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第4話
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その時、ひとりでパリからアントワープ駅を目指して列車に乗っている女がいた。
嶋村由紀恵、36歳。声楽家。
由紀恵は結婚してパリで暮らしていた。
だが2年前にオーケストラでチェリストをしていた夫が鬱になり、自殺してしまった。
由紀恵は生きる屍のようになってしまった。
飲酒、喫煙、睡眠薬がないと眠れない毎日が続いた。
かつてマリア・カラスの再来と称賛されたソプラニスタの面影は消え、どん底の生活を送っていた。
そんなある日のこと、ネット配信サービスのアニメ番組を何気なく検索していると、アニメ『フランダースの犬』を見付けた。
懐かしかった。子供の頃、よく観て泣いた。
(そうだ、ネロとパトラッシュに会いに行こう)
そして由紀恵は冬のアントワープ駅へと降り立った。
運命の扉が開かれようとしていた。
アントワープ中央駅のコンコースで、俺はじっと待っていた。
「失礼ですが日本の方ですか?」
「静かにしろ。今から始まるんだ」
俺は唇に指を立てて女に言った。
「何が始まるんですか?」
その日本人の女は大きなスーツケースを曳き、喪中のような黒のカシミアのロングコート、ツバの広い黒の帽子に赤いリボンを巻いていた。
突然『ドレミの歌』が鳴り出した。
「始まったぞ。素晴らしいパフォーマンスが」
すると駅のコンコースの中央で、ひとりの中年男が踊り出した。
そして今度は少し遅れて小さな女の子がその男とダンスを始めた。
唖然とそれを見ている駅の乗降客たち。スマホで写真や動画を撮っている者もいた。
そこへまたひとり、またひとりと老人も若者も、そのダンスの輪に加わって『ドレミの歌』を踊り出した。
次々と広がってゆくダンスの輪。
『フラッシュ・モブ』が始まった。
体を揺らして一緒に踊る恋人たち。
その女はそれを見て泣いていた。
「素敵・・・」
パフォーマンスが終わり、大喝采が巻き起こった。
俺も女も叫び、手が痛くなるほど拍手を贈った。
「ブラボー!」
「ブラボー! 初めて見ました! フラッシュ・モブ!」
「時々やるんだ、通行人を装ったゲリラ・ダンス。
今日は『ドレミの歌』だったがジャズ・アレンジのソシアルダンスや、子供たちがバレエで『白鳥の湖』を踊ったりもする。
この駅は「もう一つの大聖堂」と呼ばれているんだ。素晴らしいステージだよ」
「アントワープにはご旅行ですか? おひとりで?」
「旅行? そうかもしれない。人生は旅だからな?」
「私は今さっき、パリから着いたばかりなんです」
「そうか? ところでアンタ、晩メシは食ったのか?」
「どこか美味しいお店とかご存知ですか?」
「近くに安くて旨い店がある。一緒に来るか?」
「いいんですか?」
「アンタは気をつけた方がいい。今会ったばかりの男に簡単について行くもんじゃない」
「私、これでも人を見る目は確かなんです。特に男性は。
今のダンスをキラキラした瞳で見ているあなたは悪い人ではありません」
「馬鹿な女だ。ついて来い」
女は大きなスーツケースを転がして俺の後について来た。
階段を降りる時、彼女の重いスーツケースを持ってやった。
「ありがとうございます。やさしいんですね?」
「アンタがヨタヨタして階段で転んだりされたらみんなに迷惑が掛かるからな?」
「もうー、素直じゃないんだからー」
俺たちは笑った。
駅近くのカフェに入った。
「素敵なカフェですね?」
「ここは何でも旨い」
「お勧めは何ですか?」
「食べられない物はあるか?」
「何でも食べます」
「じゃあ俺と同じ物でいいか?」
「はい、それでお願いします。あー、お腹空いたー。それからビールもお願いします」
コートと帽子を脱いだその女は、パリコレのモデルのようにスレンダーな美しい女だった。
吸い込まれそうな黒い瞳、セミロングの黒髪。細くて長い白い指には結婚指輪の痕が残っていた。
(離婚したばかりなのか? それともわざと外しているのか?)
