上 下
6 / 27
第二楽章

第2話 外された結婚指輪

しおりを挟む
 私は夫にLINEをした。


    5日の夕方に琴子と
    一緒に戻ります
             
             了解
             気をつけて


 あの人らしい返事だと思った。
 元旦だから、普通なら「明けましておめでとう」から始めるべきなのだろうが、去年は銀河が亡くなり、年明け早々、おめでたくはない話をしなければならない。新年の挨拶どころではなかった。
 いざとなるとどう話したらいいものか、私は悩んでいた。
 だが、痛みを伴わない別れなどあるはずもなく、正直に話すしかない。
 私は心を決めた。


 「あの人に5日の夕方に帰るからとLINEをしておいたわ」
 「そう」
 「琴子はどうする? ママとお婆ちゃんのところに来る? それともあの家に残る?」
 「椎名先生と打ち合わせをして手続きをするだけだから、鎌倉のお婆ちゃんの家にママとご厄介になろうかな? どうせまたパリに戻るしね?
 パパと一緒じゃ気まずいし、色々と訊かれるのも嫌だから」
 「その方がいいわ。そしてまたパリへ一緒に戻ればいいから」
 「じゃあそうする」
 「初詣ってわけにもいかないから、今日はホテルで大人しくしていましょう。バイキングでおせち料理でも食べて来ようか?」
 「そうだね?」
 「こんなのんびりとしたお正月は初めてよ。何もしなくていいお正月なんて」
 「たまにはいいんじゃない? ママは今まで頑張り過ぎて来たから」
 「そうね? 頑張り過ぎたのかもしれないわね?」

 不思議と涙が零れた。どうしてなんだろう?
 自分が可哀そうに感じたから? それとも離婚することが悲しい?
 理由は分からない。だが涙が止まらなかった。
 
 「ママ・・・」

 琴子が私の背中を摩ってくれた。
 絶望の中にいる娘が、私を労わってくれている。
 私は琴子と抱き合って、しばらく泣き続けた。



 お正月のホテルのバイキング会場は賑わっていた。宿泊客だけではなく、初詣の帰りにホテルの元日バイキングを目当てに来ている、家族連れも混じっているようだった。
 琴子と私は生ビールを注文し、おせちを肴にお酒を飲んだ。


 「どうして昼間に飲むビールって、こんなに美味しいのかしら?」

 私は昆布巻きを口に入れ、ビールでそれを流し込んだ。

 「お正月のおせちはいつもママの手作りだったもんね?」
 「黒豆を煮て柚釜を作ったり、琴子とよく一緒に作ったわね? おせち」
 「今年のお正月は静かなお正月だね?」
 「母と娘のふたりだけのお正月ね?」
  
 琴子は伊達巻を少しだけ食べた。

 「美味しい? 職人さんの作る伊達巻のお味は?」
 「うん、美味しいけど私はママの方が好きかな?」
 「ありがとう、琴子」
 
 


 私たちはホテルの庭園を散策した。広葉樹はすっかり葉を落とし、池の錦鯉は悠然と泳いでいた。
 清々しい爽やかな朝日が、元日の穏やかな朝を演出している。




 その頃、海音寺とその愛人、宮下久美子は箱根の温泉旅館にいた。

 「院長先生。LINE、奥さんからでしょう? 折角、箱根の温泉旅館で「姫初め」をしている最中なのにい。
 電話してもいいわよ。私、大人しくしているから。
 でも声が出ちゃうかも。院長先生、テクニシャンだから」
 「ただの「業務連絡」だよ」

 俺は久美子の乳首を甘噛みし、舌で乳首を転がした。

 「あん、それ、好きかも・・・」

 (久子のやつ、もう帰って来るのか?)

 女房の久子とはずっと仮面夫婦だった。
 お互いにパーソナル・サークルを作り、適度な距離を保って生活していた。
 久子が琴子を身籠ってからはレスになっていた。
 久子はいい女だが、セックスの時は明らかにフェイクだった。
 俺は性欲を持て余し、ナースや患者、飲み屋のホステスなど、片っ端から手を付けた。

 そして今、20歳も歳の離れたこの女医、宮下久美子とダブル不倫をしている。
 俺たちはウマが合った。食べ物も会話も、そして体の相性も抜群に良かった。
 ドラマや映画の好みも同じで、一緒に楽しみ、感想を言いあったりもした。
 音楽もショパンより、ベートーヴェンが好きだった。

 久美子は大学病院の内科の医局で講師をしていたが、教授のセクハラやモラハラに嫌気がさし、大学病院を辞めてウチのクリニックで内科医として勤務するようになっていた。子供はいない。
 もちろん久美子のことは女房の久子も知っている。そして俺たちの関係も。
 家から微かに聞こえて来る久子のショパンに、久美子はいつも苛立っていた。

