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第13話

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 同居の件はひとまず有耶無耶になった。

 碧は早川の嫁になるために結婚したわけではない、レイプ犯の親に気を遣う筋合いなど何処にもないのだ。
 それで本当に揉めるのであれば、真実をぶちまけるしかない。
 碧はそう考えていた。


 碧は自由だったが、かと言って奔放に遊び歩くでもなく、普通に仕事と育児を両立して過ごしていた。
 そして智樹の成長が碧の喜びであり、生き甲斐だった。

 まるで貴族のような知性のある顔立ちとずば抜けたピアノの才能。
 母親として碧の期待は高まるばかりだった。

 そんな碧ではあったが、唯一の楽しみがあった。
 それは智樹のお迎えを早川にやらせる金曜日、仕事帰りに立ち寄るポルトガル・バルでのひと時だった。

 店内にはポルトガルの民族音楽、ファドが流れ、そこは日常を離れた別世界だった。


 「セルベッサー、ポールファボーレ(ビールを頂戴)」
 「シー、セニョリータ!(はい、お嬢様)」
 「セニョリータじゃないけどね?」

 碧とオーナーのロドリゲスは笑った。


 ハモンセラーノにフェジョアーダ、そしてサフランの効いたパエリアを注文し、お酒はシェリー酒の「ドン・ゾイロ」にした。

 碧が食事を楽しんでいると、テーブルの横をスーツ姿の男性が通って行った。

 碧の食事をする手が止まった。それは別れた浩二がいつもつけていた、「マキュワベリ」のムスクの香りだったからだ。
 日本では販売されていないはずの特異な香り。
 それは浩二がヨーロッパに出張した際に買って来たコロンだった。


 「この香り、いいだろう? ムスクだからムラムラするか? 碧?」
 
 浩二はそんな馬鹿げた話をしていたが、欲情したのは事実だった。
 不思議な香り。

 「これがフェロモンという物なのかしら? この獣臭のような独特の香り・・・」

 碧は浩二に抱かれる度にこの香りに酔いしれた。
 あの時のセックスの情景がこみあげて来る。

 もちろんもう浩二には何の未練もなかったが、なぜかあの香りからの呪縛が未だに解けていないことに碧は戸惑った。
 碧はその男性を目で追い続けた。


 彼は50代の白髪混じりの紳士で、スポーツジムにでも通っているのか、背広の上からでも鋼のように鍛え抜かれた肉体が想像できた。

 鼻が高く、気品のある顔立ち。
 彼は一番奥のテーブル席についた。


 その男性も碧と同じものを注文しているようだった。
 


 1時間ほどして、その男性が伝票を持ってレジへ向かう途中、碧のテーブルで立ち止まった。

 「あなたも同じものを? ここのハモンセラーノとフェジョアーダ、そしてパエリアは最高ですよね? そしてこれにはドンゾイロがよく似合う」

 それだけ言うと、彼はそのまま会計を済ませ、ロドリゲスとスペイン語で何か話した後、そのまま店を出て行った。

 
 碧は会計の時、ロドリゲスに訊ねた。

 「さっきのお客さんはどなた?」
 「ああ、霧島社長さんね? たまにフラッと寄ってくれるんだけど、貿易関係の仕事をしているらしいよ。
 はい、おつり」

 それが碧と霧島の初めての出会いだった。

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