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第2話

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 大学病院の待合所では、幼稚園児くらいの女の子が母親に質問していた。

 「ママー。このドアの数字、間違ってるよ。 
 1、2、3・・・、5、6、7、8・・・、10だもん。
 4と9がないよ」
 「それはね、病院では4は「死」を想像させ、9は「苦るしみ」を思わせるからよ」

 その母親はまるで大人に話すように答えた。

 「ふーん。4は「しあわせ」で9は「九州」、それに4と9で「なる」なのにね?」
 「うふふ、そうかもね?」


 やっと俺の名前が担当医からアナウンスされた。

 「北川さん、北川伸之のぶゆきさん。5番にどうぞ」

 3回ドアをノックして中に入いると、40代位のゴルフ焼けした精悍な外科医が私を待っていた。
 その医師はパソコンのモニターを見ながら私を見ることもなく、呟くように言った。

 「北川さん、ご家族は?」
 「いません」
 「ご兄弟は?」
 「おりません、独り身です」
 「そうですか・・・」

 医者は落胆していた。

 (それはお気の毒に・・・)

 と言うかのように。

 「検査の結果、膵臓に悪い腫瘍が見つかりました。
 残念ですが、手術は出来ません」
 「そうですか? 転移もあるということですね?」
 「そういうことになっています」
 「結論としてあとどのくらいでしょうか? 私の余命は?」
 「長くて半年かな?」
 
 まるで「今日の夕食はアジフライ定食かもしれません」とでも言うように、医者は答えた。
 私は悪い夢を見ているのかと思った。



 都内のマンションは賃貸に出し、家賃収入は離婚した妻の口座に入るようにした。
 預貯金は1,000万円だけを残して、その残りと有価証券、絵画2点は妻と一緒に暮らす子供たちに生前贈与をすることにした。
 金銭管理はすべて前妻の理恵がしているので困ることはない。

 
 日本を離れる一週間前、俺は理恵と娘の美咲を叙々苑で「最期の食事」に誘った。
 息子の悠輔も誘ったが、来なかった。
 悠輔は今も母親を泣かせた俺を許してはいない。


 焼肉を美味そうに頬張る理恵と美咲。
 俺はまだ口を付けていない自分の生ビールをふたりに勧めた。

 「少し飲んでみるか?」
 「うん」

 美咲は19歳になっていた。まだ付き合っている彼氏はいないらしい。
 少しだけ飲むと、美咲は母親の理恵の前に無言でグラスを置いた。

 「全部飲んでもいいぞ。飲めるならお前たちの分も注文してやるから」
 「ううん、あなたの少しもらえばそれで十分」
 「そうか。美咲、センマイ刺し、食べてみるか?
 見てくれは悪いが旨いぞ」

 美咲はコクリと頷いた。
 子供の頃は好き嫌いというより、自分が好きな物しか食べない娘だった。
 しかし大人になるにつれ、美咲は益々俺に食事の好みが似て来た。
 美咲は美大で油絵を学んでいた。

 
 デザートのアイスクリームを食べ終え、理恵と美咲が食後の珈琲を飲んでいる時、私はカバンから理恵に渡す物をテーブルの上におもむろに並べた。
 叙々苑はブースで仕切られているので都合が良かった。
 
 「これが通帳と銀行印。キャッシュカードとクレジットカード。
 暗証番号はお前の誕生日にしてある。
 これが実印と印鑑証明のカード。あとこれが株券だ。株について悠輔に任せるといい。
 もしわからないことがあれば証券会社にいる竹内に訊いてくれ。
 連絡先はここに書いておいた。
 それからこれが俺の生命保険の証券だ」

 竹内は俺の学生時代からの親友で、理恵も知っている。

 「どうしたの? いきなり」
 「先日病院に行ったら末期の膵臓ガンだと言われた。
 だが俺は何も後悔はない。
 お前たちには随分と迷惑を掛け、嫌な思いをさせた。
 せめてカネだけでもと思ってな?」
 
