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第3話

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 私は外食チェーンの店舗開発部の部長をしていた。

 「作田専務、少しよろしいでしょうか?」
 「おお、どうした? 鎌田の新店舗の件か?」
 「専務には大変目を掛けていただき、感謝しています。
 本当にありがとうございました」
 「なんだよ、会社を辞めるような口ぶりじゃないか? どうしたいきなり?」
 「業務の引き継が終わり次第、会社を辞めさせていただきます」
 
 専務の作田はデスクから立ち上がり、ソファへ座ると光明にも掛けるように勧めた。

 「何かあったのか?」
 「実は先日の健康診断で、膵臓癌が見つかりました。
 すでに手遅れだそうです」
 「そうですって、お前、他人事みたいに・・・。
 それで、つまりそのー・・・」
 「あと、持って半年だそうです」
 「そうか・・・。
 俺も3年前に胃癌で手術をして、今も定期的に医者に通っている。
 それは・・・、辛いな?
 確か、高校生の息子さんがいたよな? 遼君」
 「はい」
 「残念だが、仕方があるまい。
 俺もそんなには永くはないだろうから、また、向こうで一緒にやるか? レストラン」

 私は内ポケットから辞表を出して、作田専務の前に置いた。

 「色々とお世話になりました」

 私は涙を流した。
 拭っても拭っても、涙が止まらない。
 作田も泣いた。

 大学を卒業してから、作田と二人三脚でここまで店舗を拡大してきた。
 まだまだこれから事業を躍進させていこうという矢先だった。


 「人はいつか必ず死ぬ。
 俺もお前の気持ちはよく分かる。
 ガンだと言われた時、俺も絶望した。
 俺は今まで何をしてきたのかとな?
 自分に腹も立った。
 何でもっと女房や家族を大切にしなかったのかと反省もした。
 辛いよな? これからという時に・・・」
 「業務は佐々木課長に引き継ます。専務、お身体を大切にして下さい」

 作田は財布から、すべての札を取り出して光明に渡した。

 「とりあえず、これで奥さんたちと何か旨い物でも食べろ。
 身体が調子がいい時は、一緒に飯でも食おうな」

 それを辞退しようとする私に、作田は無理やり札を握らせた。

 「ありがとうございます」

 私は深々と頭を下げた。
 それには10万円以上の厚みがあった。


 一方、私と常務の今村は反りが合わなった。
 どうせ辞めるのだ、気を遣うのは止めて、常務の今村には挨拶をしなかった。



 私は課長の佐々木を会議室に呼んだ。
 
 「佐々木課長、一身上の都合で会社を辞めることになった。
 後の事はよろしく頼む」
 「いきなりどうしたんですか! 部長!」

 と、驚く佐々木ではあったが、口元に喜びが隠せない。
 佐々木は部下の手柄は自分の手柄にし、自分のミスは部下のせいにして課長になった男だ。
 私はそんな佐々木を軽蔑していた。

 「明日から関係先に挨拶をして回るから、一緒について来てくれ、紹介するから」
 「何かあったんですか? ご家庭の事情とかですか?」
 「まあ、そんなところだ。
 作田専務にはさっき辞表を出して来た」
 「寂しくなりますね?」

 反吐が出そうだった。
 佐々木はそういうパフォーマンスが平気で出来る男だった。





 仕事を終え、駅に向かって歩いていると、部下の山岸沙也加に呼び止められた。

 「部長、どうして会社をお辞めになるんですか?」
 「佐々木課長から聞いたのか?」

 沙也加は黙って頷いた。
 佐々木は嬉しさのあまり、部内に吹聴して歩いたようだ。
 だがそれは想定内の出来事だった。
 そして佐々木は今村常務のお気に入りでもあった。
 常務の今村には佐々木から真っ先に報告がいくはずだった。
 つまり、手間が省けるというわけだ。


 山岸沙也加は私の直属の部下だった。
 大学を出て新卒でウチに入社して来た娘だった。
 彼女を採用したのは私だった。
 若いが仕事熱心で、細やかな気配りの出来る娘だった。


 「少し、時間あるか?」
 「はい」

 私と沙也加は銀座に出て、しゃぶしゃぶの店に入った。

 「君にも世話になったな? どんどん食べてくれ」
 「会社を辞めてどうなさるおつもりですか?」
 「旅に出ようと思ってね、女房と」
 「どうしてそんな急に」

 私は沙也加の胡麻タレに、湯に潜らせた肉を入れた。

 「やはりしゃぶしゃぶの最初は胡麻だよな?
 まずは肉を食べよう。話はその後だ」
 「はい」
 
 沙也加は仕方なく肉を口にした。
 だが彼女はすでに最悪の事態を想定しているようだった。
 私も自分の胡麻ダレに肉を入れ、食べてみせた。

 「美味いな? これ。流石は銀座の高級店だけはある」
 
 沙也加は箸を置いた。

 「どうして会社をお辞めになるんですか? 教えて下さい」

 私は彼女に告白した。

 「ガンになってしまったんだよ。もう手術が出来ないそうだ」

 私は今度はポン酢につけて肉を食べた。
 
 「どうして、どうしてそんな・・・。
 部長はまだ、これからじゃないですか!」
 「仕方ないよ、なっちゃったんだから。
 ステージ4って本当にあるんだな? あと半年だそうだ。
 うん、旨いな。
 山岸君も食べなさい、若いんだから」

 沙也加は俯き、嗚咽した。

 「どうして、どうして部長が・・・」
 「山岸君のお父上は、確か3年前に亡くなられたよね?
 俺にもその順番が回って来た、ただそれだけのことだ。
 君も今は若くて美しいが、いつかは死ぬ時が来る。絶対にだ。
 これは人間の定めなんだよ、生き物すべての必然なんだ。
 いいから、食べなさい、せっかくの松坂牛なんだから」
 「はい・・・。」

 沙也加は泣きながら肉を口にした。
 
 「どうだ? 美味いだろう?」
 「わかりません、お味なんて・・・

 それが彼女との最期の晩餐になった。




 「ただいまー」
 「お父さん、お帰りなさい。今日もお疲れ様」
 「あなたお帰りなさい。お風呂が先よね?」
 「ああ、そうするよ」
 「ご飯は? 今日はカレーだけど」
 「職場のやつと軽く食事をしたが、ママのカレーなら少し貰おうかな?」
 「ママのカレーはすごいよ、神保町でも十分やれるよ」
 「ありがとう、遼」

 
 私は湯舟に浸かり、声を押し殺して泣いた。
 死ぬ覚悟など、まだ出来てはいなかったからだ。

 私は死ぬのが怖かった。
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