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第三楽章

第7話 好事魔多し

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 思った通り、生理がいつもより遅れていた。
 ドラッグストアで妊娠検査キットを購入し、妊娠したことを確認した私は産婦人科を受診した。
 間違いなく妊娠していた。




 「ただいまー!」

 私は仕事から帰って来た錬三郎に、母子手帳を見せた。
 
 「出来たみたい。赤ちゃん」
 
 錬三郎は歓喜し、私を強く抱き締めた。

 「錬三郎、苦しいよ」
 「ごめんごめん。あの日、出来たと思ったんだ。良かったあ! ありがとう琴子! 今夜はお祝いしよう! フランスには3人での新婚旅行になったね?」
 「その頃はまだお腹の中よ。予定日は来年の5月30日だって。
 ねえ、男の子がいい? それとも女の子?」
 「もちろんどっちでもいいよ。でももう決めているんだ。女の子の名前だけは」
 「どんな名前?」
 「歌子。椎名歌子!」
 「歌子かあ。琴子の子供が「歌子」だなんて、素敵な名前ね? ありがとう錬三郎」



 錬三郎はシャンパンを開け、私はコーラで乾杯した。
 その日の食器洗いの当番は私だったが、錬三郎が代わってくれた。

 「大事にするんだよ。安定期までは食器洗いや洗濯は僕がするから琴子は休んでいていいからね?」
 「ありがとう。あ・な・た」

 錬三郎はまだぺたんこの私のお腹を摩って、満足気に微笑んでいた。
 私は女に生まれたことを母に感謝した。

 (ママ、私を女に産んでくれてありがとう)




 翌日、錬三郎と出産の準備に必要な物を買いに、銀座に出掛けた。
 産着に涎掛け、お帽子に顔をひっかかないための手袋。爪切りに靴に柄のないスプーンと食器。ゴムの歯ブラシなど。みんな小っさな物ばかりだった。

 (なんだかシルバニア・ファミリーみたい。ちっちゃくてかわいい物ばかり)

 「予定日は来年の春なのに、かわいくてつい買っちゃったね?」
 「琴子のマタニティ・グッズも買わないと。まずは靴だね? 転んだり滑らない物にしないと。
 もうヒールは禁止だからね?」
 「はいはい。わかってますよ、錬三郎パパ」
 「もう一回言ってくれないか? それ」
 「錬三郎、パ・パ。うふっ」
 「琴子ママ」
 「ちょっと照れちゃうけど、うれしい」

 そして錬三郎は言った。

 「これから役所に行って婚姻届を貰って来よう。立会人はレイに頼むから」
 
 うれしかった。式は10月に挙げる予定にしていたからだ。

 「そうだ! 結婚指輪も買わないと! 一緒に見に行こうよ!」
 「うれし過ぎて死んじゃいそう!」
 「死ぬなんて縁起でもない! お腹の子供の為にもしっかりしてくれよ、琴子
 「えへっ。ごめんなさい」
 

 元々やさしい錬三郎だったが、妊娠が分かると笑ってしまうほど、彼は私とお腹の子を気遣ってくれた。
 軽いバッグすら錬三郎が代わりに持ってくれた。
 妊娠を告げた時、男の本性が出るものだ。
 錬三郎のように、子供が出来たことを凄く喜ぶ男性と、今までやさしかった男性が急に冷たくなったり、挙句の果ては「おろしてくれ」と言う者までいる。
 私の音楽仲間のご主人は、後者のタイプだったらしい。
 彼女は離婚し、今はひとりで娘さんを育てている。


 「私はね? 仕事をまだ続けていたかったから、子供はもう少し先でいいかなあって思っていたの。
 それなのにアイツ、「今日はヤバイ日だから外に出してね」って言っていたのに中出しされちゃってさあ。そりゃあ子供は可愛いわよ、いずれは欲しいと思っていたし。
 でもタイミングってもんがあるでしょう?
 子供が出来たことを言うとね、「そう」たったそれだけ。酷いと思わない? 
 勝手に中に出しておいてよ。もう顔を見るのもイヤ。
 私が悪阻で苦しんでいる時も、平気で私の目の前で焼肉を食べてビールを飲んでいるのよ。無神経にもほどがあるでしょ?
 切迫流産しそうになって入院した時もそう。お見舞いにも来てくれなかった。信じられる? 出産の時もアイツの両親に連れられて、仕方なく来たって感じでさあ。
 そして私がお産で実家に帰っている時、会社の女と浮気してたのよ。あー、思い出しただけでもムカつくー!」

 でも私は思った。それは自業自得だと。
 人生は自分で選択するものだからだ。




 家にベビーベッドやベビーカーが届いた。
 錬三郎が買った物だった。

 「これ、かわいいだろう? つい買っちゃったんだ」
 「うん、かわいい! あとドーナツ枕とお布団も買わなきゃね?」
 「そうだ忘れてた! 琴子、今度の休みに買いに行こう!」
 「うん」



 錬三郎は事務所からの帰りに、幼児玩具や絵本を買って来た。

 「これは舐めても害のない物なんだよ。早くこれで一緒に遊びたいなあ。
 絵本もたくさん読んであげたいし」
 「3才になったらピアノを教えてあげてね?」
 「ピアノなら葵に頼もう。アイツ、俺よりピアノ上手いから」
 「そうなんだ? 葵さんもマルチなのね? 東大卒で美人でピアニストだなんて。ウルトラ・ウーマンね?」
 「葵がレズビアンで良かったよ」
 「でももし生まれて来る子が女の子だったら?」
 「ちょっと心配だなあ。娘が葵に盗られたら大変だ! その時は別なピアノ講師にするよ」
 「おかしな錬三郎パパだね?」