 理恵は深い溜め息を吐いた。

 「ホント、あなたって人はいつもそう・・・」

 その後には「自分勝手なんだから」と続く筈だ。
 娘の美咲は大きな瞳に涙をいっぱい溜めていた。

 「パパは死なない。パパは強い人だから」
 「ありがとう美咲。でも俺は強くはない。強かったらお前たちに辛い思いはさせなかった。
 俺は弱い駄目な父親だ」
 「それでお医者さんは何だって? 手術とか、抗がん剤で治らないの?」
 「もう手遅れだそうだ。長くて半年だと告知された」  
 「どうしてそんなになるまで放っといたのよ!」 
 「俺がそういう男だと言うことは、お前が一番良く知っているだろう?」
 「これからどうするの?」
 「アントワープに行ってみようと思う。 
 前から一度、行ってみたいと思っていたんだ」
 「そう・・・」

 
 帰り道、上野駅のエスカレーターに乗っていると、美咲が私の背中を擦ってくれた。

 「パパ、痛くない? またお肉、ごちそうしてね? 約束だよ」
 
 俺は娘を振り返らずに頷いた。
 娘に自分が泣いているのを見られるのが恥ずかしかったからだ。
 俺は何度も頷いた。

 女房の理恵も私の背中を軽く叩いた。

 「長生きしてね?」
 「ああ。お前もカラダに気をつけろよ」

 私はそのまま右手を挙げ、改札に入って行った。
 最期の別れが出来て、本当に良かったと思った。
 
 
 
 退職金も含め、財産はすべて整理した。
 そしてその翌日、10年付き合った山神沙都子とも別れることにした。

 沙都子のマンションで最後のセックスをした。

 「うっ、は、あ、うんっ・・・あっ」

 俺は俺の下で喘いでいる沙都子に見惚れていた。
 いい女だと思った。

 会社ではバリバリのキャリアウーマンだが、ベッドでは子猫のようになる女だった。

 「イクッつ! あっ・・・」

 俺を差し入れたそこが熱く疼いていた。
 俺は沙都子にキスをした。


 沙都子はタバコに火を点け、いつものように俺の口に煙草を咥えさせてくれた。
 沙都子の形のいい白い尻が左右に揺れ、冷蔵庫に向かって行った。

 「ビール、飲むわよね?」
 「ああ」

 沙都子は缶ビールを2本持って俺の脇に座ると缶を開け、ひとつを私に渡すと、缶ビールを一口飲んでメンソール煙草に火を点けた。

 「あー、美味しいー。
 セックスの後のビールとタバコは最高」
 「来週、ヨーロッパに出張になった」
 「そう? ヨーロッパのどこ?」
 「アントワープ」
 「アントワープならダイヤモンドのシンジケートがあるわよね? 
 お土産は指輪でいいわよ。サイズはわかっているわよね?」

 沙都子はそうおどけてみせた。

 「ああ」
 「いつ帰ってくるの?」
 「少し長くなるかも知れない。行ってみてからだな?」
 「病気とか貰って来ないでよ」
 「ちゃんと着けるから大丈夫だよ」
 「そういう問題じゃないでしょ? 成田? それとも羽田?」
 「羽田だ」
 「いつ? 何時のフライト? 見送りに行ってあげる」

 そう言って沙都子は俺に甘えた。

 「ただの出張だ。見送りなんて大袈裟だよ」
 「いいじゃない? 愛するダーリンの旅立ちだもん。
 私も一緒について行こうかなあ」

 出来ることならそうしたい。
 俺の最後を沙都子に看取って欲しい。
 だがそれは出来ない。
 俺は静かに消えるために日本を離れることにしたのだから。


 
 当日、沙都子が空港に見送りに来てくれた。

 「気を付けてね?」
 「ああ」

 俺たちは強く抱き合い、熱い口づけを交わした。
 最期のキスだった。

 「じゃあ行ってくるよ」
 「うん、向こうに着いたら電話してね? 待ってるから」
 「ああ」

 私はひとり、出国ゲートへと向かった。

 
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