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第三楽章

第20話 ドーヴァーの白い壁

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 クルマはフランスの田舎道を走っていた。
 広大な牧草地や葡萄畑、点在するシャトー。

 (悟に会える)

 悟がお爺さんになっても私は気にしないが、彼はどうだろう?
 若く見えるとはいえ、もうあの頃の私ではない。
 琴子たちには恋人ではないと言ったが、私と悟はパリで同棲していたのだ。
 女としての悦びに目覚めたのは悟がそうさせた。
 ピアノと彼の絵と小さなテーブル、そしてベッドがあるだけの小さな部屋。
 だがそこには沢山の愛と悦びが詰まっていた。
 私は今、過去に向かって走っているのだろうか? それとも未来へ?


 「だから俺は彼女に言ってやったんだ、「パンとワインとチーズは買った、あとは花だけだ」ってな? そしたら彼女「お花はいらないでしょう?」って言うんだよ。「花がなきゃ食卓にならねえだろう?」って言うと彼女は言った。「お花ならここにあるでしょう? 私と言うお花が」って俺にキスしてくれたんだ。その日から俺は彼女と一緒に暮らしている」
 「結婚するの?」
 「わからない。するかもしれないし、しないかもしれない」
 「彼女さん、可哀そう。赤ちゃんとかはどうするの?」
 「欲しくなったら作ればいい。もちろん俺たちで育てるよ」
 「結婚もしないで? 子供はどうなるの?」
 「逆になんで日本人はそんなに結婚に拘るんだい? 結婚なんてただの契約だろう? それに愛が永遠かどうかなんてわかりはしねえよ。愛することはお互いに自由だろう?」
 「フランス人にはそういう考えが多いんだよ」


 この詩人はさっきのトイレ休憩に寄った店で買った、ポケットウイスキーを飲んでいた。
 私は娘が不憫に思えて、つい彼に問い質してしまった。

 「先生は娘と結婚するんでしょう?」
 
 琴子は聞こえないふりをしていたが、固唾を飲んで彼の返事を待っていた。
 彼の答えは意外なものだった。

 「こんな飲んだくれの詩も書けなくなった森田人生と、娘さんは結婚してくれるとは思えませんけどね?」

 そう言って彼はまた酒を呷った。

 「琴子はどうなの? 先生と結婚したいわよね?」
 
 娘は少し考えてから、慎重に言葉を選んで言った。

 「私は別にこのままでもいいよ。中古車だし」
 「琴子、俺も中古車だよ」
 「そうだった! 私たちって傷だらけのポンコツだもんね? あはははは」

 ミッシェルがいたので、私たちはフランス語で話しをした。
 気まずい雰囲気を察してくれた彼は、音楽を掛けてくれた。
 ミッシェル・ポルナレフ、『愛の休日』
 粋な男だと思った。そう、娘たちには「愛の休日」が必要だったのだ。お互いに本当の自分を見つめ直す時間が。

 「なつかしいわね? ポルナレフなんて。若い頃よく聴いたわ」
 「久子はそんな歳には見えねえけどな? でもいいだろう? ポルナレフは。俺と同じミッシェルだしね? あはははは」

 

 いつの間にか景色は、田園地帯からハーフティンバーの家々が並ぶ田舎町に変わって行った。
 悟の住む街、Dieppeに近づいているようだった。



 「この辺りなんだけどなあ」
 「電話してみるわね? あっ、もしもし悟? 近くまで来たんだけど」
 「ちょっと待ってて、今、通りに出るから」

 すると背の高い男が建物から出て来た。
 長い髪、それは遠くからでも分かる見覚えのある姿、悟だった。
 高鳴る心臓と不安。
 彼はあまり変わってはいないようだったが、少し会うのが怖い気がした。
 私はバッグからすぐにコンパクトを取り出し、髪型を指で整えた。


 パッシングをしたミッシェルに気付いた悟は、大きく手を振って私たちのクルマに駆け寄って来た。
 後部座席の私を微笑んで覗き込む悟。
 私は窓を開けた。

 「パリから大変だったね? さあみなさん、あの建物が私の家であり、アトリエです」

 懐かしさに泣きそうになった。白髪も目立ってはいるが、綺麗な瞳はあの時のままだった。
 だが、新たな不安が私の脳裏をかすめた。

 (こんな素敵な画家の彼がひとりでいるわけがない。
 家に行くとフランス人の若くて美人な奥さんがいるかもしれない)


