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第10話

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 病室のフロアにある談話室。
 そこからはドクターヘリの離発着を見ることが出来た。

 息子の遼は学校が終わると、いつも病院に寄ってくれた。
 
 「コーラでいいのか?」
 「うん」

 私は自動販売機からコーラと珈琲を買うと、遼とふたりでドクターヘリの着陸する様子を眺めていた。
 それはまるで、白鳥が水辺に降りるように優雅だった。

 「いいよなあ、空を飛べるって」
 「ヘリはいいよね? 滑走路がいらないからどこでも離着陸が出来るから」
 「俺が中学の頃、イギリスの垂直離着陸戦闘機「ハリヤー」っていうのがあったけど、今もあるのか?」
 「垂直離着陸機と言えばハリヤーだけど、今は改良機のAV-8ハリアーになっているんだ。
 岩国のアメリカ海軍第12海兵飛行大隊・第121海兵戦闘攻撃中隊に配備されたのがF-35Bなんだけど、これはVTOLじゃないんだ。
 AV-8はSTOL/VTOL機なんだけど、F-35Bは燃費、積載量、ステルス性においても格段の性能があるんだよ」
 「つまり、最新鋭機のF-35Bは垂直離着陸は出来ないが、短い距離での離発着が可能であれば、それでいいということだな?」
 「おそらくその必要性がなくなったんだろうね? 垂直離着陸のジェット戦闘機は、ステルス性が高ければそれだけ攻撃力が高まり、機体とパイロットを対空砲火や追尾ミサイルで失うこともないからね?」
 「遼は本当に好きなんだな? 飛行機が」
 「うん、大好きだよ。でも、パイロットになるのはもう諦めたんだ」
 「どうして?」
 「医者になろうと思う、外科医に。
 だから来年は国立の医学部を受験することにしたんだ。
 私立はお金が大変だからね?
 担任の先生にも相談したら、「それもいいかもしれないな?」って言われた」
 「そうか」
 「どうしてだって訊いてくれないの?」
 「大体の想像はつくからな」
 「そうだよ、僕、お父さんの病気を治したいんだ。
 この大学病院に来て知ったんだ、こんなに沢山の病気やケガで苦しんでいる人がいることを。
 僕はお父さんのおかげで新しい夢が出来たんだ。
 この人たちを、ひとりでも多く救える医者になりたい」

 息子なら必ずいい医者になるだろう。
 私は息子の遼がこんなにも立派に成長したことが嬉しかった。

 加奈子も私も、遼に対して自分たちの理想を押し付けるような事はして来なかったつもりだ。
 ただ、息子が成長していく姿を見るだけで、それだけで満足だった。
 
 「勉強しろ」などと言ったことはなかったが、遼はいつも全国模試の上位に名を連ねていた。
 高校の担任からも「遼君の成績なら東大、京大レベルですよ」と言われていた。
 そんな遼が「飛行機のパイロットになりたい」と言った時にはうれしかった。
 自分の将来の生き甲斐を見つけてくれたからだ。
 人生に必要なのは「生き甲斐」だ。人生には意味のない名誉や賞賛よりも、「何のために生きるのか?」という人生に於ける目的が大切だからだ。

 「お父さん、退院したらまた釣りに行こうよ」
 「海釣りにか?」
 「うん、海がいいな、船に乗ってさ」
 「ママと三人で行くか?」
 「ママも喜ぶと思うよ、子供の頃、よくみんなで出掛けたもんね? お弁当を持って釣りに?」
 「そうだったなあ。釣りに動物園、水族館。山登りにスキー」
 「僕が小学生の時、ハワイにも連れて行ってくれたよね? あの時なんだ、僕がパイロットになりたいと思ったのは」
 「そうだったのか」
 「お父さんもカッコ良かったよ、現地の人と英語で話していて。
 僕もお父さんみたいに外人と話したいと思ったから、英語も一生懸命勉強したんだ。
 お父さんは僕のヒーローなんだよ」
 
 私は横顔で笑った。
 正面を向くと、涙が零れそうだったからだ。


 ついさっき病人を下ろしたばかりのドクターヘリが、再び大空へと飛び立って行った。
 優雅な遊覧飛行ではなく、そこには一刻を争う救命のための緊張感が漲っていた。

 私と遼は、ヘリが無事に帰ってくることを祈った。
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