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第三楽章

第7話 巴里の吟遊詩人

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 早起きをしてシャワーを浴び、入念に服を選んだ。
 下着は清楚な白にした。
 私は約束の時間ギリギリまでメイクをし、ヘアスタイルを整えた。
 気持ちはすっかりデート・モードだった。

 
 待ち合わせの時間ピッタリにロビーに降りて行くと、彼はソファに座り新聞を読んでいた。

 「おはよう! お待たせ」

 私は元気に銀河に挨拶をした。彼は新聞から顔を上げると私を真っすぐに見詰めて言った。

 「おはよう、ぐっすり眠れたかい?」
 「おかげさまで目覚めスッキリよ」

 今日も冷えると思い、私は厚手のタイツにロングスカート、ニットのセーターにダウンコートを着て首にはアンゴラの白い襟巻をした。手袋は用意して来たが、コートのポケットに忍ばせておいた。
 夕べと同じように銀河と手を繋ぎたかったからだ。


 彼が私に一冊の薄い文庫本を渡した。

 (『ランボー詩集』?)

 「これ、あげるよ。アルチュール・ランボーの詩集だ。知っているかい?」
 「聞いた事はあるけど、読んだことはないなあ。
 読んでみるね? ありがとう」
 「彼は15才から20才までの5年間に、沢山の素晴らしい詩を残したんだ。その後は詩を書くことを辞め、砂漠などへも旅をするBohemian(放浪者)となった。
 ランボーは凄まじい炎の詩人だ。
 本当はフランス語で読んだ方がいいんだけれど、これは金子光晴の日本語訳の物だ。
 やはり詩はその詩人の母国語で味わうべきだと俺は思う。
 例えばLove。Loveはただの「愛」ではない。Loveなんだよ。
 それは日本人の「愛」に対する概念とは異なるものだ。
 I love youは「私はあなたを愛しています」でも、ましてや「月がキレイですね?」でもない。
 言葉は文化で言霊なんだ。
 文字のひとつひとつが組み合わされて言霊になる。
 言葉には人を動かすチカラがある。

   「亡国の民、言葉忘れじ」

 国が滅んでも言葉は残る。
 詩人は言葉の魔法使いなんだ。日本人が語学に弱いのは、耳や口や声帯の構造が日本語の発音には適しているが、アルファベットを組み合わせて作る「表音文字」には向かない。欧米人の聴覚能力は日本人よりも優れているらしい。
 日本人が聴き取れない周波数帯があると言われている。
 文法はネイティブよりも日本人の方が優れているのに、外国語で会話が出来ないのは何でも日本語に訳そうとするからだ。
 umbrellaを傘と日本語に訳してから頭にイメージする。それでは彼らの会話のスピードには到底ついては行けない。
 umbrellaのままイメージすればいいのだ。訳す必要などないんだから。
 英語で話す時は英語で考え、フランス語の時はフランス語で考える。
 それは他の言語でも同じだ。
 Billy Joelの唄う『Honesty』は「誠実」ではない、あくまで「Honesty」なんだ。
 ゴメン、朝からいい気になって面倒なことをしゃべってしまった」

 私は彼から貰った詩集をバッグに入れた。


 「朝ごはんは食べたのか?」
 「私は朝はエスプレッソだけなの。銀は食べたの?」
 「俺もまだなんだ。じゃあ昨日のカフェで「飲み物の朝食」にしようか? 俺も朝は食べないんだ。君と同じで「飲むだけ」だ」
 「また朝からお酒?」
 「もう秋だからね?」

 銀河と私は笑った。
 不思議だった。もし自分の大切な人がお酒ばかりを飲んでいたら、

 「カラダを壊すわよ!」

 と、私はお酒を取り上げてしまうだろう。
 でも銀河にはその気持ちが起きないのは何故だろう?
 いや、正確には彼の取る行動に対して「口を挟む気にはなれなかった」と言うのが正しい。お酒がないと彼が死んでしまいそうな気がした。
 
    滅びゆく美しさ? 

 私は解決出来ない矛盾を抱えていた。



 昨日のカフェで私はエスプレッソとアプリコットの入ったクッキーを注文し、銀河も昨日と同じようにジン・ライムをオーダーした。

 私がかわいらしくリスのようにクッキーを齧っていると、日本人の観光客らしき女性がふたりでやって来て、突然銀河に話し掛けた。

 「詩人の森田人生さんですよね? ファンです! 握手してもらってもいいですか?」

 (詩人? 銀河が? 何、森田人生って?)

 銀河はその女性たちと気軽に握手を交わした。
 彼女たちはとてもうれしそうにはしゃいでいた。

 「いつからパリに?」
 「昨日からです! それまではロンドンでした!
 ロンドンとパリの二都市巡りのツアーなんです!
 すみません、サインもいただけませんか?」
 「いいですよ」
 
 一人の女性は可愛らしいピンクの手帳を出し、そしてもう一人の女性はバッグから文庫本を取り出すと、中表紙を開いてペンを銀河に差し出した。それは森田人生の詩集『湖の貴婦人』の文庫本だった。

 「ごめんなさい、失礼ですけどこれにお願い出来ますか?」
 「構いませんよ。お名前は?」
 「板倉真紀です!」
 「水橋麻衣、です」
 「どんな漢字ですか?」
 「板に倉庫の倉で板倉。真紀は真実の真に紀州みかんの紀です!」
 「私は水の橋に麻に衣で水橋麻衣です」
 「わかりました」
 
 銀河は慣れた手付きで彼女たちの名前を入れてそれぞれにサインをして渡した。

 「感激です! 森田先生とパリで会えるなんて! 本当にありがとうございました! すみません、奥様とご一緒のところをお邪魔してしまって。奥様、ごめんなさい、大変失礼しました」
 「奥さんすごく美人!」

 彼女たちは私にまで頭を下げた。

 (奥様? 美人?)

 私は何も言わず、ただ笑顔で軽く会釈をした。

 それだけ言うと、ふたりは嬉しそうに店を出て行った。
 どうやら私は銀河の奥さんに間違えられたようだった。
 それが少しうれしくもあった。


 「銀ってあの「幻の吟遊詩人」、森田人生なの?」
 「昔のことだ。今はただのアル中だよ。朝からこうして酒浸りのダメな人間だ」

 彼はジンライムのグラスを持ち上げ、寂しそうに笑った。

 名前は聞いた事はあるが、彼の詩は読んだことはなかった。
 私の頭の中は常に音楽で一杯だったから文学に対する知識も興味もなかった。
 どちらかと言えば男性思考の私は、女性が喜びそうな一進一退のまどろっこしい恋愛小説や、「歯の浮くような詩」が苦手だった。

 (銀河は詩人だったのね?)

 「なんでもっと早く教えてくれなかったのよー。詩人の「森田人生」だって」
 「いきなり「俺は詩人だ」なんて言ったら、精神異常者かペテン師だと思われるだろう?」
 「それもそうだけど、でも今なら信じられるわよ。銀河が詩人の森田人生だと言っても」
 「それに俺はもう詩人じゃない、詩を書けなくなってしまったただの飲んだくれだ」
 「夕べ、銀がおんぶしてくれた時に感じたのよ、「温かい人だなあ」って」
 「歌姫をおんぶする吟遊詩人か?」

 私たちは笑った。

 「それじゃあ今日もルーブルから始めようか?」
 「今日は別なところに連れて行って欲しい」
 「別なって、どんなところに行きたいんだ?」
 「愛を語り合えるような静かな場所」
 「愛を語る? 誰と?」
 「銀とに決まってるでしょう。そこまで言わすなバカ」
 「じゃあついておいで」

 (どこに連れて行ってくれるの銀河?
 あなたの家? それとも私のホテル?
 銀のお家が見てみたい)

 私の胸はときめいた。
 だが、その妄想は見事に打ち砕かれた。

 「カルチェ・ラタンはどうだい?」
 「あの学生街の?」
 「サンジェルマンを一緒に散歩しないか?」
 「いいけど・・・」

 少しがっかりした。

 「折角だから今日はメトロで行こうか?」
 「うん」

 私と銀河は近くのメトロの駅に向かって歩き出した。
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