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第9話

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 蘭子と大徳寺は家の打ち合わせをしながら、週2回の逢瀬を楽しんでいた。


 「本当は毎日でも会いたいくらい。いつもあなたの事ばかり考えているのよ」
 「僕も同じです。蘭子さんのことは5分に一度は想っています」
 「5分に一度じゃイヤ。常に想っていてちょうだい、私のことをいつも。  
 私のことだけを考えていて欲しいの、お願い」
 「わかりました。蘭子さんのことだけを考えます」


 今日はアシスタントの野村園子が休みの日だった。ふたりは三軒茶屋のアトリエにいた。
 蘭子の肖像画を描くために。

 「では蘭子さん、お願いします」
 「綺麗に描いてね?」

 蘭子は大徳寺に背を向け、服を脱ぎ始めた。
 ニットのグレーのワンピースを脱ぎ、ブラを外すと蘭子は恥ずかしそうに胸を手で押えて振り返った。

 「美しい。なんて美しいんだ・・・」

 蘭子が胸から両手を離すと白いショーツも脱ぎ、全裸になった。

 「そこの椅子に掛けて下さい」

 大徳寺はやさしく蘭子にキスをし、蘭子の顔の向きや足と手の位置を入念に調整した。

 「目線は窓の方にお願いします。では全力で描きます、僕の最高傑作にしてみせます。
 蘭子さんを、美しい蘭子さんを僕の絵の中に留めておきたい。永遠に。
 動画といった下劣で下品な物ではなく、永遠の美として後世に蘭子さんを残したいのです。
 手は口元に。
 そうです、そして少し顎を上げて下さい。
 すばらしい、すばらしいですよ蘭子さん!」

 窓から差し込む陽射しが、蘭子の博多人形のような肌を照らし、栗色の巻き毛が光に解けた。

 大徳寺は黙々とデッサンを描き続けた。
 一心不乱に目をギラつかせ、カンバスに向かった。

 「素晴らしい! なんて美しいんだ!」
 「先生、ちょっとお手洗に行きたいんですけど」
 「すみませんでした。つい夢中になってしまいました。
 では少し休憩にいたしましょう」


 トイレから戻った蘭子に、大徳寺は新しいスモッグを渡した。

 「よろしければ、これを羽織っていてください、今、飲み物を持って来ます。
 ルイボスティーでもよろしいですか?」
 「ありがとう、先生」
 
 蘭子が大徳寺を「先生」と呼ぶには理由があった。
 それは夫や野村の前で、無意識のうちに大徳寺を下の名前で呼ばないようにするためだった。
 
 そしてもうひとつ。それはバージンを捧げた高校の美術教師、園部のことをそう呼んでいたからだった。
 別に今でも園部のことが気になっているわけではなく、恋愛の対象が先生と生徒という「禁断の関係」に憧れがあったからだ。
 そして今、不倫という恋に「先生」というさらなるスパイスが加えられた。
 蘭子は大徳寺に抱かれている時、「先生」とよく連呼していた。


 「不思議な気分ですよ、建築家なのに画家になった気分です。
 建築画や静物画は描きますが、女性のヌードを描くのは初めてです」
 「先生は何処で絵の勉強をしたの?」

 蘭子の赤いルージュが、ルイボスティのグラスに付いた。
 
 「子供の頃からずっと絵を描くのが好きでした。 
 高校の時は美術部で、それなりに描いていましたが、本当は藝大に進みたかった。ですが大学で経済学を教えていた父の反対で、第二志望の建築に進むことにしました。
 でもようやく夢が叶いました。
 美しい女性を描くことが。
 ありがとう、蘭子さん」
 「そうだったの?
 それではまた、続きを始めましょうか? 先生の芸術作品のために」
 「お願いします」

