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第二楽章

第10話 歌劇『カルメン』

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 「あー、美味しかったー。もうお腹一杯」
 「琴ちゃんに悦んでもらえてよかった」
 
 私は先日、錬三郎に出してもらったホテル代を入れた封筒を、錬三郎のカウンターの前に置いた。

 「この前は払っておいてくれてありがとう。でもあれは私が支払うべきものだからお返しします」
 「別に気にしなくてもいいよ。僕が折角のを食べずに帰っちゃったんだから。あはははは」

 彼はそう言って、封筒を私のカウンターの前に戻した。

 「じゃあこれで飲みに行こうよ」
 「琴ちゃん、フラメンコって観たことある?」
 「フラメンコ?」



 そのお店は新橋にあった。私たちが店に入ると、フラメンコは既に始まっていた。
 生でフラメンコを観るのは初めてだった。

 錬三郎はヘレネ(シェリー酒)とハモンセラーノ、チーズとドライ・イチジクを注文してくれた。

 ヘレネはモスカテルという、甘口のマスカットのような香りのする物を選んでくれた。
 ここにはフラメンコを鑑賞するために来たので、お酒はあくまで先程の食事のデザート酒としてのオーダーだったようだ。
 

 フラメンコは12分の1拍子が基本ではあるが、変則的なリズムだった。
 スペイン人らしき男性のテノール・ボイスのカンテ(歌)。情熱的なフラメンコ・ギターに合わせ、爪先と踵を踏み鳴らし、赤い薔薇を咥えて激しく妖艶に踊る、黒髪のフラメンコ・ダンサー。
 真っ赤なスカートを跳ね上げ、両手でカスタネットを掻き鳴らして一心不乱に踊っていた。
 彼女の額に薄っすらと滲む汗。私はすっかりフラメンコに魅了されてしまった。
 時々店内に響く、「オレ—!」の掛け声。錬三郎も絶妙のタイミングで「オレ—!」と叫んでいた。


 ショーが終わり、ソロギターのBGMになった。

 「いいでしょう? フラメンコって?」
 「初めて見たわ」
 「アンダルシアの風と、オレンジの香りがして来そうだよね?」

 少年のようにキラキラとした瞳で話す錬三郎。
 私はこのまま彼を押し倒してしまいたい気分だった。


 「フラメンコはアンダルシアのヒターノ(ジプシー)の音楽だったんだ。
 アンダルシアはイスラム教徒のアラブ人と、そこに入植して来たユダヤ人も多く、フラメンコはその影響を強く受けている。
 フラメンコはスペイン語の「フランドルの」という意味があり、またFlama、「炎」とFlamente、「派手な」という意味も含まれ、足を出して踊る姿から、あの鳥のフラミンゴにも由来するといわれているんだ」
 「カスタネットの音が、右と左では違うのね?」
 「カスタネットはパリージョと言って、利き手には高音のパリージョを、そして逆手には低音のパリージョを持つんだよ。
 手の動きをブラッソ、床を踏み鳴らす踊りをサパテアードという」
 「観客との距離が近いのがいいわね?」
 「桑田佳祐のように何万人という人の前で歌うのも快感かもしれないが、恋人の前で歌うのも、歌には変わりはないからね?」
 「私も沢山の聴衆の前で歌うオペラは好きだけど、お客様が50人位のリサイタルで歌うのも好き。ひとりひとりの表情が分かるし、私の歌に対するお客様の温度や湿度がより良く伝わるから」
 「琴ちゃんらしいな? 本当に君は歌うことが好きなんだね?」
 
 (そう、私は歌が好き。歌うことが大好き!)

 「掛け声を掛けるタイミングが難しいわよね?」
 「掛け声は「ハレオ」と言うんだけど、「オーレ」じゃなく「オレ!」とか「オレ—!」って言うのが、本当は正しいハレオなんだ」
 「じゃあ今度、ハレオを叫ぶ時には私の手を握って合図して、私も錬三郎と一緒に叫びたいから」
 「いいよ、一緒に叫ぼう! ハレオを」

 素敵な錬三郎の笑顔だった。

 「琴ちゃんはあのオペラ、『カルメン』も演じた事はあるの?」
 「カルメンはまだないわ。でもフラメンコを観ていたら、挑戦してみたくなっちゃった」
 「僕は最初、『カルメン』ってビゼーの交響曲だとばかり思っていたよ」
 「音楽が凄く有名だからね? 序曲とか。
 素敵なアリアもあるのよ。「ハバネラ」「闘牛士の歌」とか」
 「どんなストーリーなの?」
 「カルメンはセビリアのタバコ工場に勤めるヒターノの女なんだけど、結構「あばずれ女」でね? ある日、衛兵の伍長、ホセに色目を使うの。するとホセはカルメンに一目惚れしてしまう。故郷に許嫁いいなずけのミカエルがいるのによ。そしてカルメンは薔薇の花をホセに投げ付け、「私に惚れると危険だよ!」と言って意味深に笑うの。
 ホセはすっかりカルメンにイカれちゃって、ミカエルのことなんか忘れてしまう。
 ある日、喧嘩をして捕まったカルメンを逃がしたホセは、自分が逮捕されちゃって、その後出所してカルメンと再会するんだけど、その時軍隊ラッパが鳴って、ホセが帰ろうとすると、彼女は言うの。「勝手に帰れば? あなたの私への愛は、どうせその程度の愛なのよ!」って。
 そしてホセは赤い花をカルメンに渡し、「私のすべては君のものだ!」、と言って「花の歌」のアリアを歌う。
 酷い女でしょう? カルメンって?」
 「そんな風に言われてみたいけどね? あはははは」
 「ウソばっかり。この前は私を置いて帰っちゃったくせに」
 「ごめんごめん。あはははは」
 「でもね、そんなカルメンはイケメン闘牛士のエスカミーリョに移り気しちゃうの。
 そしてカルメンは盗賊団に誘われてその一味に加わると、今度はホセも仲間に引き入れてしまう。
 盗賊団のフラスキータとメルセデスがタロットカードでカルメンを占うと、何度占っても「死」のカードが出てしまう。
 そして最後、カルメンは嫉妬に狂ったホセに刺殺されてしまうという悲しいお話」
 「オペラは悲劇が多いね?」
 「実らぬ恋は美しいものだからね?」

