エッセイ集『午後のシエスタ』

菊池昭仁

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もう一人のお父さん

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 甲板長の事を船乗りたちは「ボースン」と呼ぶ。
 大工で言えば棟梁である。Boatswainの略だ。

 商船高専を出て、まだ使い物にならない新米の三等航海士(サード・オフィサー)の私を、そのボースンは自分の息子のように可愛がってくれた。
 一応、職位的には私が上司ではあるが、船の事も海の事も知り尽くしたこの50歳を超えた老練な船乗りは、そんな私を絶妙に気遣ってくれた。

 外国船の乗船経験もあるボースンは、私よりも英語が堪能ではあるが、それをひけらかすことはしない。
 私に恥をかかせないためである。
 ブリッジ(操舵室)で当直中によく、日本茶を淹れてくれた。
 ボースンは静岡県の出身なのでお茶にはすこぶるうるさい。

 「サードオフィサー、今、美味しいお茶を淹れてあげるからね」

 だみ声のボースンはうれしそうに言う。
 凄く美味しいお茶だった。初めて飲んだ甘い、上品な出汁のようなお茶だった。

 ボースンは海を見ながら私によくお嬢さんの話をしてくれた。

 「うちの娘はね、太っているんだよ、凄く。でもね、旦那は痩せてんの。
 できちゃった婚でね、でもねー、孫は可愛いもんだよ、もちろん娘もね」

 よく一緒に酒を飲んだ。ロスアンジェルスでタクシーに乗り、飲み屋に向かっていると、

 「イタリアのローマだったかなあ、「実は俺、日本のプリンスなんだ」ってタクシーの運転手に話したの、そうしたらその運転手、「そうかい、その割にはヘリが1機も飛んでねえなあ」って笑うんだよ。イタリア人は粋だよね?」

 そう言って笑っていた。


 日本人のやっている寿司屋で寿司を摘んで飲んでいると、

 「サードオフィサーは何で船乗りになったの?」
 「赤木圭一郎に憧れていたこともありますね」
 「『霧笛が俺を呼んでいる』とか?」
 「そうです」


 1週間後、ボースンはカンバス(帆布)で作った「頭陀袋ずだぶくろ」を作って私にプレゼントしてくれた。

 「サードオフィサー、これあげるよ。赤木圭一郎みたいだろう?」

 今もそれは大切に持っている。


 ある時、ボースンから笑われたことがある。

 「ワカメって緑でしょう?」
 「あはははは、サードオフィサー、ワカメは茶色なんだよ」


 休暇になった時、ボースンの実家からのワカメと静岡のお茶が送られてきた。


 夜の航海当直の時、ボースンがポツリと言った。

 「サードオフィサーが俺の息子だったら良かったのになあ」

 凄く嬉しかった。私もこんな人が自分の父親だったら、もっと器のデカイ男になれたかもしれないと思った。
 タフでやさしい海の男に。



 私は結婚して船を降り、サラリーマンになった。
 携帯電話のない時代だったので、夕方、女房から会社に電話が掛かって来た。
 会社に電話となると、いい話ではないとすぐに直感した。

 「ボースンさんが亡くなったって、さっき娘さんから電話があったわよ」

 女房もボースンを知っていた。
 私は受話器を持ったまま、みんなのいる事務所で泣いた。
 後輩の女子社員が心配して声を掛けてくれた。
 みんなの視線が私に集まる。

 「菊池さん、大丈夫ですか?」
 「ちょっとね。ちょっと、もうひとりの俺の大切な海の親父が死んだんだ」


 そして今、私もボースンの享年を越えた。
 人生はアッと言う間だ。
 
 「ボースン、俺ももうすぐそっちに行きます。またふたりで酒でも飲みましょうね」

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