 「またショパン? どうしていつもショパンなの? たまにはエリック・サティでも弾けばいいのに」

 久子はショパンしか弾かなかった。
 琴子にも3才からピアノをやらせていたが、私立中学に通う様になると、声楽に力を入れるようになった。
 琴子の才能はどんどん開花し、声楽教師の勧めもあり、音大受験に向けて、藝大の教授のレッスンも定期的に受けるようになった。
 そして琴子は念願だった藝大のオペラ専攻へ合格し、院にまで進み、オペラ歌手として将来を嘱望されるようになっていた。
 私と久子が離婚しなかったのは、周囲への体裁と、娘の琴子のことがあったからだった。

 「先生、下もお願い」

 私は顔を久美子の下腹部へと移動させ、硬くなったそれを強く吸った。

 「はっ、くっつ、う、う・・・」

 その後、俺はその部分をチロチロと舐め、その付近を上下に舌でなぞるように攻め続けた。
 久美子の愛液がどんどん溢れ、俺の唾液と混じり、シーツを濡らした。

 久美子の旦那は脳外科医だった。彼はいくつかの医療裁判を抱え、そのストレス解消のためにゴルフと女にそのはけ口を求め、家には着替えをするためだけに帰って来る生活だと久美子は零していた。
 俺たちはお互いに、いつ今の生活を捨てても誰も傷付く者はいなかった。
 俺はその行為を続けながら、器用に両手を使い、彼女の身体を千手観音のように愛撫した。


 「あっ、イク、イクイク、イキそう! ダメ!」

 ガクンと彼女が落ちた。

 (そろそろ結論を出す時か? 俺たち夫婦の終わりを)

 オルガスムスを味わっている久美子を見ながら、俺はそう考えていた。




 都内は2日から、すっかり通常の状態に戻っていた。初売りが始まり、飲食店も営業を開始していた。
 つくづく日本人は商魂逞しい民族だと思う。
 ハロウィーン、クリスマス、そして大晦日、お正月。どんどん忘れ去られてゆくイベント。そして今度は毎年恒例の成人式に大暴れする若者たち。
 私と琴子は鎌倉の母の家に年始の挨拶に出掛けた。

 横浜で貿易会社を経営していた父は5年前に他界し、会社は弟が継いでいた。


 「お母さーん。元気?」
 「明けましておめでとう、久子に琴子。めずらしいわね? 2日にここに来るなんて」
 「これ、お母さんの好きな栗羊羹と大福」
 「ありがとう。今、お茶を淹れるわね?」

 私たちは庭を眺めながらお茶を啜った。


 「パリからいつ帰って来たの?」
 「大晦日よ」
 「あまりいいお話ではなさそうね?」
 「悪い話とおめでたい話があるの。どっちから聞きたい?」
 「離婚と結婚?」
 「そうなの。私、あの人と離婚することにしたの。色々やらなければならない事もあるから、それまでここに居てもいい?」
 「いいわよ、ここはあなたの家なんだから」
 「ごめんなさいね、親不孝な娘で」
 「何も謝ることはないわ、久子の人生なんだから。後悔しないように生きなさい」
 
 80歳を超えた母は、かつては華族の令嬢だった。ちょっと会わなかったうちに、小さくなったように見えた。

 「お婆ちゃま、私も少しの間、ここに置いてね?」
 「賑やかになっていいわね?」
 「用事が済んだら私と琴子はパリで暮らす事にするわ。お母さんも私たちとパリで暮らしてもいいのよ」
 「遠慮しておくわ。私は日本で死にたいから」

 寂しそうに母は笑った。
  



 家に戻って来た。

 「ただいま」
 
 リビングに行くと、夫はブランデーを飲みながらニュース番組を見ていた。

 「お帰り。どうだった? パリは?」

 琴子は何も言わず、自分の部屋に直行し、家を出る準備を始めた。
 私は夫の前に座り、テーブルの上にサインをした離婚届と結婚指輪を置いた。

 「離婚して下さい」
 「どうした? 急に」

 夫はテレビを消した。口元に安心したような笑みが見て取れた。

 「あなたが浮気をしているからです」
 「・・・。そうか」
 「今までお世話になりました」
 「これからどうするつもりだ?」
 「パリで暮らそうと思います」
 「ひとりでか?」
 「琴子と一緒に」
 「慰謝料として1億払うよ」
 「ありがとうございます。宮下先生とお幸せに。
 私の荷物は明日には運び出しますから」
 「困ったことがあれば、いつでも言いなさい」

 夫は離婚届にサインをして印鑑を押し、自分の結婚指輪も外すと、テーブルの上に置いた私の指輪と合わせて私に差し出した。
 
 「金とプラチナだから現金化すればいい」

 夫から謝罪の言葉は最後までなかった。
 
 「ちょっと出掛けて来る」

 夫はダウンジャケットを羽織り、家を出て行った。

 私は泣くまいと思ったが駄目だった。

 私たちの三十数年間の夫婦生活は、あっけなく終わった。
しおりを挟む

処理中です...