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第三楽章

第6話 燃えるシャンゼリゼ通り

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 「ホテルまで送ってあげるよ」
 「ねえ、シャンゼリゼをコンコルド広場までお散歩しない?」

 私はお酒を飲んでかなりいい気分だった。

 「歩けるのか? そんなに飲んで」
 「これくらいへっちゃらよ。なめないでちょうだい。これでも私、毎日筋トレしているんだから。腕立て伏せにスクワット、それに腹筋を3セット。日本にいる時はいつも5㎞のランニングは欠かさなかったのよ。パリではひとりでジョギングするのは危険だからしないけど、その代わりホテルのランニング・マシーンで1時間は走っているのよ」

 それは声楽家としての毎日の日課だった。
 歌うことは自分自身が楽器になることだから、自分のコンディションは常に維持していなければならない。

 銀河はギャルソンにチャックを求めた。

 「いくら?」
 「いいよ、女に払わせるほど、まだ俺は落ちぶれちゃいない」
 
 そう言うと、彼はキアヌに少し多めにチップを渡した。

 「ありがとうシルバー、マドモワゼル、素敵な夜を」
 「また明日も来るからよろしくな」
 「もちろん! このテーブル席を開けて待っているよ」
 
 するとコックコートを着た大男が私たちところにやって来た。

 「やあシルバー、この別嬪さんは君の恋人かい?」
 「彼女はPrima donnaだよ。ただのAmi(友人)だ。日本では凄く有名なオペラ歌手なんだぜ」
 「それは素晴らしい! オペラ座に歌いに来たのか?」
 「今回はバカンスなんだ」
 「シェフ、とても美味しかったわ。琴子といいます」
 「ありがとう琴子。俺はジャンだ。よろしく」

 ジャンは胸に片手をやり、私に礼を尽くしてくれた。

 「上手くやれよ、シルバー。
 恋もみんな最初は「友だち」から始まるもんだ。
 ところでどうだった? 今日の俺の作品は?」
 「完璧だったよ。今度フランスの大統領に会ったら言っておくよ。「この小さな路地裏に素晴らしい芸術家のオーナー・シェフがいる」とね?」
 「俺もみんなに自慢するよ。今日、ウチの店にDivaがやって来たとね?」
 「ありがとう、ジャン。また来るわね?」
 「お待ちしていますよ、Diva,琴子」



 ビストロを出ると外は日も暮れ、かなり冷え込んでいた。
 私はホテルに手袋を忘れて来たことを後悔した。


 「さっきはありがとう。ご馳走になっちゃって」
 「安いもんだよ、ハープちゃんとの食事なんてたかが知れている」

 彼は自分の皮手袋を脱ぐと、それを私に差し出した。


 「俺ので悪いけど、その美しい手が凍るよりはマシだろう?」
 「大丈夫、こうすればいいから」

 私は片方の手をコートに入れ、もう片方の手を彼と繋ぎ、その繋いだ手を彼のコートのポケットの中に入れた。
 銀河のゴツゴツとした温かい手の温もり。
 私は男性の手の感触をここ数年、すっかり忘れていた。
 私は少し酔ったフリをして、彼に寄り添って歩いた。

 横断歩道を渡った時、彼は車道側を歩く私と入れ替わってくれた。
 私はその時やっと気付いた。
 彼は私をクルマから守るため車道側を歩いてくれていることに。

 「車道側を歩いてくれているのね?」
 「パリのドライバーも人も、交通ルールなんて守らないからな? パリの人間は個人主義なんかじゃない、ただのエゴイストだからな?」

 彼は当然だと言わんばかりに私を見ずに笑っていた。

 (私は銀河に守られている)

