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第1話

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            エデンの園を追われたエヴァは 
            地上で初めての冬を迎えた
            それを嘆くエヴァに天使は 
            舞い落ちる雪をsnow dropに変えたという



 穏やかな冬の朝だった。
 夫がリビングのレモングラスの鉢に水をやっている。

 「早くご飯を食べないと、会社に遅れるわよ」
 「今日、一緒に病院について来てくれないか?
 この前の精密検査の結果を、一緒に聞いて欲しいそうなんだ」
 「えっ、まさか悪い病気でも見つかったの?」
 「それはないと思うけど、手術という話はあるかもしれない」

 その時、私は酷く悲しそうな夫の横顔を見た。
 夫の光明のそんな顔は今まで見たことがなかった。
 私はイヤな胸騒ぎを覚えた。




 糊の効いた白衣を着た村田医師は、慎重に言葉を選んで話をしてくれた。
 カウンセリングルームから見えるクリスマス前の冬景色は、雪が頼りなく風に漂っていた。


 「ご主人からすでにお聞きになっているかもしれませんが、残念なお話があります」
 
 私はその前置きの一言ですべてを理解し、夫の光明を見た。

 「あなた、知っていたのね?」
 「ごめん、俺からお前に言えなくて、先生にお願いしたんだ」

 村田医師は続けた。

 「ご主人は末期の膵臓ガンです」
 「膵臓ガン?」
 「他にも転移が見られ、手術は・・・、出来ません」
 「・・・」

 夫の光明は、まるで他人の話をするかのように言った。

 「あと、長くて半年くらいだそうだ。
 日本語は便利だよな? 6カ月と聞くと短い気もするが、半年というと、少し長く感じるよな?」

 私の目の前の景色が歪み出した。

 椅子も、会議テーブルも、蛍光灯も。そして夫も村田医師もすべてが泪の海に沈んでいった。
 私は声をあげて泣いた。

 
 

 病院の待合室で会計を待っている間、私はこれは悪い夢を見ているんだと思った。
 だがその悪夢は、一向に醒める気配がない。

 28歳の時、光明と結婚した。職場結婚だった。
 今年で結婚19年、息子の遼は高校2年生になっていた。
 飛行機のパイロットになりたいと言っている。

 今、この隣にいる夫は、あと数か月でこの世を去るという。
 どうして?
 
 夫婦にいつか終わりが来るのはわかる。でも、それを考えたことはなかった。
 遼が生まれるまでは夫を「光明」と呼んでいた。
 私も「加奈子」と名前で呼ばれていたが、いつの間にかそれは「お父さん」と「お母さん」に呼び名が変わっていた。
 こんなに元気そうな人がガン? しかも末期のステージ4・・・。

 
 「ねえ、他の病院も受診してみたら? 誤診ってこともあるでしょう?」
 「そうだな? そうかもしれないな?」
 「だったら他の先生にも診てもらいましょうよ」

 すると夫は斜め上の天井を見てこう言った。

 「そうかもしれない。でも、もういいんだ。
 もう、いいんだよ、加奈子。
 村田先生はね、俺に泣いて告知してくれたんだ。
 俺は先生を信じるよ」
 「何言ってるの! 自分の事でしょう!
 可能性があるなら、それを試すべきよ! 諦めちゃダメでしょう!」
 「加奈子、人はいつかは死ぬんだよ。親父もお袋もそうだった。
 親友だった奥寺もそうだ。
 それが定めなんだよ。人はいつかは死ぬものだからね?」
 「でも、でもあなたはまだ51なのよ! 定年まであと14年もあるのに、そんなの不公平じゃない!」
 「じゃあ、いくつならいいんだい?」

 夫は寂しそうに笑った。

 「遼がパイロットになって、素敵なCAさんと結婚して、かわいい孫が生まれて、そしてその孫が大学生になって彼女を紹介してくれて、それから、それから・・・」

 私は涙が止まらなかった。
 夫の光明はそんな私の手を握ってくれた。

 私はその時、ハッとした。
 光明の手があまりにも冷めたかったからだ。
 それはまるで死人の手のようだった。

 その時私は夫の死を初めて実感した。

 (この人が、この人が死ぬ。死んじゃう!)

 いつの間にか肌を合わせることもなくなった私たちは、お互いの肌の温もりを既に忘れていた。

 「イヤ! 絶対にイヤ! 私よりもあなたが先に死ぬなんて、絶対に許さないから!」

 周囲の憐憫の目が私と夫に注がれた。

 私はこの無機質な冷たい病院から一刻も早く、夫を連れて逃げ出したかった。
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