まあそんな事は今の俺には関係のない話だった。
「ワインじゃなくていいのか?」
「折角ベルギーに来たんだから、やっぱりビールでしょ」
「他に好きな酒は何だ?」
「ジン。断然ジントニック」
俺はジントニックが好きだというこの女が気に入った。
少し気取った女なら、ワインだとかシャンパンを飲みたがる。
「じゃあつまみにはムール貝とフライドポテト。
それからシュリンプ・クロケットでどうだ?」
「あとピュレもお願いします」
「よく知ってるな? ポロネギやホワイトアスパラガスのポタージュだよな?」
「私、大好きなんです! それを飲んで温まったところで冷たいビールをいただく。最高じゃないですかあ」
俺は給仕を呼んでそれらをオーダーした。
ビールはチャイナ・レストランで飲んだ、シメイ・レッド・トラピスト・ビールにした。
ピュレを飲んだ後、俺たちはビールで乾杯をした。
「カンパーイ!」
「いつまでここにいるんだ?」
「飽きるまで」
「それじゃあ日本には帰れなくなるな? この街は人を飽きさせない」
「そんなにいいところなの? アントワープって?」
「俺が知る限り、ここがヨーロッパで一番美しい港町だ。
あの中央駅を見ればわかるだろう? 空港や港、駅はその都市の顔だ。そしてこのビールと料理。
このフライドポテトもジンも、ベルギーが発祥なんだ」
「そうなんですか? だからこんなに美味しいのね?
私、さっきは感動して泣いちゃいました。
もう涙は残ってないと思うほど泣いたのに」
俺はその理由には触れなかった。
大方、男に振られた程度の話だろうと思ったからだ。
彼女は黒のネイルを気にしながら、ムール貝に取り掛かった。
「私、ムール貝って大好きなんです。
日本ではパエリアやペスカトーレにちょっとだけ添えてある程度じゃないですか? 本当はバケツで食べたいくらい大好き。
ビールがとても進むわよね?」
沙都子とは正反対の女だと思った。
ずっと以前から一緒にいたような気さえする。
「私の名前は嶋村由紀恵。未亡人よ、あなたは?」
「北川だ。北川伸之」
「それじゃあ伸之、どうしてアントワープに?」
「気がついたらここにいた」
「じゃあ私と同じね? 私も気づいたらアントワープに来て、伸之とこうして一緒にビールを飲んでる。
不思議よね? 私たち、ずっと前から知り合いだったような気がする」
「前世ではお前が男で、俺が女だったかもしれないな?」
「あははは そして夫婦だったりして?」
由紀恵はクロケットにナイフを入れた。
「ビール、お替り」
「食後のベルギー・ワッフルが入らなくなるぞ」
「大丈夫、別腹だから」
これが俺と由紀恵のアントワープ・ロマンスの始まりだった。
嶋村由紀恵、36歳。声楽家。
由紀恵は結婚してパリで暮らしていた。
だが2年前にオーケストラでチェリストをしていた夫が鬱になり、自殺してしまった。
由紀恵は生きる屍のようになってしまった。
飲酒、喫煙、睡眠薬がないと眠れない毎日が続いた。
かつてマリア・カラスの再来と称賛されたソプラニスタの面影は消え、どん底の生活を送っていた。
そんなある日のこと、ネット配信サービスのアニメ番組を何気なく検索していると、アニメ『フランダースの犬』を見付けた。
懐かしかった。子供の頃、よく観て泣いた。
(そうだ、ネロとパトラッシュに会いに行こう)
そして由紀恵は冬のアントワープ駅へと降り立った。
運命の扉が開かれようとしていた。
アントワープ中央駅のコンコースで、俺はじっと待っていた。
「失礼ですが日本の方ですか?」
「静かにしろ。今から始まるんだ」
俺は唇に指を立てて女に言った。
「何が始まるんですか?」
その日本人の女は大きなスーツケースを曳き、喪中のような黒のカシミアのロングコート、ツバの広い黒の帽子に赤いリボンを巻いていた。
突然『ドレミの歌』が鳴り出した。
「始まったぞ。素晴らしいパフォーマンスが」
すると駅のコンコースの中央で、ひとりの中年男が踊り出した。
そして今度は少し遅れて小さな女の子がその男とダンスを始めた。
唖然とそれを見ている駅の乗降客たち。スマホで写真や動画を撮っている者もいた。
そこへまたひとり、またひとりと老人も若者も、そのダンスの輪に加わって『ドレミの歌』を踊り出した。
次々と広がってゆくダンスの輪。
『フラッシュ・モブ』が始まった。
体を揺らして一緒に踊る恋人たち。
その女はそれを見て泣いていた。
「素敵・・・」
パフォーマンスが終わり、大喝采が巻き起こった。
俺も女も叫び、手が痛くなるほど拍手を贈った。
「ブラボー!」
「ブラボー! 初めて見ました! フラッシュ・モブ!」
「時々やるんだ、通行人を装ったゲリラ・ダンス。
今日は『ドレミの歌』だったがジャズ・アレンジのソシアルダンスや、子供たちがバレエで『白鳥の湖』を踊ったりもする。
この駅は「もう一つの大聖堂」と呼ばれているんだ。素晴らしいステージだよ」
「アントワープにはご旅行ですか? おひとりで?」
「旅行? そうかもしれない。人生は旅だからな?」
「私は今さっき、パリから着いたばかりなんです」
「そうか? ところでアンタ、晩メシは食ったのか?」
「どこか美味しいお店とかご存知ですか?」
「近くに安くて旨い店がある。一緒に来るか?」
「いいんですか?」
「アンタは気をつけた方がいい。今会ったばかりの男に簡単について行くもんじゃない」
「私、これでも人を見る目は確かなんです。特に男性は。
今のダンスをキラキラした瞳で見ているあなたは悪い人ではありません」
「馬鹿な女だ。ついて来い」
女は大きなスーツケースを転がして俺の後について来た。
階段を降りる時、彼女の重いスーツケースを持ってやった。
「ありがとうございます。やさしいんですね?」
「アンタがヨタヨタして階段で転んだりされたらみんなに迷惑が掛かるからな?」
「もうー、素直じゃないんだからー」
俺たちは笑った。
駅近くのカフェに入った。
「素敵なカフェですね?」
「ここは何でも旨い」
「お勧めは何ですか?」
「食べられない物はあるか?」
「何でも食べます」
「じゃあ俺と同じ物でいいか?」
「はい、それでお願いします。あー、お腹空いたー。それからビールもお願いします」
コートと帽子を脱いだその女は、パリコレのモデルのようにスレンダーな美しい女だった。
吸い込まれそうな黒い瞳、セミロングの黒髪。細くて長い白い指には結婚指輪の痕が残っていた。
(離婚したばかりなのか? それともわざと外しているのか?)
まあそんな事は今の俺には関係のない話だった。
「ワインじゃなくていいのか?」
「折角ベルギーに来たんだから、やっぱりビールでしょ」
「他に好きな酒は何だ?」
「ジン。断然ジントニック」
俺はジントニックが好きだというこの女が気に入った。
少し気取った女なら、ワインだとかシャンパンを飲みたがる。
「じゃあつまみにはムール貝とフライドポテト。
それからシュリンプ・クロケットでどうだ?」
「あとピュレもお願いします」
「よく知ってるな? ポロネギやホワイトアスパラガスのポタージュだよな?」
「私、大好きなんです! それを飲んで温まったところで冷たいビールをいただく。最高じゃないですかあ」
俺は給仕を呼んでそれらをオーダーした。
ビールはチャイナ・レストランで飲んだ、シメイ・レッド・トラピスト・ビールにした。
ピュレを飲んだ後、俺たちはビールで乾杯をした。
「カンパーイ!」
「いつまでここにいるんだ?」
「飽きるまで」
「それじゃあ日本には帰れなくなるな? この街は人を飽きさせない」
「そんなにいいところなの? アントワープって?」
「俺が知る限り、ここがヨーロッパで一番美しい港町だ。
あの中央駅を見ればわかるだろう? 空港や港、駅はその都市の顔だ。そしてこのビールと料理。
このフライドポテトもジンも、ベルギーが発祥なんだ」
「そうなんですか? だからこんなに美味しいのね?
私、さっきは感動して泣いちゃいました。
もう涙は残ってないと思うほど泣いたのに」
俺はその理由には触れなかった。
大方、男に振られた程度の話だろうと思ったからだ。
彼女は黒のネイルを気にしながら、ムール貝に取り掛かった。
「私、ムール貝って大好きなんです。
日本ではパエリアやペスカトーレにちょっとだけ添えてある程度じゃないですか? 本当はバケツで食べたいくらい大好き。
ビールがとても進むわよね?」
沙都子とは正反対の女だと思った。
ずっと以前から一緒にいたような気さえする。
「私の名前は嶋村由紀恵。未亡人よ、あなたは?」
「北川だ。北川伸之」
「それじゃあ伸之、どうしてアントワープに?」
「気がついたらここにいた」
「じゃあ私と同じね? 私も気づいたらアントワープに来て、伸之とこうして一緒にビールを飲んでる。
不思議よね? 私たち、ずっと前から知り合いだったような気がする」
「前世ではお前が男で、俺が女だったかもしれないな?」
「あははは そして夫婦だったりして?」
由紀恵はクロケットにナイフを入れた。
「ビール、お替り」
「食後のベルギー・ワッフルが入らなくなるぞ」
「大丈夫、別腹だから」
これが俺と由紀恵のアントワープ・ロマンスの始まりだった。
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