★【完結】歌姫(前編)作品230427

菊池昭仁

文字の大きさ
2 / 7
第一楽章

第2話 情熱の薔薇

しおりを挟む
 チケットは完売となり、東京文化会館の大ホールの1階から5階までの全2,300席はすべてこのオペラを望む聴衆で埋め尽くされていた。
 この美しい建築物は上野西洋美術館などを手掛けたル・コルビジェの弟子でもあった建築家、前川國男の代表作であり、師匠の設計した正面の西洋美術館と対をなすモダニズム建築の傑作でもある。
 計算され尽くされた素晴らしい音響効果には定評があり、東京都交響楽団の本拠地で、海外の歌劇場が来日することも多く、ウイーン国立歌劇場の来日の際にはここを利用することが殆どだった。
 本格的なオペラを演じられる劇場はいくつかあるが、私はここ、東京文化会館の歴史に刻まれた音楽家たちの匂いと息遣い、音楽が好きだった。
 


 舞台袖で待機していると自分の心臓の鼓動が聞こえるほど緊張する。
 出来ることなら今すぐにでもこの場から逃げ出したいとさえ思う。
 体が震え、手と腋にじっとりと汗が滲んいるのが分かる。
 私はハンカチで手の汗を拭った。


 ベルディはベッリーニのこの長い旋律はショパンのノクターンに影響を与えたことは間違いないと言っている。
 ドルイド教徒の聖なる森で行われる神聖なる儀式。
 それに必要なヤドリ木を伐りに来た巫女の長、ノルマ。
 巫女でありながらノルマは総領事と恋に落ち、ふたりの子供を宿して密かに産んでいた。
 神、イルミンスールは預言する。ローマの占領軍の反乱は近いと。
 ドルイド教徒はその神託に期待をする。 
 森の中を流れる小川のせせらぎのような弦楽器の旋律に乗せ、木漏れ日のようなフルートの音色がそれに続く。
 私は大きく深呼吸をして、お腹に手を当て腹筋を支えた。
 少し長い序章が続く。


     『ノルマ』第一幕 アリア Casta Diva「貞淑なる女神」

 「美しく清らかな女神よ その銀色に輝く聖なるヤドリ木よ その美しき輝きを我らにお向け下さい・・・」


 そう私が歌い始めた時、すべての雑念は吹き飛び、私はいつの間にか聖なる森の中にいた。
 細かな音符を歌いこなすコロラトゥーラとオーケストラに負けない声量。私の演じるノルマは完璧だった。

 聴衆の溜息が聴こえる。私は聴衆と交わりひとつになった。 
 最高のエクスタシー。伸びやかな歌声が私の頭蓋骨を振動させ、この舞台に響き渡る。
  

 歌い終わると水を打ったように鎮まりかえる大ホール。
 そして少し遅れて押し寄せる津波のようなスタンディング・オヴェーション。鳴りやまない夏の夕立のような万雷の拍手喝采を全身に浴び続けた。
 私のアリア『貞淑なる女神』はそこにいるすべての人々を魅了した。
 
 

 「凄いな木村。お前のフィアンセは!」
 「俺も驚いたよ! まさかこんなに凄いとは思わなかった! 俺は震えが止まらないよ!」
 「俺もオペラは好きだがこの『貞淑なる女神』はかなりの難曲なんだ。それをこれだけ完璧に歌いこなすとはなあ。
 すごく音符が細かい曲でマリア・カラスは500回にも及ぶオペラ公演の中で、この『貞淑なる女神』を89回も歌った。カンティエーラを形成して高いB♭を美しく歌い上げるテクニックは実に秀悦だ」
 「僕も高校の時、合唱部のピアノ伴奏をしていたからわかるけど、彼女のソプラノはかなりのレベルだね。イタリア語も実に見事だがイタリアへの留学経験もあるのかい?」
 「さあどうかな? 今度訊いてみるよ」
 「歌の上手い日本人は多いが殆どはイタリア語で躓く。外人が片言の日本語で歌う演歌のようなものになってしまうからだ。彼女はイタリア語も歌声も最高に素晴らしいよ!」



 コンサートが終わり、楽屋に戻ると沢山の花束が届いていた。甘い華の香りが私の興奮を鎮めてくれた。
 そしてその中でもひと際目を惹く鮮やかな赤い薔薇の花束を見つけた。
 それは私の好きな薔薇、『マリア・カラス』の花束だった。
 薄い水色のメッセージカードが添えられていた。輝信からだった。


     海音寺琴子様

     君はすばらしいDivaだ!
     君にこの薔薇『Maria Callas』を贈ります。
     僕は君に狂ってしまいそうだ!

                    木村輝信


 私はその薔薇の花束を抱いて呟いた。

 「私もあなたを生涯を掛けて愛し続けます」と。

 カラダが熱く震えた。

しおりを挟む
感想 29

あなたにおすすめの小説

★【完結】アネモネ(作品230605)

菊池昭仁
現代文学
ある裁判官の苦悩とその家族の生き様に迫る。同じ人間が同じ人間を裁く矛盾。 人は神ではない。人を裁けるのは神だけだ。 人間の本当のしあわせとは? 罪とは? 贖罪とは?

★【完結】黄昏村に春は来ない(作品230423)

菊池昭仁
現代文学
限界集落に集まる世捨て人たちのそれぞれの人生模様。 彼らは何を捨て、何を守ろうとしたのか。本当の幸福とは?

★【完結】Silver Rain(作品230608)

菊池昭仁
現代文学
パリで暮らす初老の作家と両親を亡くした若い女。二人は本当の親子のようにお互いを労って生きた。 プラトニックな人間愛。

★【完結】海辺の朝顔(作品230722)

菊池昭仁
現代文学
人生に絶望した男が掴んだ幸福と希望。それは海辺に咲いた朝顔だった。

★【完結】ダブルファミリー(作品230717)

菊池昭仁
現代文学
結婚とは生涯1人の女を愛し、ひとつの家族を大切にすることが人としてのあるべき姿なのだろうか? 手を差し伸べてはいけないのか? 好きになっては、愛してはいけないのか? 結婚と恋愛。恋愛と形骸化した結婚生活。 結婚している者が配偶者以外の人間を愛することを倫理に非ず、不倫という。 男女の恋愛の意義、本質に迫る。

九州のイチモツ 立花宗茂

三井 寿
歴史・時代
 豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。  義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。  下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。  大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。  女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。  だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。  その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。  島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。  その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。    

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...