 (実らぬ恋・・・)

 私は銀河のことをまた思い出してしまった。

 (私はカルメンなの? あんなに銀河のことが好きだったのに、今はこの錬三郎に恋をしている)

 もちろん銀河のことは今でも愛している。愛しているけど錬三郎は今の私にはなくてはならない存在になってしまった。
 銀河は死んでしまった。錬三郎は私が歌うための希望であり、生き甲斐になっている。もし錬三郎と会えなくなってしまったら、私は歌うことも、生きることさえも出来なくなってしまうだろう。


 フラメンコがまた始まった。
 錬三郎の手が私の手をギュと握った。私は彼と思いっ切り叫んだ。

 「オレー!」




 私は彼を夜の東京湾へと誘った。

 「夜の海を見に行かない?」
 「夜の海を? いいよ」


 私たちはゆりかもめに乗って芝浦埠頭駅で降り、手を繫いで埠頭に向かって歩いて行った。夜の風が冷たい。
 岸壁に当たるさざ波の音、レインボー・ブリッジが美しくライトアップされていた。
 夜の海に眠らない都市、東京の明かりが揺れていた。


 「ねえ、キスして」

 錬三郎は私の右の頬にキスをした。

 「そこじゃなくてこっち」

 私は錬三郎の口に自分の唇を重ねたが、錬三郎は口を閉じたままだった。

 「私の事が嫌い?」
 「大好きだよ」
 「じゃあどうしてキスしてくれないの? 手は繋いでくれるくせに」
 「琴ちゃんのことは大好きだよ。そして同じくらい銀のことも好きなんだ」
 「私も銀と同じくらい錬三郎のことが好きよ。私はこれからもずっと誰も好きになってはいけないの?」
 「君はこれからしあわせにならなければいけない。銀の分もね?」
 「ならどうして?」
 「琴ちゃんは自由に恋愛していいんだよ。ただし、僕以外の男性と。
 僕は銀の親友だから」

 私は錬三郎に抱き付いて泣いた。

 「あなたは銀の大切な親友だからこそ、銀も喜んで祝福してくれると思う。
 銀の知らない人と愛し合うなんて絶対に無理!」
 「銀は僕のただの親友じゃないんだ。僕は彼を「同性として」愛していた。
 僕の勝手な片想いだったんだけどね?」
 
 (錬三郎がゲイ?)

 私の頭の中は混乱していた。

 「・・・」
 「軽蔑しても構わないよ。でも僕は銀を、銀河を愛しているんだ。だから君は僕の永遠の恋敵、ライバルなんだよ。
 銀の愛した君を、僕は愛することは出来ない」
 「女が嫌いなの?」
 「そうじゃない。僕はバイ・セクシャルなんだ」
 「結局言訳じゃないの! はっきり言えばいいでしょ! 私のことが嫌いだって!」
 「琴子のことが嫌いなら、何度も君と食事をしたりはしないよ。
 今日だって君をフラメンコになんか誘ったりはしない。
 男と女が一緒に食事をするという事は、ベッドを共にするのと同じ事なんだ。
 寧ろ、僕は琴子が好きで好きでしょうがないんだ!
 だが、銀を好きな「男」としての自分がそれを許してはくれない!
 正直に言おう、僕は迷っているんだ! 琴子を本気で愛していいものかどうかを! このまま君と付き合っていいのかを!」

 錬三郎が初めて私を「琴子」と呼び捨てにしてくれた。私はこの時確信した。彼は本気で私を愛していると。

 「私は暗い海を漂う船だった。私が沈没しそうになった時、見つけたのがあなたという灯台の光だった。あそこに見える灯台の明かりのように」
 「・・・」
 「私を錬三郎の愛人にして」
 「恋人じゃなく愛人?」
 「そう、愛人でいいの。結婚なんて望まない、あなたと一緒にいられるだけでいいの。だから私を錬三郎の愛人にして」
 「琴子」
 
 私は錬三郎とキスをした。錬三郎は躊躇いがちに口を開け、私の舌の進入を許してくれた。


 私たちはゆりかもめに乗って、そのままお台場のホテルへと向かった。
 ゆりかもめに彼と寄り添って座り、錬三郎と繋いだ手の平が汗ばんでいた。

 色とりどりの光の谷間を走るゆりかもめは、まるで星空に向かって飛んでゆく、銀河鉄道のようだった。
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