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第一楽章

第2話 情熱の薔薇

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 チケットは完売となり、東京文化会館の大ホールの1階から5階までの全2,300席はすべてこのオペラを望む聴衆で埋め尽くされていた。

 この美しい建築物は上野西洋美術館などを手掛けたル・コルビジェの弟子でもあった建築家、前川國男の代表作でもあり、師匠の設計した正面の西洋美術館と対をなすモダニズム建築の傑作でもある。
 計算され尽くされた素晴らしい音響効果には定評があり、東京都交響楽団の本拠地で、海外の歌劇場が来日することも多く、ウイーン国立歌劇場の来日の際にはここを利用することが殆どだった。
 オペラを演じられる劇場はいくつかあるが、私はここ、東京文化会館の歴史に刻まれた音楽家たちの匂いと息遣い、音楽が好きだった。
 

 舞台袖で待機している時、自分の心臓の鼓動が聞こえるほど緊張する。
 出来ることなら今すぐこの場から逃げ出したいとさえ思う。
 体が震え、手と腋にじっとりと汗が滲んいるのが分かる。
 私はハンカチで手の汗を拭った。


 ベルディはベッリーニのこの長い旋律が、ショパンのノクターンに影響を与えたことは間違いないと言っている。

 ドルイド教徒の聖なる森で行われる神聖なる儀式。
 それに必要なヤドリ木を伐りに来た巫女の長、ノルマ。
 ただし、巫女でありながらノルマは総領事と恋に落ち、ふたりの子供を宿して密かに産んでいた。
 神、イルミンスールは預言する。
 ローマの占領軍の反乱は近いと。
 ドルイド教徒はその神託に期待をする。 

 森の中を流れる、小川のせせらぎのような弦楽器の旋律に乗せ、木漏れ日のようなフルートの音色がそれに続く。
 私は大きく深呼吸をして、お腹に手を当て腹筋を支えた。
 少し長い序章が続く。

 『ノルマ』第一幕 アリア Casta Diva「貞淑なる女神」

 「美しく清らかな女神よ その銀色に輝く聖なるヤドリ木よ その美しき輝きを我らにお向け下さい・・・」

 そう私が歌い始めた時、すべての雑念は吹き飛び、私はいつの間にか聖なる森の中にいた。

 細かな音符を歌いこなすコロラトゥーラと、オーケストラに負けない声量。私の演じるノルマは完璧だった。


 聴衆の溜息が聴こえる。私は聴衆と交わり、ひとつになった。 
 最高のエクスタシー。
 伸びやかな歌声が私の頭蓋骨を振動させ、この舞台に響き渡る。
  

 歌い終わると水を打ったように鎮まりかえるホール。
 そして、少し遅れて押し寄せた津波のようなスタンディング・オヴェーションと、鳴りやまない夏の夕立のような万雷の拍手喝采を私は全身に浴び続けた。
 私のアリア『貞淑なる女神』はそこにいるすべての人々を魅了した。
 
 

 「凄いな、木村、おまえのフィアンセは!」
 「俺も驚いたよ! まさかこんなに凄いとは思わなかった!
 俺は震えが止まらないよ!」
 「俺もオペラは好きだが、この『貞淑なる女神』はかなりの難曲でな、それをこれだけ完璧に歌いこなすとはなあ。
 すごく音符が細かい曲なんだ。マリア・カラスは500回にも及ぶオペラ公演の中で、この『貞淑なる女神』を89回も歌った。カンティエーラを形成して高いB♭を美しく歌い上げるテクニックは実に秀悦だ」
 「僕も高校の時、合唱部のピアノ伴奏をしていたからわかるけど、彼女のソプラノはかなりのレベルだね。イタリア語も完璧だがイタリアへの留学経験もあるのかい?」
 「さあどうかな? 今度聞いてみるよ」
 「歌の上手い日本人は多いが、殆どはイタリア語で躓く。
 外人が片言の日本語で歌う、演歌のようなものになってしまうからだ。彼女はイタリア語も歌声も、実に素晴らしいよ!」



 コンサートが終わり、楽屋に戻ると沢山の花束が届けられ、甘い華の香りに包まれていた。

 そしてその中でもひと際目を惹く、鮮やかな赤い薔薇の花束を私は見つけた。

 それは私の好きな薔薇、『マリア・カラス』の花束だった。
 薄い水色のメッセージカードが添えられていた。輝信からだった。


     海音寺琴子様

     君はすばらしいDivaだ!
     君にこの薔薇『Maria Callas』を贈ります。
     僕は君に狂ってしまいそうだ!

                    木村輝信

 私はその薔薇の花束を抱いて呟いた。

 「私もあなたを生涯を掛けて愛し続けます」と。

 カラダがとても熱く震えた。
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