 泣きそうになった。
 私は銀河と繋いだ彼のポケットの中の手に力を込めた。
 そして彼もまた、私の手を握り返してくれた。
 私はしあわせだった。


 そしてシャンゼリゼ通りに出た瞬間、私は涙が止まらなくなってしまった。

 青白く輝く夥しいイルミネーション。まるでシャンゼリゼの街路樹が燃えているようだった。
 コンコルド広場に向かって続く「光の街道」。
 私は思い出した。これがパリの美しさだ。

 「すごくキレイ・・・」

 私は立ち止まり、溜息を吐いた。
 吐く息が白い。
 私たちは再びコンコルド広場に向かって歩き始めた。


 「いつ見てもシャンゼリゼは美しい。コンコルド広場へ向かうクルマの赤いテールランプはルビーの首飾りのようで、こちらに向かって来るヘッドライトは真珠のネックレスのようだ」
 「あなたは詩人なのね?」
 「そうかい? ありがとうハープ」

 銀河は私のことを「ちゃん」を外して呼び捨てにしてくれた。
 だから私も銀河のことを「ちゃん」を抜いて呼び捨てにすることにした。恋人同士のように。

 「銀、疲れたからおんぶして」
 「我儘なお嬢さんだ」
 
 彼は少し照れながら、私の前に屈んで背中を向けた。

 「ほら早く乗れよ。王女様」

 私は彼におんぶしてもらった。
 銀河が立ち上がって歩き始めると、小柄だが背中がとても広く感じた。
 私は銀河の背中に頬を乗せた。

 「軽いでしょ? 私」
 「まるでお地蔵さんを運んでいるみたいだ」
 「失礼ね、うふっ」

 彼のカシミアのコートから防虫剤の香りがした。
 心地良い男の背中。

 「ファンデーション、コートに付けちゃった」 
 「しょうがねえなあ、クリーニング代、出せよ」
 「うん、わかった。じゃあもっと付けちゃおうっと」

 私は彼の背中に頬擦りをして甘えた。
 男性におんぶをしてもらったのは、子供の時、父親にしてもらって以来のことだった。

 「もういいわ。降ろしてちょうだい」

 私は彼の背中から降りた。

 「ホテルまで送って」
 「いいのかい? コンコルド広場には行かなくても?」
 「あの血生臭いフランス革命でギロチンの露と消えたアントワネットたちの亡霊を見てもしょうがないわ」

 私は嫌な女を演じた。
 彼はタクシーを停め、私をホテルまで送ってくれた。
 


 「ねえ、私のお部屋で一緒に呑まない?」

 私は彼を誘った。もちろん朝を銀河と一緒に迎えるために。
 だが、彼の返事は意外なほと素っ気ない物だった。


 「ハープも疲れただろう? 今夜はゆっくりとバスタブに浸かって眠るといい」
 「じゃあ携帯番号を教えて」
 「明日の朝9時、ここへ迎えに来るよ。そしてまた、ルーブルからスタートしよう」

 彼は携帯番号を教えてはくれなかった。

 (フラれたの? 私)

 「わかったわ。明日9時ね?」
 「そうだ」
 「じゃあ待ってる。ねえ、おやすみのキスして」

 自分からキスをせがむなんて自分でも信じられなかった。

 (酔ったから? それとも彼を好きになった? あるいはその両方?)

 すると銀河は私に顔を近づけると唇にではなく、私の頬に頬を寄せ、エア・キスをした。
 
 (私に魅力がないの?)

 私は酷く落胆した。

 「おやすみ、ハープ。また明日」
 「おやすみなさい、銀」

 私は銀河の後ろ姿を見送った。
 その彼の背中には、今すぐにでも抱き付きたいくらいの哀愁に満ちていた。

 (なんて悲しい後姿なの?)



 私は部屋に戻り、バスタブに湯を張り身体を沈めた。
 
 「銀のばか。もっと一緒にいたかったのに」

 
 私はベッドに入ると、久しぶりに自分を慰めた。
 
 (早く銀河に会いたい)

 私はそのまま深い眠りに落ちて行った。 
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