3 / 7
第一楽章
第3話 恋のプレリュード
しおりを挟む
輝信に花束のお礼の電話をした。
「海音寺です。昨日は素敵なお花をありがとうございました。
私、あの薔薇が大好きなんです」
「それは良かった。琴子さんに似合う花だと思ってあの薔薇にしました。琴子さん同様、一目惚れです。
その『マリア・カラス』という名前も気に入りました。
舞台で朗々と歌う琴子さんを見ていると、プリマドンナ、マリア・カラスを見ているようでした。
いや、それ以上かもしれない。実は僕、初めてだったんですよ、生でオペラを観るのは。
オペラがあんなに素晴らしいものだとは知りませんでした。
また是非、琴子さんの歌が聴きたいです」
「ありがとうございます。私、歌う事が大好きなんです。歌が恋人で私の子供たちなんです」
「歌が恋人かあ。僕もなりたいなあ、琴子さんの恋人に」
うれしかった。私と私の歌を好きだというこの人が。
それはつまり海音寺琴子という私自身と、声楽家、海音寺琴子のふたりを同時に愛してくれているということだったからだ。
それは私たちふたりが「似て非なるもの」として、同じ肉体の中に共存していることを意味する。
歌っている時の私は琴子を離れ、その歌の主人公そのものが私に憑依する。
「またデートしませんか? 今度の土曜日の夜はどうです? その日は病院の当直も無いので」
「土曜日はレッスンと夜、打ち合わせがあるので日曜日の昼なら空いていますけど、輝信さんのご都合はいかがですか?」
「大丈夫です。では日曜日の昼10時にご自宅にお迎えに上がります」
「わざわざすみません。でも私、かなりの食アレルギーなので外食は限られてしまいますけど構いませんか?」
「ご心配なく。僕、料理するのが好きなんですよ。BLTサンドとかなら食べられますか?」
「だったら私がお弁当を作りますよ。お料理は好きなので。でも味は保証出来ませんけどね? うふっ」
私は密かに彼に料理の腕を自慢するつもりだった。
「ありがとうございます。でも、僕に作らせて欲しいんです。そしてもし琴子さんに僕のBLTサンドを「美味しい」と褒めてもらえたら、その時は結婚を前提に正式にお付き合いをしていただきたい。それでどうでしょうか? 駄目ですか?」
「木村さんって面白い人ね? 私、結構味にはうるさいのよ。食べられる物が限られている分、舌が鋭敏なんです。ではお言葉に甘えてお弁当、お願いしちゃおうかしら?」
「はい! 喜んで!」
その時、すでに私の判定は決まっていた。「凄く美味しいです!」と。
日曜日は生憎の雨だった。彼は予定の時間より少し早く家に迎えに来てくれた。
私は服装を整え、ギリギリまで入念にお化粧をした。
下着はもしもの時に備え、清楚な物を身に着けた。
いつも時間には正確な輝信だった。
医者としての誠実で几帳面な性格が伺える。
シルバーのアルファロメオ。いかにも彼らしいクルマだと思った。
父と母も輝信を温かく迎えてくれた。
「輝信君、今日は少し天気が悪いようだが運転にはくれぐれも慎重にな? 琴子のこと、よろしくお願いします」
「はい、安全運転で行ってまいりますのでご安心下さい。
きちんと法定速度は遵守いたしますので」
「あはは、今日はどちらへ?」
母も上機嫌だった。音楽家としてはそれなりのポジションを得ていた私ではあったが、両親からすれば適齢期を過ぎた娘の結婚は最重要案件だった。
「はい、茨木の大洗水族館に行こうと考えています」
「水族館デートなんてかわいいわね? 気を付けてね?」
「うん、明るい内には帰ってくる予定だから大丈夫よ」
「今夜はウチで夕食でもどうかね?」
「ありがとうございます。では新鮮な魚介をたくさん仕入れて参ります」
「じゃあ楽しみに待っているわね? 行ってらっしゃい」
そう言って両親は私たちを見送ってくれた。
この縁談は父も母も望んでいたものだった。顔も性格も良く、家柄も申し分ない。将来を嘱望された優秀な外科医の彼は医大ではそれなりの地位に昇ることは確実だろう。
同じ医者同士の家系でもあり、私の両親にとってもこれ以上の結婚相手はいないと思っているようだった。
だがその一方で私は恋愛の難しさも十分味わっていた。
どんなに好きで愛し合っていても「縁」がなければ結婚に到達することは出来ないということを。
所詮、結婚とは自分たちだけのものではなく、お互いの家同士の結び付きだということも。
私は遠距離恋愛の彼との破局でそれを学んだ。
ペンシルバニアで白人女と付き合っていたのか、彼はごく自然に助手席のドアを開け、私をエスコートしてくれた。
クルマが走り出すと動くワイパーがメトロノームのように見えた。雨がスウィープされて弾き飛ばされてゆく。
私はこんな雨のドライブデートも悪くはないと思った。
「雨の水族館なんてヘンですよね?」
「そうかしら? 私は好きですよ水族館。
動物園と水族館なら断然水族館です」
「僕もそうです。良かった、気に入ってもらえて。かと言って雨の日のディズニーというのも何だかね?
