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第1話
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中世の港町、アントワープに細雪が降っていた。
『飾り窓』の石畳の道は、緩やかに曲がりくねり、どこまでも長く続いていた。
私は思わずビートルズの『The Long and Winding Road』を口ずさんでいた。
この娼婦街もアントワープでは芸術的だった。
『フランダースの犬』の哀しい物語の舞台。
ルーベンスの大聖堂には行っても、この美しくも妖艶な『飾り窓』を訪れる日本人は少ない。
『飾り窓』というのは「娼婦を飾るショー・ウィンドウ」のことである。
大きなガラス窓の両サイドには、それぞれピンクとブルーの蛍光灯が灯り、商品(娼婦)を美しく照らしている。
レースのカーテンを左右に引き分け、エマニエル夫人が掛けていた、あの藤の椅子に同じようなポーズを取って不機嫌そうに座っている、ガーターベルトの下着姿の娼婦。
各々の窓にひとりずつ、鎮座して客を待っている。
彼女たちは東洋人には見向きもしない。
チャイニーズやコーリャンは金払いが悪く、プレイのエチケットを知らないからだ。
俺はショー・ウインドウに息を吹き掛け、曇ったガラス窓に文字を書いた。
Japanese $20
するとニッコリ笑って手招きをするブロンド美女。
入口のドアが開かれ、中に入るとパーテーションの後ろにパイプ・ベッドが置かれていた。
「前金だよ」
ブーツを履いたまま、ブラとショーツを脱いでベッドに仰向けになる女。
「靴は脱がないのか?」
「脱いで欲しければもう10ドルだよ」
私は50ドルを女に渡した。
「いいの? こんなにもらって?
でもアブノーマルはダメよ、100ドルくれるなら好きにしてもいいけど」
「俺にはそういう趣味はない」
彼女は十分に俺の性欲を満たしてくれた。
コトが終わり、身支度を整えながら俺は彼女に尋ねた。
「この近くで食事をするところはあるか?」
「何が食べたいの?」
「中華なんてあるか?」
「あるわよ、この坂を上って2つ目のブロックを右に行けばすぐに見える筈よ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
私はチップとして10ドル紙幣を女に渡した。
「日本人大好き! また来てね? うんとサービスするから」
「ありがとう。また来るよ」
「私はキャサリン。あなたは?」
「俺はマイケルだ」
名前などどうでも良かった。
たまたまマイケル・ジャクソンが浮かんだのでマイケルと名乗ったまでだ。
どうせ「Kitagawa」などと答えても、キャサリンには発音しづらいし、すぐに忘れてしまう。
そして彼女もキャサリンが本名であるとは限らない。
所詮、我々は「疑似恋愛」を演じている、ただの役者同士なのだから。
「じゃあマイケル、また来てね? 待ってるから」
「そのうちまた世話になるよ」
「よろこんで!」
キャサリンは笑って俺にキスをした。
その中華レストランは意外にもしっかりとした深夜営業のレストランだった。
ドイツ人らしき給仕がメニューを渡してくれた。
「おすすめは何だ?」
「この店は何でも美味しいですよ。東洋人なら麺はいかがですか?」
「じゃあそれをくれ」
「かしこまりました」
「それからビールも頼む」
「ビールは何を?」
「アンタが好きなやつでいいよ」
「それならいいのがございます」
ビールを飲んでいると、料理が運ばれて来た。
それは確かに麺ではあるが、「春雨」だった。
日本を離れて二日目、懐かしい味だった。不味くはない。
誰も知り合いのいない異国の街で、白人の女を抱き、そして深夜にひとりで春雨を食べている俺。
俺はそんな自分が滑稽で、声を出して笑った。
何事かとやって来るドイツ人の給仕。
「どうかされました?」
「失礼、あまりにも美味しくて、つい笑ってしまったんだよ」
「そうでしたか。シェフにそう伝えます」
彼はうれしそうに厨房へと戻って行った。
食事を終え、夜中の歓楽街をひとりで歩いていた。
日本ならいざ知らず、外地でそんなことをすればいいカモにされてしまう。
案の定、俺はすぐに地元のチンピラたちに囲まれた。
「チャイニーズか?」
「いや、ジャパニーズだ」
「おとなしくカネだけ置いて行け、そうすれば痛い目に遭う事はない」
「イヤだと言ったら?」
「後悔することになるだけだ」
その男は手際よくバタフライナイフを構えて見せた。
俺は空手の構えをして見せた。
「お前、「ジュードー」が出来るのか!」
外人には空手も柔道も同じだ。
ブルース・リーはヨーロッパでも有名だったが、日本人だと思っている奴も少なくない。
日本人は誰でもブルース・リーのように武術を習得していると信じている者もいる。
「俺たちが悪かった、勘弁してくれ」
そう言うとチンピラたちは去って行った。
私はまた笑った。
「あはははは あはははは」
日本では笑うこともなかったこの俺が、冬のアントワープで大声で笑っている。
私は歩道に降り積もった柔らかい新雪の上に大の字になり、星空を見上げた。
とめどなく降り注ぐ真っ白な雪。