 私は自分のお腹を摩って胎児に話し掛けた。

 「僕も触っていいかなあ?」
 「もちろん」
 「パパでちゅよー」
 「錬三郎の方が赤ちゃんみたい」

 私と錬三郎は笑った。

 


 2か月が過ぎた頃、女の子が授かっていることが分かった。
 私たちは歓喜した。

 「これでこの子の名前は決まったね?」
 「うん。あなたのお名前は歌子よ。椎名歌子」

 私たち夫婦はお腹の「歌子」に話し掛けた。



 悪阻も酷くなり、食物アレルギーの多い私はかなり体力が落ちていった。

 「吐いてもいいから何か栄養のある物を食べないと」
 「わかっているんだけど、食べたくないの」
 「兎に角、何でもいいからお腹に入れないと。何か食べられる物はないの? 買って来るから」
 「ありがとう。そうだなあー、うーん、スイカ。スイカなら食べたいかも」

 今は秋だ。スイカの季節はもうとっくに終わっている。


 「よし分かった! スイカを買って来る!」

 錬三郎はジャケットを羽織り、直ぐに家を飛び出して行った。



 3時間後、彼は息を弾ませて大きなスイカを2つ、両手にぶら下げて帰って来た。

 「やっと見つけたよ、スイカ。今、切ってあげるからね?」
 「パパ、ありがとう」

 私は泣いた。錬三郎と結婚して本当に良かったと思った。
 



 家ではいつもモーツアルトやハイドン、ヨハン・シュトラウスを流していた。

 「胎教から始めないとね?」

 錬三郎は真剣だった。



 マタニティ・ドレスになって来た頃、私は夜中、突然の激痛に襲われた。

 「どうした琴子!」
 「お腹が・・・、お腹が痛い・・・」

 
 救急車に乗せられ、錬三郎が私の手を握って名前を連呼しているのは分かったが、私は気を失い、それからの記憶がない。

 気が付いた時には病院のER(緊急救命室)に寝かされていた。

 「椎名さん! 椎名琴子さん!」
 
 手術着を着たドクターが私の名を呼んでいた。

 「赤ちゃんだけは・・・、助けて、あげて下さい・・・」
 「もう大丈夫ですよ。後は検査と大事をとってこのまま入院してもらいますからね?」
 「よろしく・・・、お願いします。ありがと、う、先生・・・」


 私はICUに移され、そして一般病棟の個室へ入院することになった。
 錬三郎がずっと私に付き添ってくれていた。

 「良かったね? 手術をしなくても済んで。
 先生も驚いていたよ、一時は危篤状態だったそうで、緊急オペの準備をしていた時に、奇跡的に君が回復したそうだから。歌子も大丈夫で本当に良かったよ」
 「良かったー。ママと銀河、悟さんが私と歌子を守ってくれたのかしらね?」
 「そうかもしれないね? 琴子、僕はこれからどうしても外せない裁判があるから、もう行かなければならないけど、その間、葵に頼んでおいたから、何か必要な物は彼女に頼めばいいからね?」
 「ごめんなさいね、忙しい時に」
 「気にしなくていいよ、僕たちは家族じゃないか?」

 (家族。なんて素敵な響き・・・)

 「行ってらっしゃーい。パパ」
 「安静にしているんだよ、琴子ママ」
 「気を付けてね」
 「ああ、じゃあ行ってくるよ」

 余程ギリギリまで傍にいてくれたのか、彼は病室を走って飛び出して行った。



 錬三郎と入れ替わるように葵さんが来てくれた。

 「大変だったわね? 大丈夫? 痛くない?」
 「平気です。すみません、忙しいのに」
 「心配しないで、私の仕事はパソコンと携帯があればどこでも出来るから。
 錬三郎は夕方には戻れるそうよ」
 「ありがとうございます」
 
 すると葵さんは私の額に手を置いた。

 「弱っている時の琴子もキレイ。食べちゃいたいくらい」
 「食べないで下さいよ」

 私は葵さんの手を払い除けることはしなかった。

 (冷たくて心地良いやさしい手)

 「昔から「好事魔多し」っていうでしょう? しあわせなことが続いた時ほど気を付けないとね?
 しあわせと災難は常に同じ分量で訪れるものだから。
 でも良かった。母子共に何事も無くて」
 「本当にそう思いました」
 「何か欲しい物はない? 雑誌と下着とかの着替えは持って来たけど他にはない?」
 「大丈夫です。とても助かります。彼に下着売場に行かせるのは可哀そうですからね」
 「あはははは、錬三郎なら絶対に通報されるわね?」

 私と葵さんの笑い声が病室に響いた。

 「食事制限はないんでしょう?」
 「でも今は悪阻が酷くて」
 「そうなんだ? 私は経験がないから分からないけど、でも子供は欲しいのよ。錬三郎の精子なんて最高なんだろうけど。
 ねえ琴子、一晩彼を貸してくれない?」
 「それはいくら葵さんでもダメですよ!」
 「じゃあさ、アンタがもう一人産んで私に頂戴よ。私が育ててあげるから」
 「ワンちゃんや猫ちゃんじゃないんですよ! 人間の赤ちゃんなんですから!」
 「本気の話よ。それなら代わりに私と付き合ってよ」
 「私は男の人が好きなんです!」
 「男なんて馬鹿ばっかりよ。自分勝手で性欲の塊で、デリカシーの欠片もない」
 「錬三郎は違います!」
 「あははは。確かに彼は別ね? 仕方ない、ハーバード卒のアメリカ上院議員のアイツの精子を凍結させるか?」

 葵さんらしいと思った。天才の考えていることは私には理解出来ない。
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