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第一楽章

第3話 恋のプレリュード

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 彼に花束のお礼の電話をした。

 「海音寺です。昨日は素敵なお花をありがとうございました。
 私、あの薔薇が大好きなんです!」
 「それは良かった。琴子さんに似合う花だと思ってそれにしました。琴子さん同様、一目惚れです。
 その『マリア・カラス』という名前も気に入りました。
 舞台で朗々と歌う琴子さんを見ていると、プリマドンナ、マリア・カラスを見ているようでした。
 いや、それ以上かもしれない。
 実は僕、初めてだったんですよ、生でオペラを観るのが。
 オペラがあんなに素晴らしいものだとは思いませんでした。
 是非、また琴子さんの歌が聴きたいです」
 「ありがとうございます。私、歌う事が大好きなんです。歌が恋人であり、私の子供たちなんです」
 「歌が恋人かあ。僕もなりたいなあ、琴子さんの恋人に」

 うれしかった。私と私の歌を好きだというこの人が。
 それはつまり海音寺琴子という私自身と、声楽家、海音寺琴子のふたりを同時に愛してくれているということだった。
 それは私たちふたりが「似て非なるもの」として、同じ肉体の中に共存していることを意味する。
 歌っている時の私は琴子を離れ、その歌の主人公そのものが私に憑依していた。
 
 「またデートしませんか? 土曜日の夜はどうです? その日は病院の当直も無いので」
 「土曜日はレッスンと夜、打ち合わせがあるので日曜日の昼なら空いていますけど、輝信さんのご都合はいかがですか?」
 「わかりました。大丈夫です。では日曜日の昼10時にご自宅にお迎えに上がります」
 「わざわざすみません。でも私、ご存知の通りかなりの食アレルギーなので、また外食は限られてしまいますけど構いませんか?」
 「ご心配なく。僕、料理するのは好きなんですよ。BLTサンドとかなら食べられますか?」
 「食べられますけど、だったら私がお弁当を作りますよ。お料理は私も好きなので。でも味は保証出来ませんけどね? うふっ」

 私は密かに料理の腕を自慢するつもりだった。

 「ありがとうございます。でも、僕に作らせて欲しいんです。そしてもし、琴子さんに僕のBLTサンドを「美味しい」と褒めてもらえたら、その時は結婚を前提に正式にお付き合いをしていただきたいんです。それでどうでしょう? 駄目ですか?」
 「木村さんって面白い人ね? 私、結構味にはうるさいのよ。食べられる物が限られている分、舌が鋭敏なんです。では折角なのでお言葉に甘えて、お弁当、お願いしちゃおうかしら?」
 「はい! よろこんで!」

 その時、すでに私の判定は決まっていた。「凄く美味しいです!」に。



 日曜日は生憎の雨だった。
 彼は予定の時間より、少し早く家に迎えに来てくれた。
 私は服装を整え、ギリギリまで入念にお化粧をした。
 下着は「もしもの時」に備え、清楚な物を身に着けた。
 いつも時間には正確な輝信だった。
 医者としての誠実で几帳面な性格が伺える。

 シルバーのアルファロメオ。
 いかにも彼らしいクルマだと思った。
 父と母も輝信を温かく迎えてくれた。

 「輝信君、今日は少し天気が悪いようだが運転にはくれぐれも慎重にな。琴子のこと、よろしくお願いします」
 「はい、安全運転で行ってまいりますのでご安心下さい。
 きちんと法定速度は遵守いたしますので」
 「あはは、今日はどちらへ?」

 母も上機嫌だった。音楽家としてはそれなりのポジションを得ていた私ではあったが、両親からすれば適齢期を過ぎた娘の結婚は、最重要案件だったからだ。

 「はい、茨木の大洗水族館に行こうと考えています」
 「水族館デートなんてかわいいわね? 気を付けてね?」
 「うん、明るい内には帰ってくる予定だから大丈夫」
 「今夜はウチで夕食でもどうかね?」
 「ありがとうございます。では新鮮な魚介をたくさん仕入れて参ります」
 「じゃあ楽しみに待っているわね? 行ってらっしゃい」

 そう言って両親は私たちを見送ってくれた。

 この縁談は父も母も望んでいたものだった。
 顔も性格も良く、家柄も申し分はない。将来を嘱望された優秀な外科医の彼は、医大ではそれなりの地位に昇ることは確実だろう。
 同じ医者同士の家系でもあり、私の両親にとっても、これ以上の結婚相手はいない。
 だがその一方で、私は恋愛の難しさも十分味わった。
 どんなに好きで愛し合っていても、「縁」がなければ結婚には到達することは出来ないということを。
 そして所詮、結婚とは自分たちだけのものではなく、お互いの家同士の結び付きだということも。
 私は遠距離恋愛の彼との破局でそれを学んだ。


 ペンシルバニアでは白人女と付き合っていたのか、彼はごく自然に助手席のドアを開け、私をエスコートしてくれた。

 クルマが走り出すと、動くワイパーがメトロノームのように見えた。雨がスウィープされて弾き飛ばされてゆく。
 私はこんな雨のドライブデートも悪くはないと思った。


 「雨の水族館なんてヘンですよね?」
 「そうかしら? 私は好きですよ。水族館。
 動物園と水族館なら断然水族館です」
 「僕もです。良かった、気に入ってもらえて。かと言って雨の日のディズニーというのも何だかね?
 音楽、かけてもいいですか?」
 「どうぞ」
 「琴子さんはクラッシックじゃないとイヤですか?」
 「そんなことはありませんよ、いろいろ聴きます、私も。
 石川さゆりとか甲本ヒロトも好きですし、何でも聴きます。たまにカラオケで竹内まりやも歌いますよ」

 私は口に手を当て、少し笑ってみせた。
 私に対する「お堅い女」というイメージを払拭しておきたかったからだ。そうすることでこれからのお付き合いも、お互いにラクになるはずだから。

 「少し古いかもしれませんが、大瀧詠一でもいいですか?」
 「私も好きです、いいですよね? 大瀧詠一」

 彼がカーコンポのスイッチを入れた。
 私は大瀧詠一で良かったと思った。
 これでカーペンターズの『雨の日と月曜日は』などを聴かされた日には、たぶん彼への愛は冷めてしまっていたかもしれない。

 彼の運転するアルファロメオは、間も無く雨の首都高に乗った。
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