★【完結】Silver Rain(作品230608)

菊池昭仁

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第17話 マリー・ローランサン

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 五郎は書斎に飾ってある、マリー・ローランサンの絵を眺めていた。
 
 アポリネールを愛した情熱的な画家、マリー・ローランサン。
 彼女は「鎮静剤」という詩を残している。


   「鎮静剤」 マリー・ローランサン 作                  
                 (訳:堀口大學)

    退屈な女より 
    もっと哀れなのは 悲しい女です

    悲しい女より
    もっと哀れなのは 不幸な女です

    不幸な女より
    もっと哀れなのは 病気の女です

    病気の女より
    もっと哀れなのは 棄てられた女です

    棄てられた女より 
    もっと哀れなのは よるべない女です

    よるべない女より 
    もっと哀れなのは 追われた女です

    追われた女より
    もっと哀れなのは 死んだ女です

    死んだ女より
    もっと哀れなのは 忘れられた女です


 私はマリー・ローランサンのこの詩が好きだった。
 彼女は言う、人間の一番の哀れは「忘れられること」だと。
 晴美も優香も私のことはもう忘れたはずだ。


 「五郎ちゃーん、ごはん出来たよー」
 「今、行く」

 今、私はしあわせの中にいる。
 だが困ったことに、幸福は執着を生む。
 
 「死にたくない、もっとこの幸せの中にいたい」

 私はそんなことを考える、臆病者になっていた。



 アリスは食事をしながら、さりげなく言った。


 「五郎ちゃん、私、やっぱり日本に帰ることにする。色々とやらなきゃならないことも出来たし」
 「そうか」

 私は葉巻を吸いながら、平静を装った。
 それはとても残念なことではあったが、やむを得ないことだとも思った。
 いつまでもアリスをここへ留めておくことは出来ない。
 アリスは私のメイドでもなければ娘でもないのだから。


 「それでいつ日本帰るんだ?」
 「明日」
 「航空チケットは取れたのか?」
 「うん、ソフィアさんにお願いした」
 「金はあるのか?」
 「もう五郎ちゃんは心配性なんだからあ。
 大丈夫だよ、お金はけっこう持っているから」

 私は書斎へ行き、キャッシュカードを持って来ると、それをアリスへ渡そうとした。

 「またいつでもパリに遊びにおいで。これはその時の旅費だ」
 「いいよ、あと何回かはパリに来れるだけのお金はあるから。
 ママとパパが残してくれたお金が」
 「それとこれとは別だ。これはアリスが俺のメイドとして働いてくれた給料だ。気軽に受け取ってくれ」
 「逆でしょう? ここに泊めてもらって、ご馳走してもらって、ガイドまでしてくれたんだよ、
 私が五郎ちゃんに払わないと」
 「もう俺に金は必要はない、アリスが有効に遣ってくれ。暗証番号はアリスの誕生日にしておいたから」
 「五郎ちゃん・・・」


 アリスはどうしても日本に帰る必要があった。出来るだけ早く。
 アリスは五郎には内緒で、優香に手紙を書いていたのだ。


  優香様

  初めまして、鮎川アリスと申します。
  決して怪しい者ではありません、私はパリでお父様に
  お世話になった者です。
  誤解しないで下さい、おかしな関係ではありません。
  口には出しませんが、お父様は優香さんに会いたがって
  いると思います。
  今、お父様はあまり長くは生きられない状態にあります。
  お願いです、どうかパリに来てお父様を見舞ってあげて
  下さい。
  時間がありません、お父様に是非会ってあげて下さい。
  私がでしゃばることではないことは十分承知しています。
  身寄りのない私に、あなたのお父様は優しく接して下さい
  ました。
  どうかお父様に会ってあげて下さい。
  お願いします。
                     鮎川アリス



 アリスはソフィアに事情を説明した。
 ソフィアは泣いた。

 「どうして、どうしてなの? マエストロはまだ60歳にもなっていないのよ、もっともっと作品を世に出して欲しいのに・・・」
 「それでねソフィア、私、娘の優香さんを日本に迎えに行こうと決めたの。
 ソフィア、飛行機の手配をお願いしたいんだけど、五郎ちゃんに知られないように」
 「わかったわ、帰国の手配は任せて」
 「あと、私が戻るまで五郎ちゃんのことはお願い、かなり苦しそうだから」
 「うん、任せて頂戴。アリス、気をつけてね?」
 「私、絶対に優香さんを連れて来るから」



 
 翌朝、私はタクシーを呼び、アリスを空港まで送る手配をした。


 「アリス、元気でな。悪いがここでさよならだ。
 今度パリに来る時は、彼氏と一緒においで、俺がその男を査定してやるよ」
 「うん、その時はお願いね。凄いイケメン君を連れて来るから、五郎ちゃんもそれまで元気で待っててね」
 「ああ、それまでは死ねないな。
 アリスの花嫁衣裳を見たいからな?」
 「そして子供が生まれたら抱っこしてね、約束だよ、五郎ちゃん」
 「わかった、わかった。楽しみに待っているよ、気をつけてな。
 日本に着いたらハガキでもくれ、じゃあな」
 「うん」

 私もアリスも泣いた。
 タクシーの窓から手を差し出すアリス。

 「五郎ちゃん・・・」
 「ほら、飛行機に遅れるぞ」

 私たちは強く手を握った。
 タクシーが走り出し、クルマが角を曲がるまで私はずっとアリスを見送った。



 (五郎ちゃん、私、絶対に優香さんを連れて来るからね!)


 アリスはそう自分に誓った。
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