俺はこのまま死んでもいいとさえ思った。
そんな心地良い、アントワープの夜だった。
『飾り窓』の石畳の道は、緩やかに曲がりくねり、どこまでも長く続いていた。
私は思わずビートルズの『The Long and Winding Road』を口ずさんでいた。
この娼婦街もアントワープでは芸術的だった。
『フランダースの犬』の哀しい物語の舞台。
ルーベンスの大聖堂には行っても、この美しくも妖艶な『飾り窓』を訪れる日本人は少ない。
『飾り窓』というのは「娼婦を飾るショー・ウィンドウ」のことである。
大きなガラス窓の両サイドには、それぞれピンクとブルーの蛍光灯が灯り、商品(娼婦)を美しく照らしている。
レースのカーテンを左右に引き分け、エマニエル夫人が掛けていた、あの藤の椅子に同じようなポーズを取って不機嫌そうに座っている、ガーターベルトの下着姿の娼婦。
各々の窓にひとりずつ、鎮座して客を待っている。
彼女たちは東洋人には見向きもしない。
チャイニーズやコーリャンは金払いが悪く、プレイのエチケットを知らないからだ。
俺はショー・ウインドウに息を吹き掛け、曇ったガラス窓に文字を書いた。
Japanese $20
するとニッコリ笑って手招きをするブロンド美女。
入口のドアが開かれ、中に入るとパーテーションの後ろにパイプ・ベッドが置かれていた。
「前金だよ」
ブーツを履いたまま、ブラとショーツを脱いでベッドに仰向けになる女。
「靴は脱がないのか?」
「脱いで欲しければもう10ドルだよ」
私は50ドルを女に渡した。
「いいの? こんなにもらって?
でもアブノーマルはダメよ、100ドルくれるなら好きにしてもいいけど」
「俺にはそういう趣味はない」
彼女は十分に俺の性欲を満たしてくれた。
コトが終わり、身支度を整えながら俺は彼女に尋ねた。
「この近くで食事をするところはあるか?」
「何が食べたいの?」
「中華なんてあるか?」
「あるわよ、この坂を上って2つ目のブロックを右に行けばすぐに見える筈よ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
私はチップとして10ドル紙幣を女に渡した。
「日本人大好き! また来てね? うんとサービスするから」
「ありがとう。また来るよ」
「私はキャサリン。あなたは?」
「俺はマイケルだ」
名前などどうでも良かった。
たまたまマイケル・ジャクソンが浮かんだのでマイケルと名乗ったまでだ。
どうせ「Kitagawa」などと答えても、キャサリンには発音しづらいし、すぐに忘れてしまう。
そして彼女もキャサリンが本名であるとは限らない。
所詮、我々は「疑似恋愛」を演じている、ただの役者同士なのだから。
「じゃあマイケル、また来てね? 待ってるから」
「そのうちまた世話になるよ」
「よろこんで!」
キャサリンは笑って俺にキスをした。
その中華レストランは意外にもしっかりとした深夜営業のレストランだった。
ドイツ人らしき給仕がメニューを渡してくれた。
「おすすめは何だ?」
「この店は何でも美味しいですよ。東洋人なら麺はいかがですか?」
「じゃあそれをくれ」
「かしこまりました」
「それからビールも頼む」
「ビールは何を?」
「アンタが好きなやつでいいよ」
「それならいいのがございます」
ビールを飲んでいると、料理が運ばれて来た。
それは確かに麺ではあるが、「春雨」だった。
日本を離れて二日目、懐かしい味だった。不味くはない。
誰も知り合いのいない異国の街で、白人の女を抱き、そして深夜にひとりで春雨を食べている俺。
俺はそんな自分が滑稽で、声を出して笑った。
何事かとやって来るドイツ人の給仕。
「どうかされました?」
「失礼、あまりにも美味しくて、つい笑ってしまったんだよ」
「そうでしたか。シェフにそう伝えます」
彼はうれしそうに厨房へと戻って行った。
食事を終え、夜中の歓楽街をひとりで歩いていた。
日本ならいざ知らず、外地でそんなことをすればいいカモにされてしまう。
案の定、俺はすぐに地元のチンピラたちに囲まれた。
「チャイニーズか?」
「いや、ジャパニーズだ」
「おとなしくカネだけ置いて行け、そうすれば痛い目に遭う事はない」
「イヤだと言ったら?」
「後悔することになるだけだ」
その男は手際よくバタフライナイフを構えて見せた。
俺は空手の構えをして見せた。
「お前、「ジュードー」が出来るのか!」
外人には空手も柔道も同じだ。
ブルース・リーはヨーロッパでも有名だったが、日本人だと思っている奴も少なくない。
日本人は誰でもブルース・リーのように武術を習得していると信じている者もいる。
「俺たちが悪かった、勘弁してくれ」
そう言うとチンピラたちは去って行った。
私はまた笑った。
「あはははは あはははは」
日本では笑うこともなかったこの俺が、冬のアントワープで大声で笑っている。
私は歩道に降り積もった柔らかい新雪の上に大の字になり、星空を見上げた。
とめどなく降り注ぐ真っ白な雪。
俺はこのまま死んでもいいとさえ思った。
そんな心地良い、アントワープの夜だった。
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