 私たちは家の前の石畳にクルマを停め、悟の後に続いた。
 
 「ようこそ我が家へ」

 広いサロンには暖炉が赤々と燃え、テーブルにはたくさんのお料理とワインが並んでいた。

 「さあみなさん! 適当に座って下さい! まずは乾杯をしましょう! グラスをお手にどうぞ!
 ドライバーさんは何がいいですか?」
 「俺はミネラルウォーターでいいよ、Monsieur」
 「悪いね? みんなで泊まってくれてもいいんだよ」
 「残念だけど、明日は大統領とエリゼ宮で晩餐会なんだ。シルバーたちは泊めてもらえよ、後で迎えに来てやるから」
 「それは失礼。ではみなさん、取り敢えず乾杯を!」
 「Cin,Cin!(乾杯)」


 私たちの会話はフランス語と日本語のチャンポンだった。
 だが、私はフランス語の単語が出て来ない。

 「驚いたよ久子! 君はあの頃のままだ!」
 「ありがとう悟、お世辞でもうれしいわ。
 あなたも素敵なダンディになったわね?」
 「ありがとう。さあみんな食べて飲んでくれ。味は保証するよ。なにしろ僕はずっとひとりで料理をしているだからね? 何十年も自分のためにね?」

 そう言って悟はフランス人のようにウインクしてみせた。

 「美味しそう! いただきまーす!」

 そう言って琴子は野菜だけを口にした。

 「このお二人が久子の娘さんの琴子さんで、そしてあなたがあの詩人、森田人生さんですね? 先生の詩集、『魂の叫び』は僕も持っています。後でサインして下さい」
 「もう詩人ではありませんけどね? ただのアル中です」

 そう言って詩人は自嘲した。

 「初めまして、母の自慢の娘、海音寺琴子です。うふっ。よろしくね? 悟おじ様」
 「プリマドンナだそうですね? 是非今度、パリのオペラ座で歌って欲しい。オペラ座を薔薇の花、『マリア・カラス』で埋め尽くして差し上げますよ」
 「わあ楽しみ!」
 「ではジャガイモのポタージュを温めて来ますのでどうぞごゆっくり」

 私はホッとしていた。
 部屋には女がいる形跡は見当たらなかったし、そんなウソを吐くような悟ではないからだ。


 彼の取り分けてくれたポタージュに私たちは舌を巻いた。
 ミッシェルが叫んだ。

 「パリの『ル・トラン・ブルー』より美味いよ!」
 「褒め過ぎだよミッシェル君、僕はただの絵描きなんだから」

 画家としての彼の感性が、よく料理に反映されていた。
 彼の作った料理が五感を刺激する。

 「昔からお料理は得意だったわよね?」
 「高い食材は買えなかったからね? すべて画材に消えてしまったよ」

 私はその時、詩人の手が微かに震えているのに気付いた。



 食事を終えると、琴子が気を利かせてくれた。

 「私たちがいると昔の甘い思い出話も出来ないでしょうから、私たちは街をドライブして来るわね? じゃあママ、おじ様、ごゆっくり。2時間は戻っては来ませんから安心して下さい」
 「馬鹿ね? ラブホテルのお休憩じゃあるまいし。気をつけて行くのよ?」
 「はーい。悟おじ様、ママをよろしくお願いしまーす!」

 そう言って琴子たちは街へと出て行った。
 少し照れ臭かった。それは悟も同じだったようだ。


 「結婚しなかったの? あれから一度も?」
 「昔、惚れた女がいてね? 今でもその女を待っているんだ。
 俺の「永遠の片想い」だけどね?
 だってその女は「人の妻」になってしまったから」
 「人妻なんて、私は「物」じゃないわ」
 
 その時私は悟から突然抱き締められた。
 全身から力が抜け、溶けてしまいそうだった。

 「今でも久子が好きだ。すっと久子を待っていたんだ。そしてやっと夢が叶った。もう一生会えないと思っていた久子に逢えたんだ!」

 私はすぐに返事をすることが出来なかった。
 その代わり、悟にキスをした。

 「私を悟のお嫁さんにしてくれる?」
 「僕はいつまでも久子を待っているよ」
 「ここで悟と一緒に暮らしたい。昔のように」
 「ああ、いつでもおいで、待っているから」
 「じゃあ、今夜からそうさせてもらうわね?」
 「ホントかい! 日本に帰らなくてもいいのかい? ご主人はどうするの?」
 「どうしようかしらね? ふふっ。でも夫は喜んで祝福してくれる筈よ。私たちには最初から「愛」が無かったから。
 私、相変わらず寝相は悪いけど大丈夫かしら?」
 「僕も鼾を掻くよ、昔のようにね?」

 私たちは自然に口づけを交わした。古いフランス映画のように。
 それは忘れていた初恋のキスの味がした。

 
 (面倒なことは後でゆっくりと考えればいい)


 私のルーブルのニケにした願いは叶った。
 

   (彼がまだ、私を愛してくれていますように)

 
 悟はまだ私を愛してくれていた。このオバサンになった私を。

 私は悟とこのDieppeで暮らすことを決めた。
 同時に私は愛のない今の暮らしを捨てた。
 もう何もいらない、悟さえいればそれで。




 「母があんな乙女のような顔をするなんて驚いちゃった。
 あんなしあわせそうな顔を見たのは私が音大に合格した時と、私が初舞台を踏んだ時だけよ。
 父には愛人がいてね、母はそれからあまり笑わなくなってしまったの」
 「フランスじゃあ、めずらしいことじゃねえけどな?
 結婚と恋愛は別だろう?」
 「そんなのイヤ! 恋愛と結婚は一緒であるべきよ、ミッシェル」

 (琴子、俺が君と結婚しないのは、お前をバツ2にしたくないからだよ)

 「仏英海峡でも観に行くか?」
 「DoverのWhite・Cliffかあ。いいなあ、あの風」
 「シルバー、また詩が浮かぶかもな?」
 「そうだな?」

 俺たちは岬へと向かった。

 
 岬は夕暮れにオレンジ色に染まっていた。
 海からの風に俺たちは晒され、沖を通る沢山の船が見える

 ミッシェルが気を利かせてくれた。

 「俺はクルマで待っているよ。寒くなって来たからな?
 あー、寒い寒い」


 俺たちはミッシェルの後姿を確認すると、抱き合い熱いキスをした。

 「キスだけ?」
 「あとはパリに戻ったらな?」
 「今夜は寝かせてあげないかもよ?」
 「今日は1回も出来ないかもな?」

 俺は潮風に邪魔されながら、オイルライターで煙草に火を点けた。最高に旨い一服だった。

 「大丈夫、私が出来るようにしてあげるから」

 今日はかなり飲んだ。
 飲んだが酔えない気分だった。




 琴子たちが戻って来た。

 「どうだった? ディエッペの街は?」

 悟が自分の娘に話し掛ける様に琴子に訊ねた。

 「中世の香りのする素敵な街ですね? ドーヴァーのホワイト・クリフも絶景でした」
 「それは良かった。今日はここへ泊まっていけばいい」
 「駄目ですよー、今日は帰らないと。
 ミッシェルも明日お仕事だし」
 「あなたたちは帰っていいわよ。私はここに残るから」
 「じゃあ後で迎えに来るね? ゆっくりすればいいよ、ママ」
 「迎えには来なくていいわ。ママはパパと離婚して彼とここで暮らすことにしたから」
 
 琴子はホッとしたように微笑んだ。

 「ママのこと、よろしくお願いしますね? 「新しいパパさん」?」
 「琴子ちゃん・・・」
 「気を付けて帰るのよ」
 「うん。ママ、今度こそしあわせになってね?」
 「ありがとう、琴子。あなたもね?」
 「もちろん!」

 ゲボッ

 「銀!」
 「シルバー!」
 
 突然、詩人が吐血した。
 私の杞憂が現実となってしまった。
 
 「すぐに病院へ!」
 「ミッシェル、今日はありがとう! お礼は後でさせてね? 気をつけて帰って!」
 「俺も残るよ」
 「ありがとう、でも大丈夫だから。私が付いているから」

 
 私たちは悟のクルマに詩人を乗せ、病院へと急いだ。
 琴子はバスタオルを彼の口に当て、心配そうに彼の名を呼び続けた。すぐにバスタオルが血で真っ赤に染まった。

 「銀、がんばってね? もうすぐ病院だからね!」

 助手席の私はそんな娘を心配していた。

 (もしもこのまま・・・)

 私はその想いを必死に払拭しようとした。
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