 蘭子はスモッグを脱ぎ捨て、ふたたびポーズを取った。


 すると突然、アトリエのドアが開いた。
 野村だった。

 「先生、忘れ物があり・・・」

 野村と蘭子は目をそらした。

 「ノックくらいしたまえ! 僕たちは今、美の創造の最中なんだ! 馬鹿者!
 葛城夫人に謝りたまえ!」
 「失礼しました、邪魔をしてしまい・・・」
 「いいから早く用事を済ませて出て行きなさい」
 「はい・・・」
 
 野村は何も取らずにそのままドアを閉め、アトリエを出て行った。
 いつも冷静な野村も、さすがに驚いていた様子だった。
 だが野村の目には嫉妬の炎のゆらめきがあった。

 「安心して下さい、野村は軽率なことはしません。このことを他人に口外することはありませんから」

 大徳寺は何事も無かったかのように、そのままコンテを握り、描き続けた。

 「野村さん、かなり驚いたでしょうね?」
 「彼女は僕の信者ですから驚きはしません。ただ・・・」
 「ただ?」
 「おそらく彼女はあなたに本気で恋をした可能性は否めません。
 彼女はレズビアンなのです。
 彼女に蘭子さんを盗られないか、それだけが心配です」
 「野村さんが同性愛者?」

 確かに彼女はいつもパンツルックでボーイッシュだったが、女性が好きだとは思わなかった。
 野村は大徳寺のゼミの後輩だった。

 「彼女は僕のアシスタントではありますが、素晴らしい才能を持った建築家です。
 女性建築家として独立してもいいと言っているのですが、まだここに居てくれています。
 優秀な弟子なので、私は助かっていますけどね」

 そう言って、淡々と描き続ける大徳寺に、芸術家とはそんなものかと蘭子は思った。


 「今日はここまでにいたしましょう。
 近くに美味しいイタリアンの店がありますから、ご案内します。
 ジェノバで修業した、僕の友人の店です」

 蘭子と大徳寺はアトリエを出た。



 『クッチーナ』というそのビストロは、イタリアの下町にあるような漆喰の壁と古木で作られた、シンプルなお店だった。


 「いらっしゃい、今日はすごい美人と一緒じゃないか大徳寺? どこの女優さんだい?」
 「蘭子さんだ、美しい人だろう? 女優よりも美しい女性だ」
 「やめて下さいよ、恥ずかしい。
 こんにちは、葛城です。素敵なお店ですね?」
 「いい店でしょう? 大徳寺が設計してくれたんですよ、とても気に入っています。
 こいつは天才ですよ。
 イタリアに居た時、わざわざジェノバの僕の修業先までパスタを食いに来ていたヘンな奴です」
 「この通り口は悪いがこいつの料理は最高です」
 「まあな? 天才シェフに天才建築家、いい取り合わせでしょう? 蘭子さん?」
 「ええ、とても」

 三人はイタリア人のように陽気に笑った。


 料理が運ばれて来て蘭子は驚いた。
 夫に連れられて、よく都内の一流といわれるイタリアンも食べたが、ここのイタリアンは別格だった。
 一言で言えば「客に媚びない料理」だった。

 食材の違いもあるが、すべてにおいてイタリアの伝統に基づく彼のオリジナリティが存在していた。

 「どうです? 旨いでしょ? 
 アイツはイタリアンの巨匠です。
 実はここはアイツの隠れ家なんですよ。
 本店は銀座にあり、会員制になっていて、各界の著名人の御用達なんです。
 でも彼は言うんですよ、「皿の前ではみんな平等だ」ってね? 矛盾しているでしょう?
 いつもは行列なんですけど、今日は定休日なんです。
 私たちのために特別に開けてくれました。蘭子さんと僕の貸し切りです。
 どうしても蘭子さんに彼の料理をご馳走してあげたくて」
 「すばらしいお料理です。都内の気取ったイタリアンのレベルをはるかに超えています」


 夕暮れの街の静かなレストラン。
 蘭子は幻想の世界にいるような気分だった。

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