音楽、かけてもいいですか?」
「どうぞ」
「琴子さんはクラッシックじゃないとイヤですか?」
「そんなことはありませんよ、色々聴きます私も。
石川さゆりとか甲本ヒロトなんかも好きですしたまにカラオケで竹内まりやも歌います」
私は口に手を当て少し笑ってみせた。
私に対する「お堅い女」というイメージを払拭しておきたかったからだ。そうすることでこれからのお付き合いもお互いにラクになるはずだから。
「少し古いかもしれませんが大瀧詠一でもいいですか?」
「私も好きですよ。いいですよね? 大瀧詠一」
彼がカーコンポのスイッチを入れた。
私は大瀧詠一で良かったと思った。これでカーペンターズの『雨の日と月曜日は』などを聴かされた日には多分彼への愛は冷めてしまっていたかもしれない。
彼の運転するアルファロメオは間も無く雨の首都高に乗った。
「海音寺です。昨日は素敵なお花をありがとうございました。
私、あの薔薇が大好きなんです」
「それは良かった。琴子さんに似合う花だと思ってあの薔薇にしました。琴子さん同様、一目惚れです。
その『マリア・カラス』という名前も気に入りました。
舞台で朗々と歌う琴子さんを見ていると、プリマドンナ、マリア・カラスを見ているようでした。
いや、それ以上かもしれない。実は僕、初めてだったんですよ、生でオペラを観るのは。
オペラがあんなに素晴らしいものだとは知りませんでした。
また是非、琴子さんの歌が聴きたいです」
「ありがとうございます。私、歌う事が大好きなんです。歌が恋人で私の子供たちなんです」
「歌が恋人かあ。僕もなりたいなあ、琴子さんの恋人に」
うれしかった。私と私の歌を好きだというこの人が。
それはつまり海音寺琴子という私自身と、声楽家、海音寺琴子のふたりを同時に愛してくれているということだったからだ。
それは私たちふたりが「似て非なるもの」として、同じ肉体の中に共存していることを意味する。
歌っている時の私は琴子を離れ、その歌の主人公そのものが私に憑依する。
「またデートしませんか? 今度の土曜日の夜はどうです? その日は病院の当直も無いので」
「土曜日はレッスンと夜、打ち合わせがあるので日曜日の昼なら空いていますけど、輝信さんのご都合はいかがですか?」
「大丈夫です。では日曜日の昼10時にご自宅にお迎えに上がります」
「わざわざすみません。でも私、かなりの食アレルギーなので外食は限られてしまいますけど構いませんか?」
「ご心配なく。僕、料理するのが好きなんですよ。BLTサンドとかなら食べられますか?」
「だったら私がお弁当を作りますよ。お料理は好きなので。でも味は保証出来ませんけどね? うふっ」
私は密かに彼に料理の腕を自慢するつもりだった。
「ありがとうございます。でも、僕に作らせて欲しいんです。そしてもし琴子さんに僕のBLTサンドを「美味しい」と褒めてもらえたら、その時は結婚を前提に正式にお付き合いをしていただきたい。それでどうでしょうか? 駄目ですか?」
「木村さんって面白い人ね? 私、結構味にはうるさいのよ。食べられる物が限られている分、舌が鋭敏なんです。ではお言葉に甘えてお弁当、お願いしちゃおうかしら?」
「はい! 喜んで!」
その時、すでに私の判定は決まっていた。「凄く美味しいです!」と。
日曜日は生憎の雨だった。彼は予定の時間より少し早く家に迎えに来てくれた。
私は服装を整え、ギリギリまで入念にお化粧をした。
下着はもしもの時に備え、清楚な物を身に着けた。
いつも時間には正確な輝信だった。
医者としての誠実で几帳面な性格が伺える。
シルバーのアルファロメオ。いかにも彼らしいクルマだと思った。
父と母も輝信を温かく迎えてくれた。
