未完成交響曲

菊池昭仁

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第5話

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 3歳の時、父の勤めていた酒造会社の社長が、自社の土地に父のために平屋の社宅を建ててくれた。
 夜、残業して社宅を造ってくれている大工さんの現場に、私は父に手を引かれ見に行ったことを覚えている。
 裸電球を点けて働く大工さんと木の匂い。
 その頃の家造りは石膏ボードもなく塗り壁で、大工さんも鉋やノミ、手鋸を使っていた時代だった。
 今の建築は和室も少なくなり、プレカットされた材料をプラモデルを組み立てるような物になっている。

 トイレは汲取式で、便槽には換気風車が付いていた。
 トイレットペーパーは使わず、「ちり紙」を専用のカゴに入れて使っていた。

 「落ちたら駄目よ。落ちたら死んじゃうんだから」

 と母に言われ、幼児の私はトイレが怖かった。

 水道はあったが、庭には井戸も掘ってくれて、手押しポンプの水が出る口には母が布巾を袋縫いして取り付けてあった。不純物を除去するためだ。
 ポンプを押すのが楽しかった。

 敷地は100坪くらいあっただろうか? 敷地の隣りには火の見櫓が建っていたが怖くて少ししか登ることが出来なかった。

 4歳の時の私のお気に入りは砂糖を入れたホットミルクで、よく母が作ってくれた。
 いつものように母が鍋に沸騰した牛乳に砂糖を入れ、私のカップに注ごうとコンロから移動させようとした時、私は急に母に抱きつき、その沸騰した牛乳を頭から被ってしまった。
 母は慌ててすぐに水で冷やし、頭に味噌を塗って冷却してくれた。田舎の知恵である。
 その日以来、私は牛乳が苦手になってしまった。
 給食とか、牛乳を出されると無理して飲んでいた。

 敷地にはあの黄色い「背高泡立ち草」がいっぱい咲いていた。
 そして私は小児喘息になってしまい、発作が起きると母は私の胸に「ゼノール」というシップを貼ってくれて、苦しくて目を白黒させて意識が朦朧となっている私を抱きしめ、

 「あっちゃんが死んじゃう」

 と泣きながら看病してくれた。


 具合が悪くなって、近所の医者に行くと栄養失調だと言われ、お尻に太いブドウ糖注射をされたこともあった。
 きちんと三食食べていたはずなのにである。


 幼稚園までそこで暮らした。
 当時の幼稚園は殆どが1年保育だった。私が6歳の時、年少の子が入ってきた時にはまるで子犬のように感じた。

 実は私は幼稚園を転園している。
 最初に入った幼稚園は辞めて、自分が理事長をしている幼稚園に入り直せと社長から言われたからだった。
 折角買った幼稚園の服やお道具箱もすべて新調した。

 中々良い幼稚園で、私はその社長のコネでいつもお遊戯は主役だった。

 
 小学校の入学に合わせて私たち家族は県営住宅のテラスハウスに引っ越しをすることになった。
 それはその社宅に「ある問題」があったからだ。
 
 なんと、その敷地に墓があったからだ。

 その墓はかなり古いもので、無縁仏だった。
 やさしい母は、その墓によくお供えをして手を合わせていた。
 私も母の真似をして手を合わせた。

 ある時、陰陽師のような方が母をみて、「無縁仏があなたを頼っているから早くそこを離れなさい」と言われ、一家でその社宅を引っ越すことにした。
 そのままいたら祟られると言われた。

 ちなみにその方はお金を取ることもなく、信者を増やすこともよしとしない方だった。
 とても不思議な方で、声が耳から聴こえるのではなく、頭の中から聞こえてくるような声の持ち主だった。

 地元の言い伝えでは江戸時代の頃に行き倒れになり、その人を地元の人たちが墓を建てて供養したということだった。


 子供の頃からずっと借家住まいだった。

 引っ越しは会津で2回、大宮で4回。そして私が結婚して家を出るまで会津に戻って4回引越しをした。
 それはすべて母の我儘だった。
 母は同じところに留まっていることが出来ない人だった。

 だが私の放浪癖は母の遺伝ではない。引っ越しがしたいのではなく、引っ越しせざるを得ない状況での移転だったからだ。

 父親は外に遊びにも行かず、日曜日の休みには私を連れて釣りや動物園、水族館や電車に乗せてくれて、家でテレビでナイターや懐メロを見ながら安いサントリー・ホワイトをストレートで飲むのが唯一の楽しみだったので、地道に働いていた父の稼ぎは決してそれに見合うものではなかったが、十分に毎月貯金は出来ていたと思う。

 ただし、貯金が貯まると母はまた別の場所へと引っ越しをした。
 だが父がそんな母に文句を言ったのを見たことはない。
 私の転校などお構いなしの父と母だった。

 母の言い分はいつもこうだ。

 「ここは家賃が高いからもっと安いところへ引っ越しましょう」

 近所には友だちもいたが、離れたくないような友人関係でもなかったので、私も母にあまり文句を言った記憶はない。
 
 ただ小学校6年生の時に会津に転校して、中学に入学する時にまた「ここは家賃が高いから安いところへ引っ越すわよ」と引っ越した時だけは「嫌だ」と言った。

 なぜならそこはお寺の境内にある平屋の一軒家で庭もなく、窓はあるが周囲を建物で囲まれ、殆ど日の差さない古い貸家住宅で、六畳二間と三畳と台所、風呂は付いていたがトイレは汲取式だった。
 
 中学に入学して、女の子数人が私の後をつけて来て、私がどんな家に住んでいるのか、私が家の中に入ると家の周りをうろついていて、彼女たちの話し声が聞こえた。

 「これが菊池君のお家なんだね?」

 そこには明らかに憐れみの情があったように思う。


 担任が家庭訪問に来て、母が出したお茶を飲んですぐに帰って行った。


 私が家の鍵を忘れて登校してしまい、パートに出ていた母が学校に鍵を届けに来てくれたことがあった。

 するとその担任の教師は教室のみんなの前でこう言った。

 「菊池、お母さんが家の鍵を届けに来たぞ。
 鍵なんか掛けなくてもお前の家に盗られるものなんて何もないのになあ。あはははは」

 クラスのみんなからも失笑された。


 大宮の酒造会社を辞める時、会社の社長が家まで来て父を説得しようとした。

 「どうか考え直してくれないか? 給料も今の倍出そう。
 家も建ててやるし、ゆくゆくは酒屋も出してやる。
 この子も大学まで面倒を見させて欲しい」

 社長の子供さんは皆優秀で、長男さんは浦和高校を出て慈恵医大へ進み、医者になっていた。

 だが母は頑としてその好条件を受け入れなかった。
 その理由は私が中学2年の時に知ることになる。

 母がどうしても埼玉の大宮から会津に帰りたかった本当の理由が。

 
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