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第9話

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 気付けば1月も終わり、2月になった。
 私は後悔していた。

 (私はあの人に何もしてあげられなかった)

 私はただあの人に甘えていただけ。私は本当に夫を愛していたのかしら?
 私の自問は続いていたが、それについての答えは出せないままだった。

 男と女が偶然に出会い、恋をし、愛し合い結婚する。
 結婚すると、生活の中で現れる様々な問題に直面する。
 そしていつの間にか、それにより夫婦は恋愛を忘れていく。
 あんなに好きだったのに、あんなに愛し合っていたのに・・・。
 
 携帯のない時代、彼と長電話をして、よく母から叱られたものだ。
 メールもLINEもなく、山ほど手紙を書いた。

 やがて遼が生まれ、私は子育てに必死だった。
 そしていつしか夫婦の共通の目的が、子供を立派に育てることになっていった。

 遼は素直なやさしい息子に成長し、パイロットになりたいという夢に向かって頑張っている。
 
 「定年になったら、ふたりで旅行したいね?」
 「そうだな」
 
 決して不幸な暮らしではなかった。
 真面目で誠実で、口数の少ない夫。
 会社でもそれなりに出世もし、収入も増え、おかげで私は専業主婦でいることが出来た。

 郊外に庭付きの一戸建ても建て、経済的にも安定した生活を送っていた。
 そして、その夫がもう永くは生きられないという。


         夫が死ぬ


 そんなことは考えもしなかった。
 これから私はどうすればいいのだろう? どう生きて行けばいいんだろう?

 遼も大学生になればこの家を出て行き、夫がいなくなってしまえば私は独りぼっちになってしまう。
 夫の病院へ持って行く、夫の着替えを紙袋に詰めながら、私は誰もいないリビングで声を上げて泣いた。





 病院に着いた。
 日増しに衰弱していく夫を見るのが辛かった。
 私は出来るだけ明るく振舞った。

 「はーい! 加奈子クリーニングでーす!
 具合はどう?」
 「毎日来なくても大丈夫だぞ、悪いな、いつも」
 「ねえ、旅行の続きをしない?」
 「それは難しいだろうな? また倒れると嫌だし。
 それに、歩くのも辛くなってきたしな?」
 「遠くじゃなくて、近所の公園の旅行よ」
 「そうか、それならいいかもな? でも、それは旅行とは言わない、散歩だ」
 「いいの、いいの。私には旅行なんだから」



 村田医師の許可を貰い、夫を車椅子に乗せ、私たちは日曜日の公園に出掛けた。
 SUNDAY PARK。

 肌寒い日曜日の午後だった。
 思い思いに休日を楽しむ人たち。
 小さな子供をつれた若夫婦、中年の夫婦らしき男女、ベンチで本を読んでいる女性、ただじっと空を眺めている老人・・・。様々な人生がそこにあった。


 「寒くない?」
 「ああ、大丈夫だ。気持ちのいい風だな? 天気もいい」
 「そうね?」

 いつもそうだった。いつもこの人の口癖は「大丈夫」だった。
 大丈夫じゃないのに、いつも「大丈夫だ」と言っていた。

 そしていつの間にか、私はその「大丈夫」をすっかり信じてしまっていた。
 今、彼は大丈夫ではないのに、また、「大丈夫だ」と言っている。
 寒くないというのは痩せ我慢ではないだろう。でもそれは、死にゆく自分に対する「大丈夫」なのかも知れない。


 「加奈子、見てご覧よ、あの人もこの人も幸せそうだ。でもみんな、いずれは死ぬんだよ。
 あの人もこの人も、誰一人の例外もなく、死は平等にやって来る。
 あの小さい子供も、あのおばあちゃんも、そしてあそこで子供とキャッチボールをしているお父さんも。
 死ぬのは俺だけじゃないんだよ、死ぬのは」
 「ごめんなさい、私、今まであなたに何もしてあげられなかった。
 あなたにはたくさん・・・、してもらったのに」

 涙が止まらない。

 「そんなことはないよ、加奈子はたくさん俺に尽くしてくれた。
 本当に感謝しているんだ、ありがとう。
 掃除に洗濯、料理にアイロンがけ、それに靴も磨いてくれた」
 「そんなことはどこの奥さんでもしていることじゃない」
 「そうじゃない、大切なのはそれをどういう気持ちでしてくれているかなんだ。
 ただ機械的にそれをするのと、相手のことを想ってしてくれるのとでは大違いだ。
 それだけじゃない、俺は君にたくさんの愛情を貰った。
 感謝しているよ、加奈子」
 
 私は車椅子を押すのを止め、後ろから光明に抱き付き、泣いて詫びた。
 
 「ごめんなさい、ごめんなさいあなた。
 私はあなたに何もしてあげなかった。もっと色々沢山してあげられたはずなのに」

 すると夫は私の手を握って言った。

 「そんなことはない。それは俺の言うべきセリフだ。
 加奈子、何もしてあげられなくて、ごめんな?」
 「そんなことはないの、そんなことはないわ。
 あなたは私にたくさんしてくれた」
 「だったらお互い様だ。
 どんなに尽くしたところで、これでいいなんてことは無いんだから。
 俺はようやくわかったんだ、夫婦というやつがどういうものかを」
 「夫婦って何? 私にはわからないわ」
 「夫婦って、結局「戦友」なんだよ。
 人生には辛い事ばかりだ。それをひとりで乗り越えるには辛いが、夫婦という関係がそれを助けてくれる。
 苦しみは半分になり、喜びは何倍にも増幅される。
 それが夫婦だよ、人生という嵐を乗り越えるための」
 「乗り越えられない大きな嵐が来たらどうするの?」
 「耐えるしかない、ふたりで。
 船乗りたちは酷い嵐の時、やるだけの事をしたら、あとは嵐が過ぎるのをじっと待つんだそうだ。 
 いい話だと思わないか? 嵐の海を身を寄せ合い、それにじっと耐えるって?
 俺は加奈子と結婚して、本当に良かったと思っている」
 「夫婦って、一緒にいるだけでいいのね?」
 「そうだよ、そこに夫婦の絆があるんだ。
 だから加奈子はそれでいいんだよ、今のままで」


 私の足元に、5才くらいの女の子が遊んでいたボールが転がって来た。
 私はそれを拾い上げ、少女へ渡した。

 「ありがとう、お姉ちゃん」

 女の子は両親のところへ走って行き、楽しそうにボール遊びを続けた。

 
 「お姉ちゃんって言われちゃった」
 「よかったな?」

 その日の日曜日の空は、どこまでも青かった。
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