「輝信君、今日は少し天気が悪いようだが運転にはくれぐれも慎重にな? 琴子のこと、よろしくお願いします」
「はい、安全運転で行ってまいりますのでご安心下さい。
きちんと法定速度は遵守いたしますので」
「あはは、今日はどちらへ?」
母も上機嫌だった。音楽家としてはそれなりのポジションを得ていた私ではあったが、両親からすれば適齢期を過ぎた娘の結婚は最重要案件だった。
「はい、茨木の大洗水族館に行こうと考えています」
「水族館デートなんてかわいいわね? 気を付けてね?」
「うん、明るい内には帰ってくる予定だから大丈夫よ」
「今夜はウチで夕食でもどうかね?」
「ありがとうございます。では新鮮な魚介をたくさん仕入れて参ります」
「じゃあ楽しみに待っているわね? 行ってらっしゃい」
そう言って両親は私たちを見送ってくれた。
この縁談は父も母も望んでいたものだった。顔も性格も良く、家柄も申し分ない。将来を嘱望された優秀な外科医の彼は医大ではそれなりの地位に昇ることは確実だろう。
同じ医者同士の家系でもあり、私の両親にとってもこれ以上の結婚相手はいないと思っているようだった。
だがその一方で私は恋愛の難しさも十分味わっていた。
どんなに好きで愛し合っていても「縁」がなければ結婚に到達することは出来ないということを。
所詮、結婚とは自分たちだけのものではなく、お互いの家同士の結び付きだということも。
私は遠距離恋愛の彼との破局でそれを学んだ。
ペンシルバニアで白人女と付き合っていたのか、彼はごく自然に助手席のドアを開け、私をエスコートしてくれた。
クルマが走り出すと動くワイパーがメトロノームのように見えた。雨がスウィープされて弾き飛ばされてゆく。
私はこんな雨のドライブデートも悪くはないと思った。
「雨の水族館なんてヘンですよね?」
「そうかしら? 私は好きですよ水族館。
動物園と水族館なら断然水族館です」
「僕もそうです。良かった、気に入ってもらえて。かと言って雨の日のディズニーというのも何だかね?
音楽、かけてもいいですか?」
「どうぞ」
「琴子さんはクラッシックじゃないとイヤですか?」
「そんなことはありませんよ、色々聴きます私も。
石川さゆりとか甲本ヒロトなんかも好きですしたまにカラオケで竹内まりやも歌います」
私は口に手を当て少し笑ってみせた。
私に対する「お堅い女」というイメージを払拭しておきたかったからだ。そうすることでこれからのお付き合いもお互いにラクになるはずだから。
「少し古いかもしれませんが大瀧詠一でもいいですか?」
「私も好きですよ。いいですよね? 大瀧詠一」
彼がカーコンポのスイッチを入れた。
私は大瀧詠一で良かったと思った。これでカーペンターズの『雨の日と月曜日は』などを聴かされた日には多分彼への愛は冷めてしまっていたかもしれない。
彼の運転するアルファロメオは間も無く雨の首都高に乗った。
1
あなたにおすすめの小説
★【完結】アネモネ(作品230605)
菊池昭仁
現代文学
ある裁判官の苦悩とその家族の生き様に迫る。同じ人間が同じ人間を裁く矛盾。
人は神ではない。人を裁けるのは神だけだ。
人間の本当のしあわせとは? 罪とは? 贖罪とは?
★【完結】ダブルファミリー(作品230717)
菊池昭仁
現代文学
結婚とは生涯1人の女を愛し、ひとつの家族を大切にすることが人としてのあるべき姿なのだろうか?
手を差し伸べてはいけないのか? 好きになっては、愛してはいけないのか?
結婚と恋愛。恋愛と形骸化した結婚生活。
結婚している者が配偶者以外の人間を愛することを倫理に非ず、不倫という。
男女の恋愛の意義、本質に迫る。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる