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第3話

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 私には学生時代に付き合っていた、3つ年上の山下浩二という恋人がいた。
 半同棲のような学生生活を過ごしていたが、浩二が大学を卒業し、大手商社に就職すると大阪支社に配属となり、遠距離恋愛を余儀なくされた。

 私はバイトに明け暮れ、そのバイト代で毎月彼のいる大阪を訪れていた。
 それを苦痛に感じたことはなかった。
 浩二に会うことが唯一の楽しみだったからだ。

 
 「卒業したら私も大阪の会社に就職するね?」
 「そうなったらここを引っ越さないとな?
 1Kじゃ狭いから、2LDKのマンションで一緒に暮らそう。 
 それにここ、壁も薄いし」
 「やだもう、浩二のエッチ」

 ふたりの夢は広がるばかりだった。



 浩二が大阪に移り住んでから1年半が過ぎた頃、彼から電話があった。
 私は寝ぼけて携帯を取った。

 「どうしたの? こんな夜中に珍しいわね?」
 「碧、大切な話があるんだ。明日東京で会えないか?」
 「バイトが20時までだから、それ以降なら大丈夫だよ」
 「そうか? じゃあ東京駅のメトロポリタン・ホテルのレストランに21時でどうだろう?」
 「うんわかった。大切な話って何?」
 「それは会ってから話すよ」

 浩二はそう言って一方的に携帯を切ってしまった。
 私はいつもとは違う浩二の元気のない声が気になった。

 (何かあったのかしら?)



 翌日、バイトを終えるとトイレで入念にメイクを直し、汗で汚れた下着を替えた。
 久しぶりに浩二に会えるかと思うと、私の心は躍った。



 店に入ると窓際の席に浩二が座っていた。
 私に気付くと彼は軽く手を挙げた。


 「ごめん、急に呼び出したりして。バイト、疲れただろう?」
 「ううん、平気だよ。浩二に会えてうれしいよ」

 浩二はその言葉を無視した。

 「お腹空いただろう? 何がいい?」
 「そうねー、ヒラメのカルパッチョにウニと手長海老のパスタ、それから少しワインも飲んじゃおうかな? グラスワインを1つ、白で」
 「わかった。じゃあ俺はイカ墨のリゾットで」
 「やだあ、イカ墨のお口にキスするの? ふふっ」

 私は笑ったが、浩二は笑わなかった。



 私たちは当たり障りのない普通の会話をしながら食事を終えた。

 

 浩二と腕を組み、人気の少なくなった夜の東京駅の構内を歩いた。
 突然浩二が立ち止った。

 「碧、俺、子供が出来たんだ。
 相手は部長のお嬢さんだ。俺は責任を取らなければならなくなってしまった。
 ごめん碧、許してくれ。俺、寂しかったんだ」

 私は頭の中が真っ白になり、茫然とした。

 「子供が出来たってどういうこと?
 寂しいと子供が出来るの? ふざけないで!」

 浩二は黙ったまま俯いていた。

 「ねえ、どういうことなのって訊いているのよ!
 答えてよ! 早く!
 何がどうしたのよ! それって別れてくれっていうこと!」
 「ごめん、碧」

 私はグーで彼を殴った。
 何度も殴った。キックもしたが所詮は女の細腕、腕力など知れたものだった。
 浩二は抵抗もせず、私にされるがままになっていた。

 「気が済むまで俺を殴ってくれ。俺はクズだ、クズ男のロクデナシだ・・・」
 「浩二なんてだいっキライ! 死んじゃえバカ!」
 「碧・・・」
 「あなたなんか死ねばいいのよ! そんなダメ男!
 殺してあげる、そしてあなたを殺して私も死ぬから!」

 私はそのまま膝から崩れ落ちた。
 東京駅のコンコースのコンクリートの床が、とても冷たく感じた。

 「消えて! 今すぐ私の前から消えて!
 そんな浩二、二度と見たくない!
 すぐに消えてよ! 今すぐに!」

 浩二は返事もせず、ただ立ち尽くしていた。

 「聞こえてるの? 消えなさいよ早く! もう顔も見たくない!
 そうじゃないと、生まれてくる赤ちゃんも、そして浩二の奥さんになる人も憎むことになるから!」
 

 私は改札を抜け、山手線の階段を駆け上がり、そのまま電車に飛び乗った。
 浩二は追いかけては来なかった。

 都会のイルミネーションの銀河の海を、電車は滑るように走って行った。
 時折すれ違ういくつもの電車。
 私は誰に憚ることなく声を出して泣いた。
 メトロポリスの夜景が涙に沈んだ。



 今もその時の光景は頭から離れない、深い悲しみになっていた。

 
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