかしら? 明日も早いのに)
夫、輝信の性処理の道具になっている自分が滑稽だった。
私たち夫婦の終わりが始まろうとしていた。
医学部の心臓外科の准教授をしている夫は、大きな手術を終えた後は必ず私を求めて来た。
その行為はいつも自分勝手なもので、私のことなどお構いなしに行為は続けられた。
私が生理の時でさえも平気で私を抱く夫。
失敗の許されない命との闘い。激しいストレスを感じているのも分かるし、興奮している夫を癒してあげたいとも思う。だがそれは夫の輝信だけではない。ソプラノ歌手としての私も同じなのだ。
毎日の体調管理と過酷なレッスン、筋トレ。ただでさえ私は食事アレルギーも多く、病弱だった。
いかにその曲の歌詞の真髄を理解し、旋律に乗せてそれをどう表現するか? 毎日が戦いだった。
家事との両立はすでに限界を超えていた。
ある日、朝食を摂りながら私は夫に家政婦を雇うことを提案した。
「ねえ、お金は私が払うから、家政婦さんを雇ってもいいかしら?」
「家政婦? そんなの無駄だよ。君が専業主婦になればいいじゃないか? そしてその道楽の時間を減らせばいいだけの話だ」
「歌うことが道楽だって言うの? 私は声楽を遊びでやっているわけじゃないわ! 親に大学院にまで行かせてもらったのよ! それを道楽だなんて酷い!」
「琴子は声楽家である前に僕の妻だということを忘れないで欲しい。妻なら夫に尽くすのが当然じゃないか? 君は僕に教授になって欲しくはないのか? 兎に角、家政婦は必要ない!」
夫はそれだけ言うと、そのまま病院へと家を出て行った。
夫とは見合い結婚だった。
開業医をしていた父親からの勧めもあり、私は彼とお付き合いを始めた。
嫌いなタイプではなかった。横顔に知性が漂っていた。
音大時代に同棲していた彼もいたが、彼は卒業してニューヨークへ留学し、私は院に進学して研究生となり、いつの間にかその恋は自然消滅してしまった。
叶わぬ遠距離恋愛だった
その後、彼はニューヨークでアメリカ人女性と結婚したと聡子から聞かされた。
夫の家も医者の家系で、実家の病院は義兄が継ぎ、義父もまだ健在だった。
ペンシルバニアから帰国したばかりの輝信は、私にはとても輝いて見えた。
デートで南青山を散策している時、彼が言った。
「一度、琴子さんのコンサートを観てみたいなあ。駄目ですか?」
「じゃあ今度、上野の東京文化会館でべッリーニのオペラ、『ノルマ』をやるので見に来ます? チケットは用意しておきますから」
「5枚買わせてもらってもいいですか? 医局の仲間にも琴子さんを自慢したいので。
僕のお嫁さんになる君のことを」
うれしかった。自分の仕事仲間にまで私のことを紹介したいと言ってくれた輝信が。
そこで歌うCasta Diva『清らかな女神』はかなりの難曲だったが、私には歌いこなす自信があった。
そんな彼との結婚も悪くはないと、私は思い始めていた。
それがこの薔薇、『マリア・カラス』の花言葉だった。
太い茎にしっかりとした葉を広げ、大輪の花を咲かせる「孤高の薔薇」
花びらの色は鮮血のような鮮やかな赤と淡い恋の色を混ぜたような、唯一無二の色をしていた。
絶世のプリマドンナ、マリア・カラス。
偉大なソプラニスタに与えられた称号。
世界の聴衆を魅了し、いくつかの恋に身を焦がし、破れ、絶望の中で不慮の死を遂げた悲劇のDiva、マリア・カラス。
海音寺琴子。彼女もまた、そんな儚くも美しいDivaだった。
今日の聡子のピアノ伴奏のピアニッシモは、明らかに強すぎた。
私は水鳥のダウンフェザーのような柔らかな音が欲しかった。
ピアニッシモとは弱く弾くことではない。「女が男にやさしく囁くように弾く」という意味なのだ。
琴子はベッドの軋む音にうんざりしながら、今日のソロコンサートのことを思い出していた。
「はあ、はあ、はあ・・・」
夫の荒い息遣いと単調な腰の律動が続いていた。
(早く終わってくれないかしら? 明日も早いのに)
夫、輝信の性処理の道具になっている自分が滑稽だった。
私たち夫婦の終わりが始まろうとしていた。
医学部の心臓外科の准教授をしている夫は、大きな手術を終えた後は必ず私を求めて来た。
その行為はいつも自分勝手なもので、私のことなどお構いなしに行為は続けられた。
私が生理の時でさえも平気で私を抱く夫。
失敗の許されない命との闘い。激しいストレスを感じているのも分かるし、興奮している夫を癒してあげたいとも思う。だがそれは夫の輝信だけではない。ソプラノ歌手としての私も同じなのだ。
毎日の体調管理と過酷なレッスン、筋トレ。ただでさえ私は食事アレルギーも多く、病弱だった。
いかにその曲の歌詞の真髄を理解し、旋律に乗せてそれをどう表現するか? 毎日が戦いだった。
家事との両立はすでに限界を超えていた。
ある日、朝食を摂りながら私は夫に家政婦を雇うことを提案した。
「ねえ、お金は私が払うから、家政婦さんを雇ってもいいかしら?」
「家政婦? そんなの無駄だよ。君が専業主婦になればいいじゃないか? そしてその道楽の時間を減らせばいいだけの話だ」
「歌うことが道楽だって言うの? 私は声楽を遊びでやっているわけじゃないわ! 親に大学院にまで行かせてもらったのよ! それを道楽だなんて酷い!」
「琴子は声楽家である前に僕の妻だということを忘れないで欲しい。妻なら夫に尽くすのが当然じゃないか? 君は僕に教授になって欲しくはないのか? 兎に角、家政婦は必要ない!」
夫はそれだけ言うと、そのまま病院へと家を出て行った。
夫とは見合い結婚だった。
開業医をしていた父親からの勧めもあり、私は彼とお付き合いを始めた。
嫌いなタイプではなかった。横顔に知性が漂っていた。
音大時代に同棲していた彼もいたが、彼は卒業してニューヨークへ留学し、私は院に進学して研究生となり、いつの間にかその恋は自然消滅してしまった。
叶わぬ遠距離恋愛だった
その後、彼はニューヨークでアメリカ人女性と結婚したと聡子から聞かされた。
夫の家も医者の家系で、実家の病院は義兄が継ぎ、義父もまだ健在だった。
ペンシルバニアから帰国したばかりの輝信は、私にはとても輝いて見えた。
デートで南青山を散策している時、彼が言った。
「一度、琴子さんのコンサートを観てみたいなあ。駄目ですか?」
「じゃあ今度、上野の東京文化会館でべッリーニのオペラ、『ノルマ』をやるので見に来ます? チケットは用意しておきますから」
「5枚買わせてもらってもいいですか? 医局の仲間にも琴子さんを自慢したいので。
僕のお嫁さんになる君のことを」
うれしかった。自分の仕事仲間にまで私のことを紹介したいと言ってくれた輝信が。
そこで歌うCasta Diva『清らかな女神』はかなりの難曲だったが、私には歌いこなす自信があった。
そんな彼との結婚も悪くはないと、私は思い始めていた。
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